第26話 遊び

「え?あ、ありがと……」


 直は反射的に礼を言った。


 礼を言うのがおかしな話だとは思ったが、疑問に目をつむり、通話の操作に集中する。


 しかし、すぐにつまづく。


 最初は長瀬に電話しようとしていたが、前の通話で風の音が強く、通話に支障をきたしていたのを思い出したのだ。


 電話をかければ相手の邪魔になり、すぐに切られる。そんな状況も十分に考えられた。


 ならば、次は誰になるか。


 すぐに志乃が思い浮かんだが、すぐに除外した。彼女を巻き込みたくはない。


 次に思いついたのはセガールだったが、電話帳に彼のものらしき番号はなかった。


 電話帳を必死にスクロールさせる直だったが、ふと気づき、ようやく電話の相手を決めることができた。




 縁側で茶を飲みながら、彼は嘆息していた。


 広く開け放たれた窓によって、外から流れ込む風は心地よい。


 しかし、今は返って彼の心に空しいものを呼び起こしていた。


 定年退職して十数年、妻に先立たれて四年。


 家族にも黙って続けていた稼業も、数日前に孫に譲ってしまった。


 おかげで、することがない。


 絵にかいたような隠居生活を送る日が自分に来るなど、今まで考えた事もなかった。


 散歩にでも出かけようかと思った矢先、携帯電話がポケットの中で電子アラームが鳴った。


 ピピピとけたたましい、デフォルトの着信音だ。


 いささか心臓に悪いその音を受けて、彼はそれを取り出し開く。


[着信:月島直]


 画面に表示された文字を見て、彼はすぐに通話ボタンを押した。




『おお、直君。じいちゃんだよ』


 祖父の声を受けて、直は幾分安堵した。


 あとは三分以上話をすればいい。


「あ、じいちゃん?よかった、出てくれたんだ」


 直は横眼でタイガーの様子を見ながら、通話の声を抑えるように手を添えて電話に対応した。


『おお、いつでも出られるよ。長瀬君に「いつでも携帯は持っておけ」と言われているし、何よりじいちゃん、いっつも暇だからなー』


 はっはっは、と能天気に笑う祖父に、直は反応に困った。


「……ま、また近いうち家に行くよ。ほら、話す事もあるだろうし」


『おお、そうだねぇ。それがいい。そうだ、お菓子も用意しようか。直君、何がいい?』


 直は半ば聞き流しながら、すぐそばで待ち構えるタイガーに何度も視線を送った。


 虎の髑髏の怪物は、腕を組んだまま立って微動だにせず、空の眼窩をじっと直に向けている。


 待つ姿勢を崩さないその様子に、直はタイガーに対して、次第に警戒心よりもむしろ申し訳なさが募ってきていた。


 何より、家族との通話をじっと見られているのが恥ずかしい。


「な、何でもいいよ……。長瀬さんやあずさの好きなものがいいんじゃない?」


『お、そうかい?だったら、甘いものがええかねぇ。じいちゃん、あんまり詳しくないんだが、デパ地下行けばいいのかな?』


 祖父の呑気な語りぶりに、直はむずむずした心持ちで時間が過ぎるのを待つ。


 ハウルフォンから耳を離して画面を見るが、まだ1分30秒を過ぎたばかりだった。


「あ、うん……。そうだ、カステラ。それならデパ地下にもあるかな?」


『おお、そうか。カステラ、カステラ。覚えとこう』


「うん、うん……」


 急がされるような心持ちで電話を続ける直。


 黙って電話を待つタイガーバーミッシュ。


 そんな二人を見ていたあずさは、我知らず呟いた。


「何これ……」


 緊張感の欠片もない絵面に、彼女の脳が理解を拒む。


 一方、直はただ必死に、三分以上話す事に専念するのみだった。


 あと半分、もう半分。


 話を続けようと、直がつながる話題を必死に考えながら返事を返そうとした、その時だった。


「んんんん……!」


 やおら、新たな声が上がった。


 直とタイガー、そしてあずさがほぼ同時にそこを見る。


「おっせぇぇぇぇぇ!」


 それまで傍観していた男が立ち上がり、耐え切れなくなったように怒号を上げた。


 その剣幕に、傍らに立っていた超竜牙兵が怖気づいたように一歩引いた。


 男は直を指差し、唾を撒きながら喚く。


「何長電話してんだ!ナメてんのか手前ぇ!」


 直は通話口を押さえながら、及び腰になる。


「だ、だから、三分は待ってもらわないと……」


「意味が分かんねぇんだよそれが!さっさと変わりゃいいだろうが!」


 男の怒鳴るのに、タイガーが腕を解かぬまま口を開いた。


「待つのが必要だと言うのだ、黙って待て」


「お前が待つのがおかしいんだよ!」


 男の矛先がタイガーにまで向いた。


「つか、何?お前等俺をおちょくってんのか?」


「そ、そうじゃなくて……」


「時間がかかるなら、待つ他あるまい」


「それをナメてるっつってんだよ!」


 男が超竜牙兵を振り返り、顎をしゃくった。


 赤黒い竜の髑髏を持つ怪物が、速足になって直に迫る。


 直は近づいてくる敵とハウルフォンとの画面をおろおろしながら見比べる。


 通話時間は2分20秒になったばかりだった。


『直君、どうしたの?やけに騒がしいが……』


 良蔵の声を聞きつけ、直は両手でハウルフォンを耳に当てる。


「あ、じいちゃん、まだ切らないで!ちょっと今立て込んでて……」


 答える直の眼前に、超竜牙兵の手が伸びた。


 手のふさがっている直が竦み、目を閉じる。


 ガッ、という音が上がった。


 直に触れたものは、ない。


「……?」


 恐る恐る目を開き、直は見たものに驚く。


 直に伸びる超竜牙兵の腕を、横からタイガーバーミッシュが掴んでいた。


 男が胡乱な目をタイガーに向ける。


「……何のつもりだ?」


「もう一分もないはずだ。堪えろ」


 タイガーの掴む超竜牙兵の腕が震える。腕力が拮抗している状態だ。


 超竜牙兵の鼻先がタイガーに向く。


 物言わぬ下僕の心象を代弁するように、男が呟いた。


「……お前のそういうトコさあ、ホンットうっぜぇんだよ!」


 超竜牙兵が腕を振り、タイガーの手を振り払った。


 その手で裏拳を繰り出し、タイガーが片手でそれを受ける。


「下がれ!」


 タイガーの声は、直に飛んだものだった。


 直は慌てて後ろに下がる。


 超竜牙兵は、完全に敵意をタイガーへと向けていた。


 顔を狙い、一歩踏み出して次々と両腕を振るい何度も平手を叩きつけようとする。


 タイガーはそれを、片手の手掌と手背で叩き落とすように連続で捌いていった。


 更に繰り出される超竜牙兵の腕に、タイガーは大きく後ろへ跳んで地に手を付け、側転して大きく距離を取った。


 タイガーは半身になり、腰を落とし空手に似た構えを取る。


 超竜牙兵はタイガーへと殺到し、更に距離を詰めた。


 腕を広げ、足を止めずに頭を下げる。


 頭部に生えた角の先が、さながら猛牛のごとくタイガーへ迫る。


 タイガーは胸元を貫こうとする角の接近に、角の根本を掴んで受けた。


 角の先が胸板に届く前で角は止まるが、踏ん張るタイガーの足元で、芝に轍が伸びた。


「ぬっ、く……っ」


 力負けしている。


 二本の角はじりじりとタイガーの胸元へと距離を詰めてきている。


 直はその様子に息を呑み、慌ててハウルフォンを覗き込んだ。


 2分59秒が、3分00秒へと変わった。


 しめたとばかりに、直は電話に出る。


「ごめん、爺ちゃん!また今度!」


『え?』


 スピーカーから上がる戸惑いの声を無視して、直は通話を切った。


『Released the lock. Ready set for morphing』


 画面が変わり、低い男の電子音声がハウルフォンから流れた。


 直はそれを聞き終わる前に、画面上のテンキーを叩く。


 [0][0][2][3]


『Consent to your fighting. Good luck』


「豹転!」


 直は走り、ハウルフォンを左腕のブレスに装填した。


 ばちん、と固い音を立ててはめ込まれたハウルフォンが、直をハウルへと変えた。


「グルゥアッ!」


 ハウルが拳を握りしめ、大きく踏み込み、身を捻って超竜牙兵の脇腹に刺すような中段蹴りを見舞った。


 不意打ちに超竜牙兵がよろめき、タイガーから離れる。


 ハウルは勢いづいて超竜牙兵へと距離を詰め、更に一撃を見舞おうとした。


 しかし足を止め、すぐに顔をかばう。


 拳の一撃が、ハウルの顔面へ飛んだのだ。


 不意に飛んだその拳は、すぐそばにいたタイガーからのものだった。


 驚くハウルに、タイガーが言う。


「三分待ったぞ」


 それを皮切りに、タイガーがハウルのガードを弾いた。


 ハウルは続けて襲ってくるタイガーの拳打を捌きつつ、急いで後退する。


 タイガーは止まらなかった。


 先ほどまで律義に待っていたのが嘘のように猛攻を重ね、ハウルに息つく暇も与えない。


 拳打、裏拳、肘、そして蹴り。


 立て続けの攻撃に、ハウルは防ぎながらも面食らうばかりだった。


 本当に待ってただけだった。今は情けも容赦もない。


 タイガーの切り替えの早さに、ハウルはおろか、あずさも戸惑うばかりだった。


 男はというと、渋面を作り忌々し気に頭を掻いていた。


「あー……、ったく。そういやこういう奴だったわ。意味わかんねー」


 腹立たし気に呻く男の目が、先ほどハウルに蹴り飛ばされていた超竜牙兵へ向けられる。


 黙って顎をしゃくる男に、超竜牙兵は頷き、次にハウルへと迫った。


 超竜牙兵の接近を見て、タイガーは攻勢を緩め身を横へと流す。


 立場を譲られる形で超竜牙兵がハウルの間合いへと踏み込み、正拳をハウルの胸へと見舞った。


 半ば不意打ちのような一撃をまともに喰らい、ハウルは大きくたたらを踏む。


 二対一となったのを見たあずさが、思わず声を張った。


「あ、ずるい!」


 これに、タイガーが振り返った。


 咎めるような意志を感じたあずさが、口をつぐむ。


「種の誇りと存続がかかっている」


 それだけ言うと、タイガーは再びハウルへと向かった。


 ハウルは接近するタイガーに気が向くが、すぐに別の方向から振るわれる超竜牙兵の爪に気付き、頭を下げてそれを避ける。


 次いで迫ったタイガーの蹴りに、ハウルは片足を上げて脛で受けた。


 片足立ちになってしまったハウルの後ろに、超竜牙兵が回った。


「っ、しまっ……!」


 しまった、と言い終わる間もなく、ハウルの両肩に太い腕が回される。


 ハウルが振りほどこうともがくが、すでに遅い。


 ハウルの両肩が締め上げられ、その両足が浮いた。


 ハウルの眼前で、タイガーが大きく片足を引いたのもその時だった。


 固めた拳を大きく引き、ハウルの腹を狙う。


 身を捻る事も叶わないハウルは、拘束に気を取られ、直後に飛んできた拳を腹にもろに受けた。


「……っ、……!」


 刺さった。


 そう感じるほど深く、深く肺腑にめり込んだ。


 豹転したストレンジャーズ・チルドレンの、人間よりもはるかに強靭な肉体を潰すようなその一撃に、ハウルは吐く息を失い乾いた声を上げる。


 タイガーが打ち込んだ拳を引くと、超竜牙兵は持ち上げていたハウルを流すように投げ捨てた。


 肩から倒れたハウルは立ち上がらず、腹を押さえて身を折ったままだった。


「かはっ……!はあっ……!」


 今なお息が戻りきらないハウルが、手をついて這うようにわずかに姿勢を変え、タイガーと超竜牙兵を見やった。


 タイガーはただ静かにハウルを見下ろすだけだ。


 立ち上がるのを待つような佇まいは、立てば容赦しないという意図が明確に表れていた。


 ハウルに立つ時間を与えているようでもある。


 が、それは超竜牙兵が許さなかった。


 赤黒い竜の髑髏の怪物は、倒れるハウルへ走るとその顔を無造作に蹴り上げた。


 ハウルの首が伸びきり、大きく体が転がる。


「あうっ、ふっ……!」


 仰向けになったハウルの胸を、更に超竜牙兵の足が杭のように踏みつけた。


 胸の硬質部分が強い衝撃を受けて火花を上げる。


 二度、三度、四度。


 癇癪のような追撃に、ハウルの身体が跳ねる。


「……っ!……!」


 声も上げられない。


 その様を、男は芝生に寝転がりながら肘をついて見ていた。


 ずり落ちつつある右目にも構わず、左右非対称な顔でにんまりと笑いながらハウルの様子に熱中している。


「おうおう、いいねぇ」


 その反応を受けて、超竜牙兵が打ち付けた足をハウルの胸にねじ込むように踏みつけた。


 ハウルが苦悶の声を上げて身をよじるが、起き上がる事も叶わない。


 足をどけようと両手をかけるが、力負けしている。


 その様子を黙って見ていたタイガーが、憮然とした様子で鼻を鳴らした。


「趣味の悪い真似をする」


「これが楽しいんだろうが」


 同意するように、超竜牙兵がさらに体重をかけた。


 あうぅ、とハウルが呻く。


 ハウルは苦悶の声を上げながらも、右の拳を固く握りしめた。


 豹転で硬く変わった手の甲の下から、隠れるように生えていた爪に似た突起がわずかに伸びる。


 偽の爪とも呼ぶべきものを拳に生やすと、ハウルは遮二無二超竜牙兵の足を殴った。


 何度も固い音を立てて、超竜牙兵の脛を覆う赤錆色の具足に穴が開き、ヒビが走った。


 ヒビ割れる音に、超竜牙兵が動揺を見せる。


 ハウルを踏みつける足から、幾分重さが抜けた。


「ほう……」


 タイガーの、感心するような声が上がる。


 男は露骨に眉根を顰め、チッと舌打ちした。


 ハウルは何度も殴りつけた。


 ガッ、ガッと爪が打ち付けられ、超竜牙兵の足に穴とヒビを増やしていく。


 頭蓋骨に付けられた場合と違い、ヒビが全身を覆うように走る事はなかったが、超竜牙兵から平静を奪ったのは明らかだった。


 踏みつける足から力が抜けた一瞬にハウルは機敏に身を捻り、転がって相手の足元から抜け出す。


 ハウルは膝を付いて立ち上がると、ハウルフォンの付いた左腕を顔の前に出した。


 画面に表示された自身の全体図に目を落とし、足先をタップした。


『OK. Let’s Shoot! Now!』


 超竜牙兵を再び睨み、両手を軽く広げて腰を落とす。


 踵を浮かせた両足の底面が、厚さを増して硬くなる。


 固くなった部分は、ひし形に並ぶ獣の肉球にも見立てられるものだった。


「おおおぉっ!」


 ハウルは吠え、一気に前へ跳んだ。


 弾丸のような速度で前へ出ると、空中で両足を畳み、足先を超竜牙兵の赤錆色の頭部へと狙いをつける。


 超竜牙兵が鼻先に迫るハウルの足を叩き落そうと腕を振るう。


 しかし、すでにハウルの蹴りは頭蓋に届いていた。


「シューティングストンプ!」


 渾身の飛び蹴りが、赤錆色の額を射抜いた。


 硬質化した足底で打ち込まれた蹴りにより、赤黒い頭蓋骨が砕け、骨の欠片がまき散らされ、超竜牙兵の巨体がのけぞる。


 たたらを踏んで後退した超竜牙兵の前で、ハウルが膝を付いて着地した。


 頭蓋骨の穴によって、超竜牙兵の頭にいくつもヒビが走った。


 ヒビはみるみる長く、本数を増していき、頭蓋骨全体を覆っていく。


 慄くように頭を押さえる超竜牙兵だったが、無情にもヒビは頭を完全にめぐり、頭蓋骨は粉々に砕け散った。


 残された首から下も、脱力して膝を付き、後を追うように一瞬で色を失い、粉々になった。


 巨体の名残が、ささやかな風に吹かれて大気に溶ける。


 ハウルはそれを見届けると、ふはっ、と大きく息を吐いた。


 緊張の糸が切れ、蓄積されたダメージが一気に疲労に変わったのだ。


 足に力が入らず、両手を地に付ける。


 顔を上げる事すらままならなかった。


「……」


 タイガーは息を切らせるハウルを静かに見下ろす。


 その様子を見ていた男が立ち上がり、苛立ちを露骨にしてタイガーに怒鳴った。


「何ぼけっとしてんだ!とっとと仕留めろ!おい、聞いてんのか!?」


 しかしタイガーは動かない。


 ハウルがいつ動いても迎え撃とうと気を張り詰めていながら、あくまでハウルが落ち着きを取り戻すまで待つ様子だった。


 自分から仕掛ける気配は、微塵もない。


 様子を見ていたあずさが、おそるおそる前に出る。


 彼女を気に留める者はなく、あずさは次第に早足になり、ついにハウルの元へと駆け寄った。


「なっち!大丈夫!?」


 膝を付きハウルの顔を窺う。


 ハウルは彼女に気付いていたが、まともに彼女と話す体力も残っていなかった。


 ただ地面を見下ろし、深く息をするだけだ。


 タイガーも、彼女に気付いていながら反応を見せなかった。


 あずさはタイガーをちらりと見るが、構わずハウルを気遣う。


 ハウル、バーミッシュ、そしてヴィオキン。


 三つの異なる種族がいながら、争いが始まらない。


 タイガーが二人を襲う気配はない。


 その様子に、男が焦れて苛立ちを露わにした。


「……おかしいだろ、オイ」


「何がだ?」


 男の言葉に、タイガーが反応した。


「そいつら、敵だぞ?俺達の同胞をいくつも手にかけた、帰化種のガキ共だ。それを分かってて、ボケっと突っ立ってんのか?」


 男は今までの、相手をコケにし続ける調子ではない。


 底冷えするような怒気、いや、もっと原始的な激しい感情をタイガーに向けている。


 タイガーのすぐそばにいたハウルやあずさが、自らが睨まれたかのような錯覚に身をすくめ男を見る。


 しかし、真っ向からこれを受けるタイガーに、動じた様子はなかった。


「同胞を守る。それは私の使命であり、義務だ。それは変わらん」


「ならよぉ!」


「私の言う同胞は全てのバーミッシュではない」


 男が露骨に眉をひそめた。


 ハウルとあずさも、驚いたようにタイガーを見上げる。


「……へぇ、だったら、どんなバーミッシュだよ?」


「決まっている。……どんな理由であれ、もはや同胞等がこちらで命を取って顔を奪う事は、もうやめられまい。ヒトに化けねばこちらで生きていけない事も、分かっている。私一人に全ての同胞を守る事なぞ、適う訳もない。……ならばこそ、私は、せめて無駄に命を奪わず、慎み、必要なものだけを得て暮らす者だけはこの手で守るつもりだ」


 タイガーは男を指差し、むき出しの牙の間からはっきりと言い放つ。


「だが、貴様のしている事は、遊びだ。貴様のその顔は、無益な殺生を重ね獲物をほじって作った顔だ。腐臭にまみれた道楽者なぞ、同胞とは呼べん」


 一拍の間。


 放たれた言葉を男が受け入れ、理解し、そして真意を悟り飲み込むまでの時間は決して短いものではなかった。


「……へえぇ。つまり何だ、虎ちゃんは俺に喧嘩売りにここまで来た訳か」


 ぽつりと、そう零す。


「私は同胞等の帰還を望んでいるだけだ。誇りあるバーミッシュ達のな。……まずは貴様を正さねば、同胞達に先はない。これだけは言っておかねばならんと、ここまで来たのだ」


 男の右顎の縁までずり落ちていた目玉が、ついにぽとりと芝生に落ちた。


 顔の皮膚が破れ、かつて右目のあった場所から眼窩の洞が覗く。


「いい度胸してるよなぁ、ホント。……手前が俺に勝てると思ったか?」


 ばり、と。


 男の背中から雷のように破れる音が上がった。


 同時に、周辺一帯が暗くなる。


 男の背中から現れたものが、対峙するタイガー達の視界を埋めるように広がったのだ。


 空まで隠すその大きさは、男の体躯に収まっていたものとは思えないものだ。


 それは長い、長い指を持つ手の平に似ていたが、指と指との間には薄い皮膜が広がっている。


 それが広がると、それだけで辺りの空気が圧され、三人に荒い風を吹き付けた。


「ッ!」


「わっ!」


「……!」


 ハウルが咄嗟にあずさをかばって前に出、タイガーが頭蓋骨を腕で覆う。


 風が止む間に男を見ると、男の大きな口が更に大きく幅を増し、伸びた唇の狭間から無数の牙を覗かせていた。


 耳を越えて裂けた口は、もはやヒトのものではない。


 あまりに醜いその形相に、ハウルとあずさが息を呑んだ。


「手前等全員、部品にもならねぇぞ!」


 ばつん、と男の上半身が膨張し、上着を内側から張り詰めさせた。


 さらに体積を増す肉体を包み切れなくなった服の生地がみるみる間にあちこちに裂け目を作る。


 男の靴が、ぱんと弾けた。


 靴を履いていた足が、瞬時に何倍にも膨らんだ事で耐え切れなくなったのだ。


 現れた足は、前方に三本、後方に一本の指を持つ、鳥のものに似た足だ。


 自重を受けたその足が、芝生の上で静かに、確かに深く沈む。


 ずん、と重いものが男の背後で落下した。大樹に似たそのうねるものは、尻尾と呼ぶ他ない。


 ヒトに化けていたバーミッシュは、今やヒトをはるかに超える大きさに変わろうとしていた。


 その様を見ていたあずさが、ハウルの陰に隠れながら我知らずこぼす。


「バーミッシュって、怪獣になれるの……?」


「いや」


 答えたのはタイガーだ。ハウルとあずさが、はっとして彼を見る。


「奴は特別だ。我々から見ても、だ」


 男の肉体はなおも肥大し続け、ヒトの概形をも保たなくなってきた。


 男の首が太く、そして徐々に長くなっていき、高い鼻が根元から前へと押し出されて膨らんでいく。


 顔の皮が張り詰め、今にも破れるかといった瞬間、新たな声が上がった。


「よしなさい!」


 高い、幼い少女の声だった。


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