第28話

 長瀬は強い焦燥感から、スクーターのハンドルを握る手に一層力を込めた。


 向かい風の吹き付ける強い音が、更に彼女を急かすように耳に響き、彼女に苛立ちを募らせた。


 すでに少し前の信号待ちで直との通話が切れていたのは確認していた。


 通話時間が三分を越えていたのは幸いであったが、それでも自分が現場にいれば、という仮定が彼女に強い自責の念を募らせる。


 携帯電話をハンズフリーで扱えるように、バイク用のインカムがヘルメットの左の下あご付近に貼り付けられている。


 ヘルメット内部のスピーカーと合わせて、これで直と連絡を取っていたのである。


 しかし、インカムのマイクが思った以上に風の音を拾っているらしく、そのせいで直との通話に大きな支障をきたしてしまっていた。


 相手に言葉が届かねば、対話は叶わない。


 安物で妥協するべきではなかった。


 かつての自分の判断を恨みながら、彼女はスクーターを走らせる。


 ハウルフォンの所在はすでにGPSで確認しているため、道に迷う事はない。


 新幹線の通る高架に沿った道路を進み、その下をくぐる曲がり角に差し掛かった。


 その一帯は広い公園を中心に広がる高級住宅街となっており、この時間に人影はない。


 そこを突っ切ってしばらく進めば、直とあずさのいる自然公園にたどり着ける。


 長瀬は前方に見えるコーナーを曲がろうと、その内側にある高架の脚へと目を向ける。


 その陰に、小さな人影が見えた。


 長い髪と、ドレスのような白いスカート。


 その姿を認めた瞬間、長瀬はブレーキをかけた。


 急な制動によってタイヤとアスファルトが激しく搔き合い、高い音を上げる。


 蛇行しそうな車体を、彼女は重心を押さえつけるようにして遠心力へと変え、その勢いをもってスクーターを道路のカーブに沿うように滑らせた。


 スクーターが後輪で弧を描くようにして路面を滑り、高架の脚の前にたたずむ人影の前で静止する。


 エンジンを切った長瀬は、鋭い目をその人影に向けた。


 人影は、白いコンクリートの壁面に背を預けたまま、長瀬を見て微笑んだ。


 待ち合わせに遅れた恋人を待つようなその反応が、長瀬を苛立たせる。


「……よくそんな顔ができるな」


 底冷えのする声だった。


 口調も、普段の丁寧なものではない。


 そんな長瀬に、白い少女は微笑を絶やさなかった。


「ええ。とってもいい事があったんですもの」


 少女は高架の脚から背を離し、軽い足取りで数歩歩いて長瀬へと近づいた。


 すぐに立ち止まり、背中側で指を組んで体を軽く前へ倒す。


「……お母様が、喜んでるの。そろそろだって」


 まるで、内緒話をする子供のような口ぶりだった。


 その言葉に、長瀬がわずかに眉を顰める。


 お母様。


 少女の口から、初めて聞いた言葉だ。


 少女は長瀬の疑問に構わず、続ける。


「ここは豊かな世界になった。たくさんたくさん住み着いて、そしてたくさん死んでいった。今やここは他のどの世界より、豊かな場所になっている」


 歌うような口ぶりで、少女は上機嫌に語る。


「私達はずっと待ってた。世代を重ねられるほど、長い長い年月を。私達は喜んだ。すすんで命を奪う者を。あなた達が彼等をいくら狩ろうとも、私達には同じ事。この世界に屍が重なる事に、変わりはないもの」


 長瀬は少女の言葉に眉根を顰めた。


「……どういう意味?」


「いつか来る日が、ついにそこまで近づいた。それだけの事よ」


 少女は指先を曲げたままの手を口元に添え、くすくす笑った。


「あとは仕上げ。あいつをちょっと焚きつけて、この世界の平穏を砕く。あいつのまき散らす恐怖が、やがてこの世界に恐怖を招く。そうすれば更にたくさんの血が流れるようになる。コクのあるその血の臭いが、お母様を呼び寄せる」


 そこまで言って、少女は長瀬に向けて涼し気な目を向けた。


 挑発的ともとれるその眼差しに、長瀬が不快げに目を細めた。


 肺腑に溜まる重く不快なものに振り回されないよう自分を律しながら、注意深く彼女は尋ねる。


「……お母様というものが来たら、ここはどうなる?」


「食べられちゃうの。何もかも」


 その返答に、長瀬の顔がこわばった。


「……食べる?」


「そうよ。この世界の、何もかもを食べつくすの。後には何も残らない。石ころ一つ、砂の一粒すら、ね。ひょっとしたら、空気も残らないんじゃないかしら。私の生まれた世界にはお母様しかいなかったもの。ふふ、たくさんのストレンジャーを招き入れたこの世界は、複雑で深い味がするんでしょうね。この世界は、とっても美味しいケーキになるの」


 長瀬は唇を固く結び、少女を睨む目を一層険しくした。


 少女の語るのは現実味のない、突飛な話だ。


 しかし、この少女そのものが、この世界にとって異質な、本来ならあるはずのない存在である。


 彼女と相対する長瀬にとって、少女の言葉は事実として容易に受け入れられた。


「……それが、お前の目的か」


 少女は笑みを絶やさなかった。


 沈黙を肯定と取り、長瀬の唇から食いしばった歯が覗いた。


「私達の血が、甘い蜜だとでも」


「何言ってるのよ。血はしょっぱいでしょ」


 だん


 長瀬の右手が一瞬で動き、伸びた手に握られた銃から銃弾が放たれた。


 ぎん、と少女の額から耳障りな音が上がった。


 少女の首がわずかに右後方に傾く。


「……ちょっと、痛い、かな」


 それは自分の感じたものを、確かめるような口ぶりだった。


 銃弾は命中していた。


 その後の、一言だ。


 額には、傷一つついていない。


 撃った長瀬は、わずかに銃口を持ち上げ表情を歪める。


「化け物め」


「お互い様ね。混血の癖に」


 混血、と言われた瞬間、長瀬の銃が再び火を噴いた。


 一発、二発と立て続けに銃弾が少女の額と胸に当たるが、跳弾するだけで傷もつかない。


「甥っ子に変な玩具を使わせてたけど、本当はあれ、あなたが使うつもりだったんでしょ?」


 長瀬は再度発砲した。


 少女の眼球に命中したが、少女は傷つかず、動じもしない。


「図星ね。ハウルが隔世遺伝でしか特徴を得られないから、あなたは自分で豹転できない。それをどうにかしたくて、あんな玩具を作ったんでしょ」


 長瀬は引き金を引かなかった。


 これ以上撃つ事がただの弾の無駄だと分かっていたからだが、抱いた感情は胸の内にとどめられず、そのせいで銃を持つ手がわなわなと震えていた。


「……で、どう?なれた?」


 答えられる訳がない。


 回数を稼がなければ、有用なデータが揃わない。


 データがなければ、彼女の求める性能を持ったハウルフォンを生み出すことは叶わない。


 直に、何度も戦ってもらわねばならない。


「ま、もう遅いか。お母様を呼ぶ、最後の仕上げにかかるから」


 少女はそう言って、右手の指先を軽く背後に押しやった。


 きい、と蝶番のきしむ音がして、少女の背後で景観が切り開かれる。


「あなたをからかうのはとても楽しかったわ。何の力もないくせに、私達に噛みついてきて。そんな人間はあなただけだった。……でも残念。もう会えないかもしれないのね」


 そう言って少女は微笑み、たんと軽やかに後ろに跳んだ。


 白い小さな身体が高架のそばに現れた赤い砂漠の中に飛び込み、そして扉の隙間を思わせるその切れ目はすぐにふさがった。


 ぱたん、と音を立てて少女の姿は消え失せた。


 ただ一人取り残された長瀬は、銃を持つ手を下げ少女のいた場所を睨んでいた。


 そして少女の言葉を思い返し、臍を噛む。


「何もかも、あいつの思い通りなの……?」


 答える者は誰もいない。


 コンクリートの高架の下で乱気流が強く吹き抜け、補聴器越しに長瀬の耳にざわめくものを残していった。


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