第6話

 次女の陽子が、小学校へ入学した年であった。

 その日は猪俣が、お母様のお供で康夫宅を訪れていた。

 長女の永子が九歳、三女の静子が六歳で、三人の娘たちは利発に育っている。三人共両親に似て、身長が標準以上に大きかった。そして幸いなことに、揃って二重瞼にぱっちり目の可愛い顔をしている。

 康夫は不思議だった。なぜ娘たちは、貞子に似ていないのだろうと。きっと娘たちは、隔世遺伝という人類の神秘にならい、幸運にも外見に関して祖母の遺伝子を引き継いだのではないだろうか。お母様と子供たちが並ぶと、彼女が娘たちの本当の母親みたいに思えるくらい、よく似ているのだ。

 性格は康夫に似て、三人共おっとりしている。そしてよく笑う。祖母のように、氷のような冷徹な雰囲気は持ち合わせていない。もっともお母様も、康夫には優しかった。相変わらず満身の笑みを見せることはないが、その日も孫娘に癒やされ、雰囲気は和やかである。

「康夫さんが貞子と結婚してくれて、本当によかったわ。だってこんなに可愛い孫に恵まれたんですもの」

「そう言って頂けると救われますよ。だって僕は、会社では全くうだつが上がらなくて、男としては失格だと悲観しているものですから」

「そんなことは気になさらないことよ。会社での出世が男の価値を決めるなんて、馬鹿げたことです。その辺りのことは、貞子もよく分かっていますよ」

 確かに貞子は、康夫の会社での評価や出世など、まるで気にする様子はない。

 猪俣はエプロンを付け、台所で貞子と一緒に夕食の準備をしていた。リビングでは永子が宿題をやり、陽子がテレビのアニメを観ていた。そして静子が、ノートにお絵描きをしている。お母様が目を細めて、静子の描く女性モデルの絵を見ていた。少女が夢見る、ニューファッションの髪の長い女性の絵だった。静子は描いた絵に色を付け出している。

 そこに部屋の呼び鈴が鳴った。康夫が立ち上がりインターフォンのモニターを覗くと、二人の男が映し出されていた。一人はハンチング帽をかぶった中年で、もう一人はトレンチコートを着込んだ青年だ。二人はマンションのエントランスから呼び鈴を押したのだ。

「どちら様でしょうか?」

 中年の方が手帳を差し出して答えた。

「麻布署の者ですが、少しお話を伺いたいので宜しいでしょうか? お手間は取らせません」

 確かに二人は、刑事のような雰囲気を持っている。若干崩れた格好に、何でも見透かしているような目付き。そして相手に嫌と言わせない図々しさが、慇懃な言葉の裏に見え隠れしていた。

 康夫は一瞬思案した。彼らは猪俣やお母様がいることを知って、ここへやって来たのではないかと。

 康夫は少しお待ち下さいと言い、一旦インターフォンを保留にした。これで相手にこちらの声が届かない。そして解錠のボタンを押さなければエントランスの自動ドアは開かず、彼らは中に入れないのだ。

 猪俣に相談すると、彼は怪訝な顔を作りながらも、通して構わないだろうと言った。お母様も頷く。康夫はインターフォンを再開した。

「お待たせしました。今開けますので、エレベーターで上まで来て下さい」

 康夫が解錠のボタンを押すのと、相手の恐れ入りますという言葉が同時だった。

 インターフォンを切り、康夫は刑事を待った。ドアの呼び鈴が押されるまで、通常はほんの五分くらいのものだ。

 そこで猪俣の携帯が鳴る。外で張り込んでいた護衛からだった。猪俣は携帯に耳を当てながら、「なんやとぉ」と叫んだ。その絶叫にみんなの視線が集まる中、次に猪俣は「あほんだらぁ」と言って携帯を切った。

「猪俣、どうしたのさ?」お母様が澄ました顔で尋ねる。

「怪しい奴らが、大勢乗り込んできやがったみていです」

「誰なの?」

「警察じゃぁなさそうですぜ。相手は十人。どれも人相の最悪な連中のようです」

 お母様はそれを聞いて笑った。

「猪俣、お前は人様のこと言えないだろう」

 敵は刑事の振りをした二人組がオートロックの内側に入り、そのあと仲間をマンション内部へ引き入れたのだ。エントランス前に車を横付けし大勢がマンション内へなだれ込んだが、それがあっという間で、少し遠巻きに張り込んでいた猪俣の部下が駆け付けたとき、既に敵は全員、オートロックドアの内側に入っていた。

 それが本格的な奇襲ならば、マンションのドアくらいはすぐさまこじ開けられる。いや、もしかしたら相手は、周到に合鍵を用意しているかもしれない。ドアチェーンはカッターで簡単に切られてしまう。

「姉さん、お嬢、若旦那、みんな急いでこっちへ来てくだせい」

 猪俣は、全員を子供部屋に連れていった。そして壁に備え付けられたクローゼットの扉を乱暴に開け、半身を中へ入れる。猪俣がクローゼットから出ると、驚いたことに奥には更に扉があり、別の部屋へと繋がっていた。

「なにこれ?」

「説明はあとです。とにかく早くこっちへ逃げて下せい」

 孫娘、お母様、貞子と、順番に抜け道の奥へと吸い込まれていく。

「さあ、若旦那も早く。あっしはここで敵を足止めしやす」

 康夫は少し思案して、「家族には猪俣さんが付いていてくれませんか」と言った。「この先で敵に遭遇しても、僕には家族を守り切る自信がない。でも猪俣さんなら、一人で一個小隊並みですから」

「若旦那、これは隣の部屋に通じていやす。そこで暫く隠れていたら安全ですぜ」

 猪俣はそう言って康夫を説得したが、康夫は首を縦に振らなかった。隣の部屋だろうが、そこで孤立してしまえば子供たちを危険に晒すことになる。家族には猪俣が側に付いていてくれた方が絶対に安心なのだ。

 そうこうしているうちに、チャイムが鳴った。

「猪俣さん、貞子と子供たちをお願いします」

「だったら若旦那も一緒に行きやしょう」

「ここに誰もいないのは変でしょう。さっきインターフォンで話をしてしまいましたから。僕が適当にはぐらかしますから、早く行って下さい」

 玄関の開く音が聞こえた。ドアチェーンが引っ張られ、その音が廊下に響く。猪俣は悲痛な顔を康夫へ向けた。

「分かりやした。若旦那もお気を付けなさって」

 その言葉を残し、猪俣は扉の向こう側へと消えた。康夫はクローゼットのドアを閉じ、廊下に出る。丁度ガラの悪い連中が中に入ってきたようで、大声で叫ぶ声が聞こえた。康夫はさっとリビングに戻り、何事もなかったようにソファーに腰を降ろした。

 間もなくマスクを付けた男たちが、康夫の前に現れた。全員土足だ。先頭の男がリビングを見渡し、後ろの男たちに叫んだ。

「家族を探せ。どこかに隠れているはずや」

 リーダー格の目は、異常に細くてつり上がっている。狐を思わせる目だ。

 狐目は指示を出したあと、ゆっくりと康夫に近付いて、康夫の隣に腰を落とした。そしてマスクを外す。ふぅと息を吐き、両肘を自分の両膝に乗せ、背中を丸める格好で項垂れた。

「どうしてあんた一人なんや? あんたの家族はどこに隠れやがった?」

 狐目は下を向いたままだった。声は落ち着いて冷静だった。それが逆に、康夫の恐怖を増長させる。

「あなたたちは? 警察、ではないですよね?」

 康夫が恐る恐る言った。男は顔を上げ、康夫にこれ以上ないというくらい歪んだ顔を向ける。

「家族はどこだと訊いとるんや。先ずはこっちの質問に答えんかい」

 今度は腹の底から出た、激しい怒声だった。流石に康夫はびびった。

「家族は実家です」

「っていうと、五所川原邸ってことかいな」

 相手は何でも知っているようだった。ほどなく仲間がリビングに戻り、口々に言った。

「どこにも蟻一匹いやせんぜ」

「こっちにも誰も」

 狐目が、ギロリと男たちを睨めつけた。

「くまなく全部見たんやろうな」

 男たちはすくみ上がるように首を引っ込め、「へい」とか「確かに」と返事をする。

「ちょっと解せないが、まあ、ええやろう。こっちはあんたに用があるんやさけえ、康男はん」

 狐目が淀んだ目で康夫を見たが、康夫にその男はまるで見覚えがない。もちろん康夫の方には全く用がないけれど、それを口にしたところで事態が悪化することはあっても好転するはずがないことは、康夫も分かっている。

「ご苦労だが、あんたにはもう少し付き合ってもらうよ。先ずは一旦外に出なくちゃ。こんなところに何時までも居座っていたんじゃ危ねえからな」

 康夫は訳が分からなかった。

「あのう……、僕があなた方と一緒しなきゃならないんですか?」

「それがこっちの仕事だからな。お前さんを連れ出せば仕事は終わりだ。あとのこたあ、俺らは知らねえ」

 康夫はターゲットが自分らしいことを知り、困惑した。こんなガラの悪い人たちに恨まれる覚えは、全くないのだ。

「兄貴ぃ、本当にこいつがターゲットなんですか? どうもイメージが合わねえですけど」

 襲撃隊の一人が言う。

「間違いはねえ。おめえは黙って仕事しろ」

 狐目からたしなめられ、疑問を呈した下っ端は「へい」と短く返事をした。

 猪俣は隣の部屋に移動後、ずっとドアスコープから廊下の様子を伺っていた。

 彼は隣の部屋に移動してから、直ぐに外で待機する部下二人をマンションの中へ引き入れていた。隣の部屋から、入口のオートロックを解錠したのだ。二人の部下は廊下の角から顔を覗かせ、康夫の部屋を伺った。

「兄貴ぃ、部屋の前に制服姿のお巡りが二人立っていやす」

 猪俣はその報告を聞いて、舌打ちした。用意周到で、プロの仕業に思えた。

 猪俣自身が部屋から飛び出せば、そこに姐さんや貞子たちが隠れていることを相手に悟られる。

「取り敢えず何もするな。そこで様子を見てろ」

 猪俣はそう指示した。

 少しして、黒い目隠し袋を被せられ、両腕を二人の男に支えられた康夫が、ドアスコープの中に現れた。康夫がまさに拉致されようとしている。猪俣は直ちに部下へ連絡を入れた。

「若旦那が連れ去られる。今部屋を出た。建物全ての出入り口を固めろ。駐車場も抜かるんじゃねぇぞ。見つけたら総出で奪還しろ。いいな、命に替えても奪い返すんだ」

 そしてマンション内部へ引き入れた部下に、「若旦那を連れた連中が、どこから出るかを連絡しろ」と指示した。

 拉致した連中はお巡り姿の男を前後に固め、非常階段に向かった。エレベーターは使わないようだ。猪俣の部下は、相手に悟られないよう、少し距離を置いてあとを追った。非常階段から駐車場へと抜けて、車で連れ去るつもりのようだ。

 見張りは猪俣に、そのことを連絡した。そして猪股から外で待機する連中に、直ぐに駐車場へ行けと司令が飛ぶ。康夫を連れた男たちが非常階段を降りるのに、相当時間がかかった。

 猪俣自身も駆け付けたかったが、部屋にはまだ大切な人たちがいる。彼は康夫の家族を放り出して、その場を離れることができなかった。

 果たして駐車場で、小競り合いが起きた。待ち受けた猪俣の部下たちが、康夫を連れさろうとする連中の前に立ちはだかったのだ。

「おんどりゃあ、うちの若旦那をどないするつもりじゃあ。このまま連れて行くっちゅうなら、ただで通れると思うなよ。こっちも命がけじゃあ、覚悟しろやあ」

 駐車場内に怒声が反響する。

 しかし相手は怯むこともなく、にやけて余裕の態度を見せた。

「おいおい、なにいきがっとんじゃあ。何か勘違いしとらせんか? 若旦那? なんじゃあそりゃあ」

「とぼけるのもたいがいにせいやあ。そこに若旦那がいるやないけえ」

 こめかみに血管を浮かせそう言った一円の若いもんが、張り出した肩を大袈裟に振りながら男たちに近付いた。そのときである。男たちが笑い出した。

「何がおかしいんだ、この野郎。ふざけんじゃねえぞ」

 堪忍袋の緒が切れた一円の若いもんが男たちに迫ると、警官役の一人が若旦那の被る黒いフクロを剥ぎ取った。そこで一発触発の雰囲気を漂わせていた一円の連中が、揃って「あっ」と声を上げる。袋を被せられた男は、康夫とは似ても似つかない顔をにやつかせていたのだ。

「てめぇら、若旦那をどこへやりやがった。白状せんとぶっ殺すぞ」

 裏をかかれたことに気付いた一円連合の連中は、激怒した。もはやパニック状態になっている。

 駐車場の外からパトカーのサイレン音が聞こえていた。マンションの管理人が監視モニターに映る異変に気付いて、警察に連絡したようだ。

 少しすれば、警官隊がなだれ込む。護衛隊長は電話で、猪俣に状況を伝えた。猪俣は、電話の先で烈火のごとく怒った。即座に馬鹿野郎と叫んだが、彼は自分の采配ミスに腹が立った。見事囮に引っかかったのだ。

 護衛隊長は、相手を半殺しにして連れて行くと猪俣に言った。当然そうしろと命ぜられると思ったが、猪俣は意外なことを言った。

「おめぇらは警察が乗り込んで来る前にそこからずらかれ。いいな、警察に捕まることだけは絶対に避けろ」

「いっ、いや、兄貴、それだと若旦那の行方が分かりやせんぜ」

 猪俣はどすの利いた低い声で、怒りを噛み殺すように言った。

「今は言う通りにしろ」

 護衛隊長は「へい」と返事をし、いきりたつ部下の首根っこを掴んでその場を撤収した。襲撃した側の男たちは、撤収する一円連合の連中をはやしたてるように笑ったが、パトカーのサイレンが近付くと慌てて散った。

 一円連合のメンバーが康夫の部屋に戻ると、ドア前の見張りはもちろん、部屋の中はもぬけの殻だった。

 周囲に誰もいないことを厳重に確認し、駆け付けたパトカーも周囲から去ると、猪俣と姐さん、貞子や子供たちはようやく外へ出ることができた。彼女らはすぐに、物々しい警護に囲まれながら浅草の親分宅へと移動した。

 貞子はみすみす旦那を拐われたことに、ひどく憤慨していた。もちろん親分も大激怒である。今にも床の間の日本刀を手に取り振り回しそうな勢いがあった。貞子はそれをなだめながら言った。

「猪俣、早くやっちゃんの居場所を突き止めなさい。こうなったら、わたしが自分で乗り込むわ。もう任せておけない」

 貞子は普段、康夫をやっちゃんと呼んでいる。一方康夫は、貞子をさだちゃんと呼んでいた。これは貞子が抱く、あるべき夫婦の理想像である。

 猪俣は落ち着いていた。

「お嬢、若旦那の居場所は既に分かっとりやす。もう暫くお待ちくだせい」

 貞子は目を丸くした。

「へっ? 分かってる? どこにいるのよ」

 猪俣はパソコンの画面を立ち上げ、キーボードを叩いた。画面に地図が表示され、ある一点で青色の二重丸が点滅している。

「若旦那はまだ東京におりやす。既に兵隊をそちらへ向かわせやした。わしもそろそろ向かおうと思っとりやす」

「どうしてそんなことが分かるのよ、アメリカの特殊部隊じゃあるまいし」

「GPSってやつですよ。若旦那の使う財布とベルトに、チップを縫い込んでありやす。ベルトは囮に奪われやしたが、財布は若旦那がまだ持ってるようで」

「そのGPなんとかって何よ」

「あっしにも詳しいことは分かりやせん。しかし、若旦那が諜報の連中に用意してくれたんで、若旦那自身にも持ってもらったんです。実はお嬢さんたちにも付いてやす」

 猪俣がパソコンをいじると、そこに貞子と三人の娘の場所も表示された。確かに四人がいるのは、五所川原邸の場所となっている。何かのときのため、康夫はそういった物を用意していたのだ。

「こんな業界に関わりがあれば、何か危険なことがあるかもしれないと若旦那がおっしゃってやした」

「そう……、普段ぼーっとしてるように見えて、結構考えてるのね」

 貞子は感慨にふけった。

「若旦那のセンスはあなどれやせん。極道システムを見れば一目瞭然ですわ。さて、わしもそろそろ行きやせんと」

 貞子は思い詰めた表情で言った。

「ねえ、猪俣……、わたしも連れて行ってくれない?」

「お気持ちは分かりやすが、お嬢を危険な場所にお連れするのは……」

「旦那のピンチなのよ。さっきもかっこつけちゃって、自分だけが残ったりしてさ。それであの人が危ない目に遭ってるのに、わたしがじっとしていられると思う?」

 猪俣は貞子をじっと見て、考え込んだ。貞子の思い詰めた物言いが、猪俣の心を揺り動かす。しかし……。

 そのとき親分が、「貞子」と声を出した。

 はっとして貞子が振り返ると、親分は微笑んでいた。

「お前たちもいい夫婦になったのう。それでこそ極道の娘じゃ。無理をせんと約束するなら、気の済むようにしたらええ」

 そう言った親分は、鋭い目を猪俣に向けた。

「猪俣ぁ、貞子と康夫くんのことを頼むぞ」

 猪俣は「へい」と気合いの入った返事と共に、オヤジに頭を下げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る