第25話 タイガーバーミッシュ

 現れたタイガーバーミッシュは、静かに立って一同を静観していた。


 ハウルはわずかに片足を引いてそれを見据え、あずさが虎を見ながら思わず唾を飲む。


 反射的に彼女の鼻が息を吸って鼻腔に空気を送る。


「……あれ?」


 流れ込んだ空気の臭いに、あずさは違和感を覚えた。


 男がタイガーバーミッシュを見て、崩れた顔に歓喜を浮かべ歩き出した。


 超竜牙兵が気安く歩みを進める男に道を譲るように、数歩後ろへ下がる。


「おいおい、虎ちゃーん。俺のピンチに来た感じー?マジエモくなーい?」


 歩く男が、タイガーまであと数歩といった所で足を止める。


「っつーか?俺より弱い同胞のトコに行ったらどーよ?俺が弱いと思った?ん?」


 軽薄な口調の問いかけに、タイガーバーミッシュが重い声で答える。


「こちら側の同胞は皆、仲間通しでつながりを作る事を嫌う。一人の危険がさらなる危機を呼ぶからだ。獲物の奪い合いも十分起こり得る。そんな中で、好んでつながりを作るのはお前だけだ。おかげで探すのは簡単だった」


「あっそー。俺は連絡網って事ねー」


 男は傷ついた様子もなく、おおげさに肩をすくめた。


 タイガーはわずかに体を傾けるようにして、男の背後にいる超竜牙兵を見る。


「そいつは何だ?」


「あ、俺の歯。超竜牙兵っつーんだけど、俺に似てイケてね?」


 タイガーはふん、と呆れたように小さく鼻を鳴らした。


「似てないな」


「あ、バレた?」


 この会話に、ハウルとあずさがえ、と声を漏らした。


 超竜牙兵は、頭部の色を除けば、竜のバーミッシュと言われて思い浮かぶそのままの姿をしているからだ。


「まあいいや。邪魔しねーからどうぞー」


 男が数歩下がってタイガーバーミッシュに道を譲った。


 タイガーバーミッシュは男の前を通り、ハウルへと空の眼窩を向けた。


「貴様等が同族の仇だとは聞いている。改めて言おう。我等から手を引け」


 ハウルはタイガーから堂々たる気風を感じ、呑まれかけるが、踏みとどまる。


 恐れもあったが、それよりも怒りが強かった。


 思った事を口にすれば、もう後には退けない。


 だからこそハウル、いや直は言い切った。


「ふざけるな。自己満足のために人を殺すような連中、放っておけるか」


 言い切ったその後、辺りの空気が変わった。


 言うべき事を言い切ったすっきりしたものと、途端に丸腰になったような心許なさが、彼の胸中に去来する。


「……そうか」


 静かに、タイガーが声を発した。


「ならば……、もう語るまい」


 すっ、とタイガーが片足を引き、半身になって構えた。


 手を軽く開いてとったその姿勢は、空手の構えに似ていた。


 ハウルも、腰を落とし両腕を軽く広げた構えを取った。 


 眼前の敵に対して、意識を集中させる。


 タイガーを注視し、額に位置する狼の鼻からすん、と息を吸う。


 獣に匹敵する優れた嗅覚が、空気の臭いを捉えた。


「……ん?」


 ふと、ハウルは空気の臭いに違和感を抱いた。


 タイガーへの注意が一瞬疑問に変わったその直後、ハウルの眼前には虎の頭蓋骨があった。


 近づかれた。


 そう気付いた瞬間、胸へ掌打が見舞われた。


 胸骨の裏にある肺や心臓が、揺れる。


 強い重圧に、ハウルの息が詰まった。


 たたらを踏んで後方へ下がり、片膝を付く。


「……っ、ごほっ……!」


 衝撃から解放された肺が空気を求め、ハウルが咳き込む。


 胸に残る衝撃はなおも強くその余韻を残していた。


 タイガーが前へ突き出していた腕をゆっくりと引き、踏み込んでいた足を戻してハウルを見下ろす。


「余裕があるな」


 注意が逸れていたのを見透かしたその発言に、ハウルは息を詰まらせた。


 呼吸が整うのを待たず、彼は立ち上がり、一歩下がって再び構える。


 タイガーもまた、構えを戻しハウルを見据えた。


 互いが相手に集中し、にらみ合う。


 両者は互いに、相手の手を読み合っていた。


 時間の流れが緩慢になったように、相手の姿勢・動きの機微が仔細に見えるようになっていく。


 こう来たらこう。こうされたらこう。ハウルの思考は迎撃に集中されていた。


 自分から攻めるという発想は湧いてこなかった。


 タイガーに隙がないのだ。


 こう行けばこうされる。こうすればこう出られる。自分から攻めた結果が全て読めたからこそ、ハウルは我知らず、相手の出方に活を見出そうとしていた。


 相手を観察している間にも時間は流れ、ハウルは攻め込む気配のないタイガーに焦れてくる。


 しかし、表情を持たないタイガーから焦燥は読み取れず、構える姿勢のわずかな挙動にも、焦りや苛立ちは見られない。


 石とにらみ合っているような錯覚すら覚えた。


 やがてハウルは自分の思考が後手に回ってる事に気付かされ、胸中に率直な感想を抱く


『こいつ、強い』


 ハウルは全身の関節が、固くなったような心地がした。


 タイガーが、動いた。


 片足の先がわずかに浮き、上体が揺れるように倒れたのだ。


 それに気付いたハウルが、接近するタイガーを警戒し片足を引いた。


 ハウルが半身に構えた直後、肉薄したタイガーの右腕がハウルの顔へと伸びる。


 ハウルもこれを迎え撃つように、右腕を伸ばした。


 その腕で迫る打撃を内側へ捌き、さらにそこから右の拳を鼻っ柱へ叩きこむつもりだった。


 両者の腕が交差し、強く打ち合わされる。


 先に動きに出たのは、タイガーだった。


 打ち合わせた右腕で拳を作り、それで槌のようにハウルの腕を真下に殴ったのだ。


 ハウルの意識が叩き落された腕に向く。


 その一瞬に、タイガーの右の拳が、ハウルの顔面を打った。


 大きく開いた狼の顎の内にあるハウルの鏡面のような顔には、ヒトの鼻や口はない。しかし感覚器としての機能は残っているため、そこへの打撃は痛み以上に彼の動揺を呼んだ。


 ハウルはのけぞり、左手で殴られた跡を押さえて後ろへ跳ぶ。


 反射的に取った動作だったが、英断だった。


 ハウルの視線が逸れた瞬間、タイガーの伸びきった右腕が引かれたのと入れ違うように、その右足が浮き上がったのだ。


 足先が矢のように、少し前までハウルの顔面のあった空間へと放たれる。


 風切り音を立てて飛んだその蹴りに、ハウルは更に後ろへと跳んだ。


 ざっ、と音を立ててハウルの足が地に着く。しかし、その踵は浮かせたままだ。


 ハウルは前傾し、顔を押さえていた左手を地に付けてタイガーを睨む。


「グゥルアッ!」


 ハウルは吠え、大きく前へ高く跳んだ。


 タイガーの高く蹴り出したままの足、そしてその向こうに見えるタイガーの頭部を狙うように両足を畳み、空中で両足で蹴りを放つ。


 タイガーはこれに動じることなく、回避に転じた。


 軸足となった左足の膝を曲げ、上体を倒す。伸びきった右足は戻さず、上体の動きに沿うように右足全体を地面に倒し、寝かせつけた。


 柔軟体操のような姿勢を取ることで、ハウルの飛び蹴りを下へ回避したのだ。


 跳び蹴りを避けられたハウルはタイガーの上を飛び越え、両手をついて着地する。


 背後のタイガーを一瞥し、直後弾かれたように前へ転がる。


 タイガーの追撃を警戒しての動作だ。


 しかしタイガーもまた、地を這うように跳ねてハウルとの距離を取り、立ち上がって再び構えを取っていた。


 遅れて、ハウルも再び構える。


 殴られた右の前腕に残る、重くじくじくした痛みが右腕から感覚を奪っていくのが分かった。


 しかしそれを意識から締め出し、ハウルはタイガーを見据えた。


 軽く両手を広げ腰を落としたハウルの姿勢は、いざという時に自分に有利な間合いを取るための、いわば様子見の姿勢だ。


 攻める時には前に出、守るときには下がる。そのための構えだ。


 対するタイガーは、両脇を締め、両手を自身の胸の高さで前後に並べた構えを取っていた。


 前に出した手で相手の攻撃をさばき、手前に引いた方の手で攻めに転ずる。そのための構えだ。


 互いに相手の先手を待ち、かつ、攻め方を見出すために相手への集中を研ぎ澄ませている。


 沈黙の中で、両者の五感はもはや互いにしか向けられていなかった。


 ハウルが一歩、右に出る。タイガーは左に踏み出す。


 間合いを維持するため、そして、互いの隙を見出すために、両者はにらみ合ったまま横へと走った。


 ざっざっざ。


 ざっざっざ。


 同じ歩幅、同じ歩数で同じ方向に動く二人。


 成り行きを見ていたあずさや男、超竜牙兵からどんどん離れていく。


 やがて通路に囲まれた草原の中心で、両者は同時に足を止めた。


 そして、距離を詰めた。


 ハウルが上体を深く前傾させ、タイガーへと迫る。


 タイガーは体軸を倒さず、足底を滑らせるように前へ出る。


 先に繰り出したのは、タイガーだった。


 跳ね上がった右足が、ハウルの頭部へ迫る。


 ハウルは前へ出した足を踏みしめ、右の前腕で蹴りを受けた。


 鈍くなった腕の感覚がさらに重い衝撃にしびれるが構わず、ハウルは更に前に出、曲げたままの右の肘をタイガーの顔へと向けて立てた。


 前進の勢いで、肘から生えた牙に似た鋭い突起の先端が虎の頭蓋骨に迫る。


 近づいた肘打ちの側面を、虎の右の掌打が叩いた。


 牙の軌道は外に逸らされ、ハウルの身体がタイガーに対して開く格好になる。


 しまった。


 そうハウルが思ったのも束の間、タイガーの左の掌打が顔面に飛んだ。


 まともに受けたハウルは芯の揺れる衝撃と息の詰まるのにのけぞり、たたらを踏む。


 顔を押さえたハウルはうめくが、その目はタイガーから離さない。


 タイガーが前へ出た。


 先ほどの掌打は、蹴りの姿勢である片足立ちの状態から打ったもので、威力は不十分。


 仕留めるため、今を機と見て攻めに出たのだ。


 ハウルがこれを見て、左足を大きく引き半身になる。


 心臓を相手から隠すこの構えは、防御に適したものだ。


 タイガーの右手がハウルの襟首を掴もうとするように飛んでいく。


 ハウルは右手でそれを弾き、胴を捻って左の拳を突き出した。


 タイガーの顔を狙って伸びたハウルの左の腕は、空を打ち抜き完全に伸びきった。


 タイガーが上体を反らし、後方に体をスウェーさせて拳を避けたのだ。


 ハウルが伸びた腕に危機感を抱く。


 しかし腕が引き戻されるより早く、タイガーが両手でその手首を掴んだ。


 息つく間もなく、タイガーが次の動きに出た。


 両足を浮かせ、ハウルの左肩を自分の股の下に通す。


 ハウルの左腕が重さで下がるよりも早く、タイガーの右膝裏にハウルの胸が、左膝裏にハウルの顎先がかけられる。


 ハウルの身体が首と胸にかかる圧と左腕の重さに耐えかね、地へ転がった。


 後の優位は明らかにタイガーにあった。


 膝をかけた相手の顎と胸を起点に、手首を掴んだ両手に力を込めて背中側に倒れる。


 びん、と。ハウルは左腕の筋肉が無理やり伸ばされた痛みに、背筋が跳ねた。


「アァッ!」


 喉より奥から上がった、声にもならない声。


 タイガーがハウルにかけたのは、飛び十字と呼ばれる技だった。


 本能と衝動だけで戦う怪物の技ではない。


 ハウルはほどこうと左腕に力を込めるが、それを超える引き延ばされる力によって筋の芯が悲鳴を上げる。


 しかし脱力させれば、曲がる方向とは逆に曲げられ肘関節が破壊されるのは明らかだ。


 立ち上がろうにも胸と顎を押さえられ、空いた右腕でタイガーの足首を掴むも、力負けしていた。


 振りほどこうとハウルは身体を必死でゆするが、かけられた技はほどけない。多少身じろぎする程度だ。


「アァ……、グ、グアア!」


 なおもぎりぎりと締め上げるような筋の痛みに、ハウルはこらえきれず声を上げる。


「……」


 極めているタイガーは一切動じることなく、技にも緩む気配はない。


 なりゆきを見ていたあずさが、血相を変えて木の影から踏み出した。


「なっち!」


 助けに行こうとするように走りかけるが、すぐに男を見て足を止める。声を上げてしまったのに気付き、慌てて口を押さえる。


 男はというと腰をどっかと芝に下ろし、胡坐をかいて戦いを見ていた。


 高さの揃わぬ大きな目を細め、退屈そうな顔で膝の上に頬杖をついている。


 その傍らには、主君を守るように超竜牙兵が立っていた。


 男の背中を見て、あずさは足が浮き立つのが分かった。


 前に出てハウルを、直を助けたい。しかし、男に気付かれれば自分が危ない。


 後ろに下がろうとする足を、彼女は葛藤しながら、理性によって必死で押しとどめていた。


「あぐっ、あ……!」


 ハウルの悲鳴に、あずさの膝が震える。ハウルと男の間で、彼女の目が泳ぐ。


『僕があずさを守る』


 脳裏に浮かぶ、直の言葉。


 同じ声の悲鳴に、あずさは唇をかんだ。


 耐え切れなくなり、彼女は視線を逸らしぎゅっと目を閉じる。


 そこで、ハウルの悲鳴が止んだ。


「……?」


 恐る恐る目を開け、視線を戻す。


 直が、片膝を立て左腕を押さえた姿勢でうずくまっていた。


 ハウルではなく、直が、だ。


 直は顔を上げ、離れた位置にいるタイガーを見上げている。


 対峙するタイガーはすでに立ち上がっており、両腕を自然に下げていた。


 肩で息をする直が、荒れた声を上げた。


「な、何で離した!?」


 その声には安堵よりも戸惑いの色が色濃く表れていた。


 タイガーは動じた風もなく、ゆっくりと声を発する。


「こちらの台詞だ。なぜ豹転を解いた?」


 問われた直が眉を顰め、自分を見下ろす。


 自分の姿の変化に気付いた直がはっとし、慌てて左腕のブレスを見る。


 ハウルフォンが、なかった。


 左腕を極められている間に、外れてしまっていたのだ。


「えっ!?えっ、えっ、ええぇ……」


 動揺をあらわに、直は慌てた様子で地面を見回し始めた。


 離れた場所に転がっているハウルフォンを見た瞬間、立つ時間も惜しいとばかりに手をついてそれを拾い上げた。


 画面を見下ろし、はわわと慄く。


 彼のその様子に、タイガーがわずかに首を捻った。


「……それがどうかしたか?」


 タイガーから初めて垣間見えた感情らしいものに、直はしどろもどろになって答えた。


「え、ええと、あの、ち、血が薄いから、これを使って……」


「なっち!?」


 思わずあずさは声を上げた。


 動揺しているとはいえ、敵にこちらの重要な情報を与えてしまっているのだ。引き止めるのも当然と言える。


 タイガーは沈黙した後、再び直に言った。


「ならばさっさと豹転しろ。戦う力のない者を打ちのめす気はない」


 当たり前のように言い切られたその言葉に、ハウルとあずさが「え」、と声を上げる。


 聞きつけた男が、はあ?と素っ頓狂な声を上げた。


「おいおい虎ちゃん、マジで言ってんの?」


「どう戦うかは私が決める。一方的な蹂躙などできん」


 直とあずさが目を丸くする一方で、男は心底面白くなさそうに噛みついた。


「それが面白いんじゃねーかよ。お前、マジしらけんだけどー」


「気に入らんなら黙っていろ」


 そう言い捨てて、タイガーは直の反応を待った。


 しかし、待たれても直は困っていた。


 ハウルフォンとタイガーとを見比べて、次に出るべき行動に迷っている。


「……?どうした、おじけづいたか?」


 その声音には脅す響きはなく、純粋に様子を窺っているのが直にも分かった。


 だからか、直は釣られるように本音を言う。


「えと、豹転はする。するけど、その、準備に三分はかかるんだ……」


 一拍の間。


 その後、率直な感想が沈黙を破った。


「長いな」


「……僕もそう思う」


 再び沈黙が降りる。


 やがてタイガーが腕を組み、直に言った。


「早くしろ。待っててやる」


 思いもしない提案に、直もあずさも、男も耳を疑った。


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