yet
白く、平坦な、空間だけが際限なく広がる世界。そこはどこが空で、どこが地面かも分からなくなるような変化のない場所。
そこには、たった一本の樹があった。
それがどれだけ大きいかを測る術はない。
樹皮は荒く、所々にうろが見受けられる。星の数ほど葉を付けた枝がいくつも伸び、膨れ上がって上方を覆い隠そうとするように広がっている。
樹齢数百年を思わせる巨大な樹のようだが、比較対象がなければそれが途方もなく大きいのか、それとも砂粒よりも小さいのかも定かではない。
地面もないのに、ほうぼうに伸びた根が白い空間を埋め尽くそうとするように際限なく広がっている。
風も吹かないその世界で、樹の枝が一本、小さく揺れた。
揺れる枝の先には、小さく丸い、白い果実。
上下していた枝から、ぷっつりとその果実が落ちた。
果実は枝を離れ、地面の上を思わせる見えない平面を転がり、動きを止めた。
「んん……」
声が、上がった。
白い果実が震え、表面に走る筋の全てが、さらり、と音を立てて下方に流れた。
糸のように崩れて出来た実の割れ目から、白い布の切れ端が覗く。
はがれた皮はインクが染みるように白から黒へと変わり、実の内側から現れた少女はゆっくりとその身を起こした。
かつては白い果実の皮だった黒く長い髪を手で払い、大きく背伸びをして声を漏らす。
「んん、ん……ふう」
白い果実だったものは、今や一人の少女へと変わっていた。
彼女は枝分かれした根の間に立ち、樹を見上げる。
白いドレスのスカートを軽く摘み、恭しく頭を下げた。
「初めまして、お母様」
少女が優雅な仕草を向けるのは、たった一本の樹。白い世界に聳え立つ、唯一の存在。
それは……震えた。
枝葉をわずかに揺らし、盛大にさざめく音を立てながら太い幹が慄くように震える。
ばりっ、と幹を覆う樹皮が裂けた。
縦に裂けたそこから、うるおいを持つ球体が転び出る勢いで現れる。
それは黒い円の中心を少女に向けると、そのままじっと静止した。
それは大きな、大きな目玉だった。
巨大な目玉に見下ろされ、少女はくすくすと笑う。
「あらあらお母様ったら、視覚を取り戻すだなんて。よほど不味いものを食べたみたいね」
少女はひとしきり笑うと、くるりとステップを踏むようにして後ろを振り返った。
何もない場所に少女が手を伸ばすと、何もないはずの場所に入り口が現れた。
扉のように切り開かれた空間から風が吹き込まれ、得体のしれない景色が覗く。
銀河にも似たその光景の中から、いくつもの音が洪水のようになだれ込んでくる。
いくつもの世界を内包する、次元の狭間とでもいう空間だ。
少女は扉の裏側を覗き込むと、暴力にも等しい刺激の奔流に薄く微笑んだ。
「何て豊かな所でしょう。眩しく暗く、静かで五月蠅い外の世界。こことは違い、あらゆるものに満ちた場所。きっと、きっとあなたのお気に召すものがあります」
少女は振り向き、再び樹へと向き直った。
「行ってきますわ、お母様。いつかまた、お会いしましょう」
巨大な目玉の見つめる前で、少女が白い扉をくぐる。
すぐに扉が閉まり、音も光も、少女の姿も消え失せた。
静寂を取り戻した白い世界で、目玉のはまった樹皮の裂け目はゆっくりと閉じられる。
後にはただ樹が一本だけ。
時の流れを思い出すかのように、枝が一本、小さく揺れた。
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