第4話
「アンセム」は国際政府からテロ組織に正式に指定されている団体である。略称はATH。先日逮捕されたジャック・ルイスリーもここの所属である。もともとは銃火器の販売業者が母体となっているらしい。民族間同士の対立を煽り、資金援助と直接的な武力支援を行っている。国際政府の目的は世界平和指数を百まで引き上げることだが、それが叶わないのはこのアンセムの影響によるものだという。
金銭に関する欲望が薄いランクトンにとって、金を得るために戦争を起こすことのできる精神性が理解できなかった。しかし、アンセムによって自分が飯を食えているのは一つの事実だった。
ヤード沖の海戦では地元反乱軍に対して巨額の資金投資をし、世界平和指数を一時期九十二まで引き下げた。アンセムが聖戦と呼ぶ、その戦争はDOGsの汚名として時たま話題に上る。
武力で負けた次は交渉術でもアンセムに敗北することになった。特に第二次シャルマー内戦では、アンセムの軍事支援と交渉によって独立派が大勝し、世界政府とは完全に独立した民族社会が現在も続いている。そしてそれが原因で、第二次と比べ小規模であるものの、第三次内戦を引き起こされた。内戦は解決したものの、蓋を開けてみればアンセムの一人勝ちという状況だった。一時期九十五まで回復した世界指数は四半世紀ぶりに九十を下回り、一時期は深刻な(独立国を除く)大恐慌に襲われることになった。
アンセムは世界の脅威であり、それほどまでの影響力を持っている。そしてその中心人物がジャック・ルイスリーという一人の男である。この男の見る景色とはいったいどんなものだろうか。ランクトンには興味深いものだった。
しかし、その一方で金銭のためだけに、ここまでのリスクを犯す必要性については、ランクトンにはまったく理解できなかった。経済システムの合理化が進んだ現代において、ほとんど働かなくとも、最低限度の生活を送ることはできる。それから、戦争屋よりも儲けの良い仕事など、この世界においてはごまんとある。ジャック・ルイスリーの知能を活用すれば宇宙開拓会社の社長とて容易いことだろう。それが何故、こうも野蛮で原始的な行動に移るのだろうか?
ジャック・ルイスリーはDOGs本部の所在の市と同じ場所にある……おそらく、彼と直接会う必要があるだろう、とランクトンは見当をつけた。唾を飲む。今日は未知の存在と二回も遭遇しなければいけない。そして、そのどちらも頭脳明晰では片付かないほどの、聡慧さだという。しかし、実際に見てみなければわからない。もしかしたらこけ脅しか、アンセムという巨大なグループが生み出した、巨大な虚像なのかもしれない。突然、ランクトンの心の中にはなんとも言えない不安が生まれていた。
「なぁポールフ」とランクトンは彼のデスクの前まで歩いて訊ねる。「クライム・ネットがジャック・ルイスリーという男をあまりにも過大評価している可能性は……」
「無いね。今のご時世、情報にモザイクが掛かっていないのはそことポルノサイトだけだ。いい加減、何かの勘違いかもっていう思考はやめなよ、ランクトン。政府は君みたいな人間を反乱分子と判断して、処刑するかもしれない」
そう言ってポールフはベーグルに齧りついた。自分の考えが次々と却下されるのは面白く思えない。しかし、ランクトンは自分がそこまで賢いわけでも、知識の海が深いわけでもないことは理解していた。おとなしく引き下がる。
俺はそもそも知っているはずだ……とランクトンは自分に言い聞かせる。ジャック・ルイスリーという男は一筋縄ではいかないところがあって、この変動しない世界平和指数の謎も、やはり、少なからず彼の思惑が混じっているに違い無い。
柄にもなく、難しいことを考えているからか、ランクトンは突然飢餓感に襲われた。
「それ、やっぱり一つくれないか。起きてすぐに呼び出されたものだから朝食を食い損ねた」
「一階に行けばサプリメントがタダで配られてる」
「……俺が悪かったよ、ポールフ。一個分けてくれ」
「いいでしょう」と言って彼は太く短い腕を箱の中に伸ばしてセサミのベーグルを渡した。ランクトンはそれに齧る。パサパサしていて、味付けも微妙。正直そこまで美味しいわけではないが、不満はベーグルと一緒に飲み込んでしまう。何かハムとか無いのか、と訊ねようと、ポールフのデスクへと目を向けると、そのまま彼の視線はデスクの上に置かれたディスプレイに吸い寄せられた。映し出されている文様は、一つの不気味な調和を持っていた。
「ところで……これは?」
明滅する黒と白の画面。七連結のニュートンのゆりかご。逆さまになったセフィロトの樹。それは一種の奇妙な宗教画のようなイメージで、それはぼんやりと揺れ動いている。なんとも、チープなものだろうと思った。しかし、ポールフは先ほどからそれに魅入られたように見ている。それからそれが映し出されているデバイスとはまた別のデバイスに数字を入力している。風変わりなゲームというわけではなさそうだった。
「こいつはヘカテログっていうんだよ」
「ヘカテログ? なんだ、それは?」
「わからない」
「わからない?」
「ストーンヘンジと同じようなものさ。ある時、突然、ふっと現れたページだ。なんのために作られたのか、そもそもこいつがなんなのかすらもわからない。複雑なプログラムの塊であることだけがわかっている——暇人のナード共の間では今、ヘカテログの暗号を解き明かすことが『トレンド』になっている」
その熱量の一部でも、世界平和指数の謎の解明に向けてくれたら、こちらとしても大助かりなんだがな、とランクトンは思った。
「その暗号は難しいのか?」
「難しいなんてもんじゃない。理不尽だ」
「理不尽?」
「長さも条件も一切提示しないで、四角形の面積を求めろ、と。まぁ、君にわかりやすく説明すると、そんな感じの暗号だ」
「ブラフマAIのような高性能演算機器を持ち出しても解けないか」
「無理だね。計算ドリルを解くのにチェーンソーロボを持ち出すようなものだよ」
「よくわからんが……勤務中にも手を出すなよ。『デブのゴーティ』にどやされるからな」
気付けば、バディの時間はすぐそこまで迫っていた。ランクトンはポールフに別れを告げると、社員証を取り出して二階ロビーへと向かった。
ビル内部には多くの人間がいる。新たなバディである「カエサレア・ファースト」というアンドロイドの外見的特徴について、ランクトンは一切知らされていなかった。ポールフが会話の中でそのアンドロイドに対して「彼女」という代名詞を用いていたことから、女性型だろう、ということは推察していたが、髪の毛の色からファッションセンスまで、何から何までわからないことが多い。
どうやって探したものかな、とランクトンが髪の毛を掻いていると誰かが彼の名前を呼ぶ。
「貴方がエンケラ・ランクトンですね」
凛とした声、それでいて抑揚の薄いイントネーション。特有の声の調子から、その声の主が「カエサレア・ファースト」なるアンドロイドであることをランクトンはすぐに理解した。
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