第32話

 空坂市の夜空は車道に並ぶ街灯や商社ビルの窓からこぼれる光によって彩られ、ともすれば昼間より明るい。


 夜の中にあって一層華やかに見える街の上空に、のたうつ巨大な影があった。


 空中に浮かぶその巨体は、翼で空を叩きながら長い首と尾をしならせ、車道を流れる数々の自動車や道行く人々の頭上を通る。


 街の誰もがそれに気づき、ほとんどの者が空を飛ぶそれを見上げていた。中には物珍し気に携帯電話のカメラを向ける者もいる。


「何あれ、映画?」


「ドラゴン?」


「何それ?」


 呑気な声が上がる中、空中に浮かぶ巨体が身をよじり声を上げた。


 とても歪な声だった。


 汽笛のようにぼおお、とも、悲鳴のようにぎええ、とも聞こえるそれは、この世のものとも思えぬ醜い音だ。


 ドラゴンの顔には肉も皮もなく、その音はむき出しの頭蓋骨の内側からドラゴンの声であるかのように発せられていた。


 声量は音と呼べるような生易しいものではない。


 大気を震わせるそれは付近のビルの窓をびりびりと揺らし、その場にいた人々の全身をも叩いた。


 初めて、人々の間から悲鳴が上がった。


 ドラゴンと呼ばれたものの怒号は、人々に向けられたものではない。


 巨体から生えた長い首の先は眼下に広がるまばゆい地表の光景には向けられず、空中にいるもう一つの影へと向けられていた。


 ドラゴンと空中で対峙しているのは、一つの人影だ。


 空中で跳び上がっていたその影は、身を捻って街灯の上に着地した。


 ゆっくりと立ち上がったそれは、虎の毛皮と銀の髪を生やし、虎の頭蓋骨を首に据えた人型の怪物、タイガーバーミッシュだ。


 タイガーバーミッシュは動じず、ドラゴンと真っ向から向き合う。


「相当に怒っているな。お前にここまで買われているとは思わなかった。……だが、すでに我々に和解などありえん。この決着が、バーミッシュの在り方を決めるのだ」


 ドラゴンバーミッシュが空中に留まったまま、鼻腔から息を吹き出し唸る。


 同意と憤慨のこもった、荒く強いものだった。


 澱んだ、金切り声にも似た声がドラゴンの巨大な口から上がる。


「ここが俺達の新天地だ!俺達が、この世界の頂点になるんだよ!」


 その声、その言葉は辺りに響き渡り、人々のどよめきを生んだ。


 ドラゴンが鼻先を上げ、大きく羽ばたいて自らの高度を上げる。


 翼が生み出す突風が地表を叩き、木々の葉や大きくさざめかせた。


 見上げる人々が風に押され、地表で波を作るようによろめき声を上げる。


 ドラゴンはすぐそばにあった商社ビルよりも高く舞い上がると、長い首をのけぞらせ、空中でその身をひねり、高度を維持しながら周回し始めた。


 ちょうど街灯の上に立つタイガーの頭上を陣取るように、だ。


 ドラゴンの太く長い尾が商社ビルの屋上に設けられたソーラーパネルをはね飛ばした。


 吹き飛ばされたパネルは木の葉のようにたやすく吹っ飛ばされ、道路へと落下した。


 それは重さを証明するように重い音を立ててひしゃげ、鋭利な破片をまき散らす。


 轟音と、破片を浴びた人々から上がる悲鳴が、さらなる恐怖と混迷とを呼び込んだ。


 ドラゴンは眼下の混迷など気にも留めず、夜空の中で旋回を続けていた。


 タイガーはドラゴンを見上げ、わずかに膝を曲げる。


 ドラゴンが旋回を止め、真下に向けて顎をわずかに開いた。


 下あごに人間の目玉や鼻、耳といった無数の顔の部品を蓄えたドラゴンの顎の奥に、ちろりと明るいものが現れる。


「ッ!」


 それが見えた瞬間、タイガーは街灯の上から跳んだ。


 直後、ドラゴンの顎が最大まで開かれた。


 同時に、赤い柱がそこから生えた。


 ぼう、と強い音と共に、夜の街が赤く染まる。


 柱は一気に太くなり、その根元で高熱と熱波を含んだ煙が一気に吹き上がり、辺りを焼いた。


 ドラゴンが火を噴き、それが火柱となったのだ。


 火柱の伸びた先にある道路で、流れを緩慢なものにしていた自動車の列が瞬く間に炎に呑まれ、ボンボンと爆ぜて火だるまになって跳ねる。


 すぐそばの歩道で足を止めて見上げていた人々もまた、絶叫を残して火柱の中に消えた。


 火柱が立った位置から離れた場所で、さらなる悲鳴と、同時に歓声が上がった。


 携帯電話のカメラを向けていた何人かの見物人が上げたものだ。


「マジすげー!これバズっちゃうよ!」


 ドラゴンが見失ったタイガーを探すように、鼻先をわずかに上げる。


 口から火を噴いたままで、だ。


 火柱は傾きながら長さを増してゆき、その先端を移動させていく。


 当然、更に道路が焼かれてゆき、更に新たな車や人々が炎に呑まれる。


 カメラを構えていた者達が近づく火柱に「え?」という顔をした直後、一際大きな声を上げて炎に消えた。


 炎を避けたタイガーが街路樹から道路、自動車のボンネットへと次々に跳び移り、商社ビルの壁面を蹴って上空へと踊り出る。


 火柱が収まり、ドラゴンが口を閉じた。


 タイガーはそれを見届けると、手近なビルの屋上へと跳び移り、その屋上を囲むフェンスを掴み、それを乗り越えるようにして着地した。


 タイガーは火柱の通り過ぎた後の街並みを見下ろした。


 火柱に舐められてできた道路の焼け跡は子供がマジックで書いたようにのたくった黒い線となり、熱波を受けたビルの壁面や植え込みは黒く焦げ煙をくゆらせている。


 黒焦げになった道路に転がるガラクタや焼死体を見て、半狂乱になって喚く者があちこちに見受けられた。


 焼死体の群れや火を噴いて転がる車をよく見ようと、焼け跡の数センチ前まで殺到する者も多い。


 押し合いになり怒号が飛び交う様は、見苦しい事この上なかった。


 凄惨な地上の有様を見下ろすドラゴンが、哄笑を上げた。


「ははは、臭え、臭え!最高だ!」


 その声は朗々と夜空に響き、見上げる人々がそれに驚いて顔を上げた。


 誰もが息を呑む中、タイガーが静かに口を開く。


「……こんな事が、楽しいのか」


「当たり前だ!分かってねぇのか虎ちゃん!人間どもが俺を見て、お前を見ている!もうバーミッシュは、この世界でこそこそとは生きていけねぇ!」


 ドラゴンは宙を揺蕩い、眼下を見下ろしながら声を張る。


「ならば支配だ!人間どもにバーミッシュの存在を知らしめ、恐怖を教えてやる!俺達バーミッシュが、この世界の生態系の頂点に立つ!」


「お前の世界はここではない!」


「今更あそこに帰れるか!俺達を表現できない世界に用はねぇ!」


 ドラゴンが長い尾で手近なビルに建てられたビールの看板を叩き落した。


 大きくひしゃげた金属の看板が宙を飛び、タイガーへと迫る。


 タイガーはすぐに後ろへ跳び、これを避けた。


 看板はタイガーのいたビルのフェンスへ激突し、跳ねたそれはくるくる回りながら弧を描いて斜め向かいのビルの窓へと刺さった。


 割れたガラスが見上げる人々に降り注ぎ、さらなる悲鳴と流血を呼んだ。


 タイガーは人々に目もくれず、別のビルの屋上へと跳び上がり、貯水タンクの上へと降り立つ。


 ようやく視点をドラゴンとほぼ同じ高さにまで自身を到達させたタイガーは、自らの視界を埋めるほどの大きさのドラゴンを見据え、大きく足を広げ深く腰を落とした。


 宙に浮く巨大な怪物を前にして、タイガーは更に自身の重心を低くし、全ての感覚をドラゴンに集中する。


 ドラゴンは空中で全身をうねらせ、タイガーへと鼻先を向け、そして咢を開く。


 再び、暴力的な怒号が辺り一帯を叩いた。


 真っ向から全身を叩く暴力的な声を、タイガーは真っ向から受ける。


「……もはや、慈悲もなし」


 そう宣言し、タイガーは腰の後ろに差していた得物を引き抜いた。


 短い棒状で、両端は槍の先のようにとがっている。


 それは、独鈷杵と呼ばれる、金剛力士が持つ武器に似ていた。

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