第29話 血族

「まずは、先日到着が遅れたことをお詫びします」


 良蔵の家の客間で、長瀬は対面に座る直に深々と頭を下げた。


 時刻は夕暮れ時で、西日が辺りを赤く染めようとする頃合いだった。


 謝られた直は、慌てたように両手を振る。


「ああいえいえ、大丈夫です。そんなに気にしないでください」


「いえ。これは私の過失です。お二人に戦ってもらいながら、私がそばにいないのは無責任が過ぎます。今後このようなことがないよう、再発防止に努めます」


 そう言った長瀬の後ろには、いくつもの段ボール箱が積まれていた。


 それらには、『衣服』や『割れ物』、『本』といった名前がマジックで書かれている。


「もしかして、長瀬さん……」


「はい、ここに住みます。職場からは遠くなりますが、ここは空坂の中心にありますから、今後の活動に有利なのは確かです」


 語る長瀬の目は真剣で、直は何も言えなかった。


 疑問を口に出せない彼に、長瀬は言う。


「ああ、良蔵さんから許可はもらっています。今までもこうしようとはしていましたが、直さんが関わるようになってようやくお許しがでたんです」


「今までは駄目だったんですか?」


「ええ。あの人は自分だけでなんとかしようとして今まで私を遠ざけていましたから。あなたも、少し前までバーミッシュの事なんて知らなかったでしょう?」


 直は腑に落ち、黙って頷いた。


「ところで、傷の具合はどうですか?」


「あ、それはもう大丈夫です。昔から傷の治るのは早くて……」


 その言葉は真実だった。


 直が受けた昨日の傷は、今やどれもが色の薄い痣になる程度にまで回復していた。


 ハウルの血がそうさせたのか、体のどこを動かしても痛みはない。


 直の返事を受けて、長瀬が安心したように肩を下ろした。


「良蔵さんもそうでしたが、豹転できるストレンジャーズ・チルドレンの回復力はすさまじいですね。頼もしい限りです」


 そう呟く長瀬の声は、静かなものだった。


 直はその声にうらやむような響きを感じ、わずかに眉を顰める。


「ともあれ、まずは情報共有をしましょう。あの男の他に、別のバーミッシュも出たと聞きましたが……」


 直は我に返り、昨日の出来事についてを話した。


 男の牙の砕けてできる竜牙兵、牙そのものからできる超竜牙兵。


 初めて見る虎のバーミッシュ、そして、大きく膨らむ男の姿……。


 白い少女が現れ、ケーキを作りたい、などと言っていた事も付け加えた。


 長瀬は最後まで聞いた後、少し黙ってから口を開く。


「……まずはお二人が無事だったことに安心しました。虎のバーミッシュについては私も初めて知りましたが、聞く限りではあの男と対等な立場にあるか、あるいは同等の実力の持ち主のようですね。であればあの男と同様、我々にとって脅威となりえます」


「あの、長瀬さん。その、虎の方なんですが……」


 直がおずおずと口を開く。


「なんでしょう?」


「僕、どうしてもその虎が悪い奴とは思えないんです」


 今度は長瀬が眉をひそめた。ただ、その目は冷たい。


「……どういう事でしょう?」


「臭いが、しなかったんです。……血の」


 直の言葉を、すぐそばであずさが肯定した。


「そうなの、ナガさん。あいつ、全然臭くなかった。すごく強いのは確かなんだけど、人を襲った事はないみたい。なんか、正々堂々って感じで……」


「臭いがどうでも、バーミッシュです」


 長瀬はぴしゃりと遮った。


「今はそうでも、人を襲い顔を奪う日がいつかは来ます。その時お二人は、こんな事になるとは思わなかった、とでも言う気ですか?」


 直とあずさは、息を詰まらせた。


「……弱気になっているから、そんな風に考えてしまうんです。お二人があの男と対峙して、生きて帰れたのはそれだけで強運なんです。心を鎮めて、よく考え直してください」


 長瀬はそこまで言って、自分の茶に口をつけた。


 そこで、良蔵が襖を開いて現れる。


「長瀬君、カステラが切れたよ。いるかい?」


「いただきます」


 良蔵は当たり前のように居間に入り、持ってきた盆に乗せていたカステラを小皿に取り分け、直たちの前に置いていった。


「あ、ありがと。……って、じいちゃん。本当に長瀬さんと暮らすの?」


 直は普段通りの祖父の様子に、思わず尋ねた。


「んん?何か問題があるかい?」


「いや問題っていうか……、モラルっていうか……」


 直が言いにくそうにしていると、横からあずさが割り込んだ。


「そりゃ孫からしたら、おじいちゃんが若い女の人と暮らしてるなんてちょっと嫌だよ。変な事があったりするかもしんないし……」


「何言ってるんだい。姪っ子に手なんか出さんよ」


「……は?」


 直とあずさの目が、点になった。


「あれ、言ってなかったかい?この子、俺の、弟の、子」


 良蔵は長瀬を見てそう言った。


 直は言われた言葉を理解しようと、目を泳がせる。


「……えーっと、それじゃあ、あの、……僕の叔母」


「です。今まで話す機会はありませんでしたね」


 やや食い気味で、長瀬はそう言った。


 直とあずさはぽかんとした顔で長瀬を見る。


「……じゃあ、長瀬さんもハウルで、ストレンジャーズ・チルドレンですね」


「だったらナガさん戦えるじゃん!」


 あずさが責める口調で長瀬に身を乗り出す。


 机に手を乗せて詰め寄るあずさを、長瀬は表情を変えずに見据えた。


「……戦えたら、そうしてます」


 その声は、いつになく静かで、悔しさの滲んだものだった。


 その様子を、あずさが怪訝に思う。


 次に話したのは、良蔵だった。


「俺達ハウルは、隔世遺伝で性質が出るんだ。直君のお父さんや俺の兄弟の子供は、普通の人間と何ら変わらん」


 直はあ、と思わず声を上げた。


「だから僕に……」


「そうさ。この子はバーミッシュの恐ろしさをよく知っている。なのに豹転できないんだ。それがどれだけ歯がゆい事か、考えられるかい?」


 直は言葉もなかった。あずさも途端に気まずい顔になって、身を引き座り直した。


「……ごめん、ナガさん」


「……いえ、お二人の気持ちもごもっともです。私は、私の代わりにあなた達を危険にさらしているんです」


 その口ぶりは、罪を独白するものだった。


 気まずい沈黙が、客間に降りた。


 直やあずさ、そして長瀬は互いに相手を見る事が出来ず、視線を落としたまま黙り込む。


 耐えかねたように、良蔵が口を開いた。


「ところで直君、ずいぶんあっちゃんと距離が近くないかい?」


「へ?」


 言われて、直は顔を上げた。隣に座るあずさを見ると、すぐに目が合う。


「……そう?」


「そうかな?」


 二人は同時に首を傾げた。長瀬が顔を上げ、二人の距離を見る。


「……ええ、確かに詰まっています。それはもう恋人の距離ですよ」


 恋人の距離。


 互いの距離が45cm未満であればそう呼ばれるのだが、顔を見合わせる二人の顔は明らかにそれよりも離れていない。


「……そうなの?」


「んー、まあ、ちょっと近いかなー、くらいは思ったかな」


 あずさにそう言われ、直は黙ってあずさから身を引いていった。


 そして良蔵の方を見て、無言で問う。


「うん、近かったね」


 祖父の返事に、直は腑に落ちない顔で首を捻った。


 そんなつもりはなかっただけに、納得ができないでいる。


 そこであずさがぴんと来た。


「ははーん、今まで友達いなかったから、距離感分かんないんだな?」


「ウフッ」


 この一言は直の心に刺さった。


 途端に顔に嘆きの皺が寄り、あずさから顔を背けてうな垂れる。


「城戸さん」


 長瀬のたしなめる物言いで、あずさは失言に気付いた。


 直をなだめようと、慌てて声をかける。


「じょ、冗談だよなっちぃ……」


 しかし直から反応は返らず、機嫌を直す様子もなかった。


 良蔵が逃げるように小走りで客間を後にする。


 直はすっかりいじけていた。


「友達いるもん。志乃ちゃんがいるもん……」


 恨みがましくも、ちらりと長瀬の方を見る。


 彼女が困ったり、呆れていたりしないか。今更ながら気になってのものだ。


 しかし長瀬の反応は、彼の想像しているようなものではなかった。


 気まずそうに、彼から目を逸らしているのだ。


 直がどうしてだろう、とあずさに聞くつもりで視線を向けると、あずさはもの言いたげに目を細めて長瀬を見ていた。


 前にも見た覚えのある彼女等の反応に、直は一つの可能性を抱く。


「長瀬さん、もしかして、前から志乃ちゃんを知ってるんですか?」


 長瀬の顔が、わずかに強張った。


 図星を突かれたようなその反応の理由がどうしても分からず、直は首を捻る。


 ふと、志乃の言葉が脳裏をよぎった。


『直君にできて私ができない事なんてないんだから』


『もっと自分の事、自分でしっかりできるようになってから言ってよね』


 思い返し、気付く。


 自分の半生には、ずっと志乃がいた。


 志乃しか、いなかった。


 時折志乃から出てくる言葉が、今は違う意味を持って脳裏に響く。


 どの言葉も、直を縛るものではなかっただろうか。


 目の前にいる女性へと意識が戻り、先ほどの祖父の言葉を思い出す。


『この子はバーミッシュの恐ろしさをよく知っている。なのに豹転できないんだ』


 直の背中から、すっと力が抜けた。


「あの、……まさか」


 そこまで彼が言いかけた時、やおらあずさが大きな声を上げた。


「あー、カステラ美味しーい!」


 あずさはフォークに刺さったカステラを持って、齧った跡を直と長瀬に見せつけた。


「あたしカステラ初めて食べたけど、ホントに美味しいの!上の茶色い、ちょっとキシュキシュした所がなかなか……」


「あずさ。……紙は剥がして食べるんだよ」


 あずさは直の言葉に一瞬黙った後、顔を背けて口の中に指を入れ、ペッ、ペッとカステラに張り付いていた紙を口から出した。


「……あずさ、知ってたんだね。嫌わないであげてって、そういう意味だったんだ」


 あずさは強張った表情で直を見、すぐに気まずそうに目を逸らした。


 カステラで無理にはしゃいで見せた様子が、すっかり鳴りを潜める。


 直は長瀬を見る。


 彼の表情に、余裕はなかった。


「……そんなのって、ありませんよ。ずっと前から、僕を縛ってたんですか」


 噴きあがる感情を抑え、震える声で直は言う。長瀬をじっと見、そして続ける。


 言い慣れた名前が、ぎこちない響きをもって口から洩れた。


「……志乃ちゃんを、使って」


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