第33話 前原志乃

 前原志乃は行き交う人の流れにいて、一人視線を落として駅の構内を歩いていた。


 何人もの人々が彼女のそばを通り過ぎ、彼女と並んで歩く者はいない。


 今の彼女には、それが堪えた。


 もう直には会えない。


 あとは自分が姿を消せば、直は今後ハウルとして何のしがらみを持たず迅速に動けるようになる。


 長瀬や志乃の理想とする、怪物狩りの戦力となれる。


 最初から長瀬と結託して決めた事だった。


 志乃の母親がバーミッシュに襲われ、自分も襲われそうになった時に助けられたのがきっかけだった。


 母に死なれ、怪物の存在を知り、そして憎む気持ちが芽生えた矢先に命の恩人である長瀬から話を持ち掛けられた。


 直との付き合いはそこからだった。


 将来彼がハウルとして、迅速に怪物達を倒せる存在となれるよう、彼に人とつながりを持つ機会を与えぬよう常に傍にいた。


 それが彼女の役割だった。


 傍に居るためには、彼との関係が必要だった。


 異性ならば恋愛関係も考えられたが、単純に直は彼女の好みではなかった。


 直もまた、志乃を異性としては見ていなかったため、実に自然に二人は友人となった。


 十年もの月日をかけた結果、彼には志乃以外の友人は一人もできなかった。


 志乃からすれば、成功といっていい。


 長瀬には何度も謝られた。


 「ひどい女の役を押し付けてごめんなさい」と、いつものように言われた事が今でも容易に思い出せる。


 ついに直はハウルとなった。


 ハウルとしての活動が秘密主義であるならば、後は志乃が直の前から姿を消せば、直が情報を漏らす相手はいなくなる。


 直や長瀬達の活動の秘密は、守られるというわけだ。


 彼女は自分の感じている孤独を、当然のものと思おうとした。


 しかし、どうしても隙間風のようなうすら寒さに晒されては、直の事を思い起こさずにはいられない。


「……ひどい女」


 志乃は自嘲した。


 しかし、同時にほっとしてもいた。


 これで、彼に罪悪感を抱かせずに済む、と。


 駅のホームに着いた頃、彼女は足を止めた。


『お客様にお知らせいたします。大変申し訳ありませんが、ただいま全線電車の運転を見合わせております。運転の再開は未定です。危険ですので、皆様、空坂から離れるようお願いいたします。繰り返します。お客様に……』


 そのアナウンスに、駅のあちこちから不平の声が上がった。


「おいおいマジかよ」


「なんで?意味わかんない」


「もしかしてコレじゃね?」


 何人かがスマートフォンを取り出し、ネットニュースやSNSで調べ出した。


 志乃もはっとし、同様に携帯電話をつつく。


 目当てのニュースはすぐに見つかった。


 記事に載せられている写真を見て、彼女は息を呑む。


 空坂の夜空と思しき暗い背景に、翼をもつ巨体が浮き上がっていた。


 長い首と尾が、地表やビルの隙間から昇る煙の中で大きく波打っている様が見て取れる。


 地表のいたるところで火の手が上がっていた。


 駅のホームのあちこちで、ドラゴンという単語が上がった。


 隣にいる者同士ではしゃぐ者もいれば呻く者もおり、他のどこかに電話をかけて話題の共有に急ぐ者もいた。


 中には真偽を確かめようとホームを出ていく人々もいた。


 人の流れが人を呼び、ホームの中で行き交いをめぐった喧騒が起こる。


 彼女の反応はどれでもなかった。


 じっとニュースの記事を見つめ、やがて下唇を歯の間に滑り込ませた。


 彼女は知っていた。


 この怪物がストレンジャーであり、おそらくはバーミッシュである事も、だ。


 しかし彼女は驚いていた。


 写真の怪物が人型ではなかった事もそうだが、バーミッシュのようなストレンジャーがここまで目立つ現れ方をしている事が理由だ。


 怪物の意図が読めず、彼女は記事の内容に目を落とした。


 流し読みで必要な情報を探し、怪物のいる場所を読み取る。


 空坂の繁華街上空、大学からも駅からもそう離れていない。


 すぐに、直の事が気がかりになった。


 駆けつけたいが、彼がどこにいるのか分からない。


 心配だが、彼には電話はかけられない。


「直君……」


 写真の中に目を落とし、我知らず彼女は呟いた。


 今頃ここにいるのだろうか。


 彼女の知る彼が、こんな怪物の相手をする様子が、彼女にはまるで想像できなかった。


 十年も付きっ切りでいた相手だ。嫌でも彼の人となりをまざまざと思い出せる。


 思い出すほど、胸を締め付けるものが彼女の息を乱した。


 自分はもう、彼と会ってはいけない。


 彼に憎まれる理由がある。


 今頃になって、彼女にはそれが怖くなった。


 それでも、今彼がどうしているか知りたい。


 携帯電話を持つ彼女の手に、力がこもる。


 その携帯電話が、いきなり鳴った。


「!?」


 志乃は鳴り出した携帯電話の画面を注視し、電話の主を見る。


[直くん]


 彼女は指を置きかけ、迷いからその手を止める。


 二度、三度と着信音は続く。


 迷う彼女を急かすような響きすら感じられた。


 迷った末、彼女は通話ボタンのアイコンをスライドさせた。そして耳に当てる。


「……はい」


『……志乃ちゃん?』


 志乃は息を呑んだ。直の声だ。


「……なんで、かけたの?」


 か細い声でそう尋ねるのがやっとだった。


『出てくれたんだ』


「……だって、電話しないと困るんでしょ?」


「やっぱり、そこまで知ってるんだ」


 見透かしたような事を言われ、志乃は息を呑んだ。


『……全部聞いた。長瀬さんが教えてくれたよ、志乃ちゃんとの関係も』


「……」


 志乃は言葉が出て来なかった。


 裁きを待つように下唇を噛んで俯く。


『なんか変な感じだよね。長い付き合いなのに、知らない事があるなんて。電話越しだと、志乃ちゃんの声が違う人に聞こえるよ』


 直の声は浮ついたものでも、沈んだものでもない。


 ただ静かに、思った事を言うだけのものだった。


 志乃は聞き入りながら、何と言おうかと必死に考えを巡らす。


「な、直君、あのね……」


 考えをまとめようとして、自分の言いたい事に気付く。


 ごめんなさい、嫌いにならないで。


 なんて情けない女だ、と志乃は思った。


 自分が言っていい言葉じゃない。


 それが分かっているからこそ、彼女は何も言えず携帯電話に縋りつくように彼の声を待った。


『……志乃ちゃん』


 志乃はびくりと肩を震わせた。


『僕、ずっと志乃ちゃんを変な子だと思ってた。僕なんかにずっと付きっ切りで、ずっと僕の世話を焼いてさ。中学生の頃からだよ?今思うと、周りから変な目で見られてたよね』


 志乃もそれは覚えていた。


 懐いた後輩のような顔をして、彼の教室に足しげく通ったのだ。


『高校も一緒だったし、大学も一緒だったよね。地元の大学を一生懸命勧めたのは志乃ちゃんだったっけ』


 それも志乃は覚えていた。


 遠くの大学に行かれては、そもそも彼に近づいた理由である、彼とのつながりを保てなくなるからだ。


『喧嘩した事もあったし、嫌な事もあった。でも志乃ちゃんは、こんな日が来るって知っていたから、ずっと一緒にいたんだよね』


 志乃は罪を読み上げられているようで、ぎゅっと目をつむり耳を澄ませた。


 何を言われても当然であり、自分は聞かなくてはならない。


 たとえそれが、彼からの強い拒絶であってもだ。


 彼女は黙り、沈黙に胸を潰されながらも次の言葉を待つ。


『……すごいなぁ、志乃ちゃんは』


 その声は優しく、そして、近かった。


 受話器に当てていない方の耳が、彼の声を拾った。


「え……?」


 彼女は目を開け、恐る恐る振り返る。


 直が、いた。


 駅のホームで、青いスマートフォンを耳に当て、すこし離れて彼女の後に立っていたのだ。


 志乃の潰れそうな胸の中で、心臓が大きく跳ね上がった。


 志乃は反射的に直へ振り返り、携帯電話を持つ手で胸を押さえる。


「な、何で……?」


 志乃はうまく上下しない胸を強く押さえ、そう尋ねた。


『どうしても言いたかったんだ。電話越しじゃなくて、直接』


 直はハウルフォンを耳から離し、志乃へと歩み寄っていった。


 一歩、二歩、三歩。


 近づかれる度、志乃の罪の意識は募り、彼女は縮こまり俯いていった。


 殴られるか、怒鳴られるか、見捨てられるか。


 どんな目に合わされても当然だ。そう思う彼女が身を震わせる中、ついに直は志乃の間近で足を止めた。


 直は志乃のつむじを見下ろし、口を開く。


『……正直ショックだった。ずっと一緒にいるのに、僕に何にも教えてくれなかったんだから。おかげでここ最近、ずっとびっくりしっぱなしだよ』


 間近で聞く彼の声は静かで、そして重い響きがあった。


 志乃が何も言えず更にうな垂れる。


『……でも』


 続く直の声は、穏やかなものだった。


『僕と何があっても、志乃ちゃんはずっと一緒にいてくれたよね。僕ももう志乃ちゃんのいない生活は、ちょっと想像できないかな』


 志乃は恐る恐る顔を上げた。


 直の表情に、嘘はない。


「……怒って、ないの?」


『ちょっとだけね。本当にちょっとだよ?もっと他に言いたい事があるんだ』


 直は薄く笑って、志乃を見下ろし、そして口を開いた。


『志乃ちゃんはずっと僕を見張ってて、僕から色んなものを切り捨てたんだと思う。それにはちょっと怒ってる。……けど、けどね』


 続く言葉を、志乃は見上げて待つ。


 直は少しだけ息を吸い、その後、志乃をじっと見つめて言った。


『僕を一人には、しなかった。ずっと僕の友達でいてくれたんだ。ありがとう』


 志乃の胸から、痞えが取れた。


 言葉もなかった。


『それに、ね……』


 直はハウルフォンを軽く持ち上げ、志乃に苦笑した。


「一人じゃハウルになれないよ。僕には志乃ちゃんがいないと駄目だ」


「直君……!」


 志乃の足から力が抜け、その身体が前に倒れた。


 支えるものを求めた身体が、直の胸に重なった。


 自然に涙が流れた。


 沸き上がった感情の流れは、言葉での表現では消化しきれず、両手にこもった力になって、ただひたすらに彼に縋りつかせた。


 彼の胸に顔をすりつけ、彼女は泣きながら何度も謝る。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 すすり泣く声を上げ胸に縋る彼女を、直は拒まない。


 ただ落ち着かそうとするように、彼女を優しく抱き寄せその頭を撫でた。


 駅のホームを行き交う人々は二人に興味を見せず、電話に耳を寄せたまま離れていく。


 直も志乃も周りを気に留めず、ただ二人で落ち着くのを待つように身を寄せていた。


 それから少し。


 実際にはともかく、二人にとってはほんの少しだけ経った頃。


「……あのー」


 直の後ろから上がった声に、彼は振り向いた。


 申し訳なさそうに俯き目を逸らす長瀬と、胡乱な目をして二人を見ているあずさがいた。


 あずさが抑揚のない声でぶっきらぼうに尋ねる。


「いつまでそうします?」


 直はふと、今更のように自分達の状況を理解した。


 胸にはまだ、志乃が額を乗せている。


 やおら顔を赤くする直だったが、志乃の嗚咽はまだ止まない。


 突き放す訳にもいかず、彼はしどろもどろになった。


「え、ええと……、もうちょっと、だけ待って」


「そうも言ってられないんですよねぇ、月島さぁん……」


「なんで敬語なの!?って、月島さん?」


 自分をあだ名で呼んでこないあずさに直はうすら寒さを感じる。


 そんな直に、あずさは自分の携帯電話の画面を見せた。


 画面を見て、彼は息を呑む。


 画面に表示されているのは、ネットニュースの記事であり、写真に写るものはドラゴンの影だった。


 先ほど志乃が見ていたものとは別の写真だ。


 写真は現場の地表から撮られたものであり、空中を舞うドラゴンが長い尾をしならせて何かを叩き飛ばす様子が写っていた。


 空中で叩かれるそれは人型であり、頭部から伸びた長い銀髪がのたうつように波打っている。


「!……これって」


 直はあずさと目を合わせ、そして確信する。


 銀髪の主は、タイガーバーミッシュだ。


「あの虎がドラゴンと戦ってるみたい。でも、やっぱ不利っぽい」


 直は固い表情で頷いた。


 タイガーの実力を、直は身に染みて知っている。


 そのタイガーが、写真の中でドラゴンに苦戦を強いられているのだ。


「助けに行くわけじゃないけどさ、早く行こ。じゃなきゃ、空坂がめちゃめちゃになっちゃうよ」


 あずさの声は真剣だった。


 直も表情を引き締めて強く頷く。


 直は胸の中ですすり泣く志乃の肩に手を乗せ、彼女に語り掛けた。


「志乃ちゃん、もう行くよ。僕にも、できる事があるんだ。それをしてくる」


 志乃は直の胸から少しだけ顔を離し、小さく頷いた。


「あたしも行く」


 小さく、しかし確かなその声に、直とあずさ、そして長瀬が彼女に目を向けた。


「あたしだって無関係じゃない。できる事をさせてよ」


 直を見上げて志乃は言う。


 その目は、腹を決めたものだった。


 その目を、直は嬉しく思った。


「……分かった、行こう。長瀬さん、車ありますか?」


 話を振られた長瀬は、すっと背筋を伸ばして頷いた。


 その表情には、いつもの冷静さが戻っていた。


「はい。皆で行きましょう」


 長瀬は踵を返し、直達は先を行く彼女を追って駅のホームを後にした。


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