第30話

 西日も届かない薄暗い路地裏で、キイ、という、蝶番のきしむ音が上がった。


 何もない空間に切れ目が走り、扉のように開いたその隙間から、一つ、また一つと人影が現れた。


 人影、と呼称したが、先に現れた二つはどちらも人間とは呼び難い。


 片方は虎の頭蓋を首に据えた怪物、もう片方はぼろきれをまとった男のようだが、顔面がたるみにたるんだ皮で覆われているせいで顔としての記号を持っていない。逆立てた短髪だけが人間の名残を残している、いわば人間の造り損ないとでも呼ぶような存在だ。


 その後ろ、少し離れた位置からは、新たに白いドレスのような衣装を来た可憐な少女がついてくる。


 少女は隙間の縁に手をかけると、ぱたん、と音を立ててその隙間を閉じた。


 裏路地に降り立った三人のうち、顔の崩れた男が面の皮の裏から他の二人に声を発する。


「……で、どうよ?心境は変わったか?」


 問いかけはタイガーバーミッシュに対するものだった。


 本来口のあるべき部分は皮でふさがっているせいで、くぐもった声になっている。


 これを受け、タイガーは毅然と言い放つ。


「私の意見は変わらん。裏切った、というのも心外だ。同胞を守る事に変わりはない」


「お前は俺達の望みを全く分かってねぇ」


 男が底冷えのする声を発した。


「俺達バーミッシュは個人の顔って奴を持たねぇ。だから皆、どれが誰だか分からねえ。自分以外が誰だか分かんねぇし、誰でもいいんだ。お前だけは元の世界にこだわってるから間違いようがねぇが、実際、お前も、俺以外の同胞の区別が形以外じゃあつかねえだろ」


 タイガーは沈黙を保った。


 それを肯定と取った男は、さらに続ける。


「俺もそうだ。他の同胞達は人間を狩り、顔をかぶる事で自分以外を区別できるようになった。人間の面は俺達と違って千差万別だからな。選り好みできるとくれば、当然好みもある。……分かるか?俺達は、個性を得たんだ。おかげで俺達は自分自身って奴を確立できるようになった」


 やおら、男は声を張り上げた。


「こんな素晴らしい事があるか!こんな事、そのガキがいなかったら有り得なかった!今までどいつもこいつもが、あんな乾いた世界でどれが誰かも分からず、うすぼんやりと過ごしてきたんだ!お前は俺達に、あんな暮らしに戻れと言う気か!?隣にいるのが誰かも分からねぇ、呆けた暮らしによぉ!」


 その剣幕は必死なものだった。


 タイガーも少女も、すぐには返事を返さなかった。


 男は反応を待ち、肩で息をしながらじっと二人を見る。


 やがて口を開いたのは、タイガーの方だった。


「私は呆けた暮らしなど、送った覚えはない」


 男はその言葉に、ゆっくりと首を捻る。


「……はあ?」


「あそこは十分刺激的だ。昼夜があり、風雨があり、季節があった。しかし、変わらぬ仲間がいた。共に暮らす日々があれば、見た目に左右されずとも容易に区別がつく。昨日と同じ日などなかった。共にいた者達とならば、日々昨日よりも強い絆を感じる事ができた……」


 タイガーが語っているのは、かつて自分が過ごした日々だ。


 その口ぶりは、懐かしみ、そして、慈しんでいるようだった。


「我等の世界は今や見る影もないが、私はあの日々を愛している。あの世界を愛している。あの日々を思うだけで、私は自分を確かなものだと感じる事ができる。面の皮など繕わずとも、だ」


 タイガーは毅然と言い放つ。


「貴様も同胞達も今は見せかけに追われ、自分を飾っているだけだ。死人の顔を被るなど、所詮は歪んだ自己愛に過ぎん。貴様も、同胞達も、間違っているのだ」


 最後の言葉は、決定的なものだった。


 男は何も答えず、何の反応も返さなかった。


 崩れた面の皮のせいで、男の感情は誰にも読み取る事ができない。


 やがて面の皮の裏側から、深く、深く息を吐くのが聞こえた。


「……どーしてこう、面白くねーことっつーのは続くのかねぇ」


 肩を落とし、うな垂れる男。


 直後、男の身体が一気に大きく膨らんだ。


 肩が、背が、そして腹や腿にいたるまでが三倍、四倍、そしてそれ以上へと体積を増していく。


 ばちん、ばちんと男をつつむ衣服の縫い目や布の表面で糸が次々と切れ、青い鱗の並ぶ皮膚が露わになる。


 もはや人間の姿を保つ気をなくした男が、路地を塞ごうとするように膨張を続ける身体で、上空へと跳んだ。


 異常な跳躍力で路地を挟む雑居ビルの上へと舞い上がった男は、広げた両足をビルとビルとの上に乗せた。


 今や男の靴は弾け飛び、広い底面積と鋭い爪の並ぶ爬虫類に似た足が西日の赤い光の元に晒されている。


 尻からは長く太い尾が生え、その内情を表すように気だるげにしなる。


 体中を膨張させながら、未だに変化を起こさない顔で男はタイガーを見下ろす。


「俺、虎ちゃんの事、ケッコー気に入ってたんだぜ?バーミッシュの将来とか真面目に考えてるみてーだし、俺と考え方が違うのもそれはそれで面白かったしよぉ。……話が合った事はねえし、今後ももうねえけどな」


 面の皮は内側から大きく前に張り出し始め、そのせいでたるんだ皮の中に隠れていた目や鼻、口や耳が福笑いのように歪に並び、さらに配置をゆがませていく。


 もはやまともなヒトの顔ではない。


 首は長く太く伸びていき、青い柱のようだ。


 男の身体で出来た影は、今やタイガーのいる路地裏に濃い色を落としていた。


 男の膨れ上がった背を破り、皮膜を持つ翼がばさり、と音を立てて広がる。


 それは目につくものを掴もうと広がる手にも似ていた。


「残念でしょうがねえよ、てめえを叩き潰すのはなあぁっ!」


 男が吠え、その面の皮がぱちん、と弾け飛んだ。


 小さな人間の顔に収まりきらなくなった竜の頭蓋骨が大きさを取り戻し、その存在感を露わにする。


 ねじくれて生えた二本の角に、空の眼窩。


 そして、牙の並ぶ顎の中には人間の目玉や鼻、耳といったいくつもの顔の部品が蓄えられており、それらはねばついた唾液のような液体にまみれて牙の間からぽろぽろとこぼれ落ちていた。


 乳白色の頭蓋骨がむき出しになった、青い鱗のドラゴン。


 これこそが、ドラゴンバーミッシュの全容だった。


 ドラゴンバーミッシュが大きな咢を広げ、再び吠える。


 その声はもはや人間のものではなく、轟音となって辺り一帯に強い衝撃を叩きつけた。


 雑居ビルの窓ガラスがびりびりと震え、窓枠を揺らした。


 ビルもまた、衝撃によって屋上や角に溜まった塵や埃をぱらぱらと散らす。


 タイガーバーミッシュは体表の獣毛や長い銀髪を吹きつける音の暴力にひるむ事なく、頭上にたたずむ巨大な竜を見上げた。


「語るべきは語った。……それでこうでは、やはり分かり合えんか」


 ごきん、とタイガーバーミッシュが指を鳴らした。


 タイガーから離れた位置で、すでに空間に作り上げた扉の陰で少女がほくそ笑む。


「手間が省けたわ」


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