第23話 城戸あずさ
大学の敷地のすぐ隣には、大学と地元住民との交流を図るために設けられた、市民向けの自然公園がある。
四月に桜が咲き誇る事を除けば見所の全くない公園であるため、特別な行事がなければ、学生や住民がここに訪れる事はほぼ全くない。
直は待ち合わせに指定していた遊歩道沿いのベンチを見つけると、ベンチの上に溜まっていた枯葉や埃をさっと払い、そこに腰かけた。
元から人の通りが稀な公園であるが、居座ってみると、広さと相まって、その寂しさが一層のものに感じられた。
待ちながら、直は今までの出来事を思い返す。
人知れず人を襲い、顔を奪う怪物。
それと戦う、人間ではないもの。
人間と人間でないものの混血。
自分がそんな混血の存在であるという事実。
聞かされた話を証明するように次々と見せられる事件。
そして、事件を経て、自分自身で選んだ行動。
何もかもが、就職活動で積み重ねた陰鬱な感情を吹き飛ばしてしまうような出来事だった。
勝利の余韻に浸る時間があれば、今頃はもっと晴れやかな気分で過ごしていたに違いない。
しかし、優越感に浸る余裕は、突然現れた男に奪われた。
直の脳裏に焼き付いた男の顔は、まるで拙い似顔絵のようだ。
それが今も直の脳裏で、生の質感と迫力をもって直をじっと見ている。
浮かべられた笑顔は親愛からのものではない。
弱いものへ向けられる、嗜虐的な笑顔だ。
直の本能は、男の笑顔の先にあるものが、凄惨なものであることも同時に理解していた。
「……」
ふう、と、自然に鼻から息が吹かれた。
直は自分の選択に後悔してはいなかった。
脳裏に浮かぶ男の異様な顔は、彼が心を鎮めるにつれ、徐々にだが迫力を失っていく。
彼が物思いにふけっている間に、彼の見つめる先で小さなバッタが触覚を振り回しながら動いていた。
彼の目は自然とそれを追い、いつしか急く気持ちも忘れてじっと見入っていた。
静かな、静かな時が流れる。
その彼の背中が、いきなり押された。
「わっ!」
「うわあぁ!?」
直は仰天した。
振り返りながら腰を上げようとして、しかし立ち上がり損ねて尻から地面に落ちる。
痛みを意に介さず、這うようにして声から離れて、彼はようやく声の主を視認することができた。
「あ、あわわ、わわ、は、あぁ、え、えぇ?」
我に返り、驚いて心臓が飛び跳ねる感覚に胸を押さえ、肩で息をしながら相手を見る。
彼が目にしたのは、膝を曲げて両手を見せるあずさの姿だった。
制服姿で目を丸くし、その姿勢のままで固まっていた。
「なっち、すっごいビビリなんだ……」
「えぇー、えー、えぇ、き、城戸、さん……?何で?」
動転した感情を整理しようと、彼は荒い息のまま彼女に問う。
「いや、呼んだのそっちでしょ。あたしの学校、ここからも近いからって」
直の大学には、徒歩十分の範囲に私立高校がある。あずさはそこの生徒なのだ。
「はぁー、あー、そっか、そうだったー」
荒い息のままで受け答えする直に、あずさはようやく首をすくめて笑ってみせた。
「志乃さん以外に友達いないって、ホントみたいだね」
冗談めかして言われて、直の眉根がひそめられた。
かつてあずさや長瀬の言った、しょぼくれた顔になる。
「ほっといてよそれは」
ようやく落ち着きを取り戻した直は、立ち上がってベンチに座り直した。
あずさも、当たり前のように彼の隣に座る。
直は人見知りする性格ではあったが、あずさが妹と同い年と言う事もあってか、彼女の存在をプレッシャーとは感じられなかった。
そのあずさは話をしようと、座ったまま少しだけ直に近づいた。
「こんなトコに独りでいるなんて、見てる方が気の毒だよ。サークルとか入ってないの?」
「覗いてみた事はあるけど、志乃ちゃんと一緒に入れそうな所はなかったんだ。男だけとか女だけとか、じゃなかったら、その……、不健全な話を聞く所ばっかりだった」
直はなるだけあずさに気を使って言葉を選んだ。
大学で耳に入るような話のいくつかは、高校生には毒だと考えての事だった。
「……別々に好きな所に入れなかったの?」
「僕もそうしたかったけど、志乃ちゃんが嫌がったんだ。志乃ちゃんって、何かと僕と張り合いたがるから、二人で一緒にできる事じゃないと入りたがらなくてさ。他の人と仲良くすると拗ねちゃうし、ほっとけないんだ」
「……そうなんだ。結構わがままなんだね」
「寂しんぼなんだよ」
直はそう言って笑った。
あずさは納得したようなできないような、曖昧な顔になって首を傾げていた。
やがて気持ちを整理できたらしき頃、あずさは様子を窺うように直に尋ねた。
「……志乃さんの事、嫌いにならないの?」
「まさか。もう十年くらいの付き合いだし、今更だよ」
直は慣れた様子でそう言うが、梓の表情は未だ晴れなかった。
それどころか、この場にいない志乃に対して、どんどん不信を募らせているようだった。
しかししばらく後、そっか、とあずさは納得した様子を見せた。
「まぁそうかもね。……あのさ」
直は顔を上げた。
彼女の声が、沈んだものだとすぐに気付いたからだ。
しおらしい顔のあずさに、直はわずかに顔を寄せた。
「どうしたの?」
「あたし……、もう、やめたいな」
直は言わんとする事を察したが、それでもあえて尋ねた。
「どういう意味?」
「だって、その……さ」
あずさは煮え切らない返事をしてから、ぽつりとこう漏らした。
「怖いの、あいつが。すごく臭い、あの男」
直は口を堅く結び、頷いて同意を示した。
直にはあずさの気持ちが分かった。
あずさにとっても、直は最も彼女と近しい立場の人間だ。
これをきっかけに、あずさは話を続けた。
「実はさ、あたし、なっちより先輩だって言ったけどさ、そんなに長くはやってないんだ。自分が実は人とちょっと違うって知ったのも、つい最近だし……」
あずさは独白を続ける。
直はなまじ自分と重なるものがあるだけに、真剣に耳を傾けた。
「そりゃあ最初は驚いたけど、別のストレンジャーズ・チルドレンが引退してさ。あたしがやんなきゃいけなくなって、それで二ヶ月くらい頑張ってきたんだ。ナガさんと、良爺と」
そう言ってあずさは直を一目見て、すぐに気まずそうに目を逸らした。
「正直、なっちに説明しようとした時さ、調子に乗っちゃったんだよね。ミスドの時だよ?後輩ができてさ、いいトコ見せよって。それで騒ぎになっちゃったんだけど」
直は頷きかけ、そこで耳を疑った。
ドーナツ屋の乱闘で、直はあずさを思慮深い人間だと考えていた。
もちろん長瀬に叱られてはいたが、決して間違った行動は取っていないと思ったからだ。
壁に囲まれた屋内でバーミッシュを探し当て、派手に戦う。
彼女の戦い方に合ったやり方だ。
乱闘騒ぎを起こす事で人払いをも済ませられるし、それは人的被害を未然に防ぐ事にもなる。
退き方も心得ていた点でも、彼女に考えが足らないとは思っていなかった。
だからこそ、直は思わず声を上げた。
「あれ狙ってやってたんじゃないの!?」
「ふぇ!?え?何が?」
驚くあずさにはまるで覚えがない様子だ。
それで直は彼女が考えなしで動いていた事を思い知った。
「……何だよ、それぇ」
彼女に感心していた自分が情けなくなり、直はあずさ以上に落ち込んだ。
そんな直に、あずさは訳が分からず、戸惑いながら謝った。
「え、ええと、何かごめん……」
「いやいいよもう……」
直はひとしきり落ち込んでいた後、すぐに気を持ち直し顔を上げた。
「でもさ、城戸さんははすごいよ。僕なんて、気持ちの整理にずっと時間がかかったのに。僕よりずっと強―――」
「いいよ、お世辞は」
あずさははっきりとそう言った。
その表情は固く、拒絶の意志が強く現れていた。
直は黙りこくる。
「……あたしだって、少しはバーミッシュを倒してる。場数を踏んだ、なんて大げさな言い方になるけど、ちょっとは自分に自信がある。……でも分かる。あいつには、勝てない」
あずさははっきりとそう言った。
膝に乗せた手がスカートの裾を掴み、皺を作る。
直は目を丸くして息を呑み、耳を疑った。
いつも自信に満ちたあずさからは到底出てこない言葉だ。
「バーミッシュは人を襲って、顔を奪う。奪った顔はそのうち腐るから、また次の人間を襲う。だから、襲った人間が多いほど、バーミッシュの血の臭いは強くなる」
直の表情がこわばった。
彼女が言うのは、彼が今まで考えないようにしていた事だ。
気のせいだと思わなければ、自らの五感が訴えるものが、単純な、しかし恐ろしい事実を突き付けてくる事を思い知ってしまう。
「あいつの臭いは多すぎる」
彼女の言葉に、直は震えた。
生の感覚に基づいた、身の毛のよだつ恐怖から来るものだった。
「あいつの臭いを思い出すと、今でも胸がつぶれて、息ができなくなりそうなの。どれだけひどいことをしてきた奴か、嫌でも臭いで分かっちゃう。しかもあいつ、良爺でも勝てるか分からないんだよ。それでも私等、そんなの相手にしなきゃいけないんだ……」
上ずった音が梓の喉から上がった。
直が見ると、あずさは深く俯き、すすり泣いていた。
「やだよぅ……怖いよぉ」
涙声の呟きは、か細い小さなものだった。
泣きじゃくるあずさは、幼い少女のようだった。
直は胸の詰まる思いがした。
自分の感じる恐怖は、彼女と同じものだ。
彼女にも、今の自分と同じ役割を求められている。
「……あずさ」
直は名前で彼女を呼んだ。
それは意を決してのものだった。
「……あずさ、覚えてる?なんでバーミッシュなんてものと戦えるのかって、僕が聞いたの」
あずさの泣くのが、わずかに小さくなった。
話を聞こうとしているのを確認して、直は続ける。
「あずさは友達のためだって言ってた。友達がバーミッシュに襲われるかもしれないからだって。だから今も、やめようかなって言ってたけど、やめるとは言わなかったよね」
あずさは顔を上げなかったが、聞き入っているのは明らかだった。
そして、直の言葉を肯定している事も、だ。
「それって、すごいよ。僕には多分、すぐに同じ事は言えない。志乃ちゃんには怒られそうだけどね。僕になかなかできない事を、あずさはやろうとしてるんだ。……あずさがそんな子だから、僕だってあの時、頑張れたんだ」
あの時。直が豹転し、ラットバーミッシュと戦った時の事だ。
「あのネズミのバーミッシュの起こした事件のニュースをテレビで見たらさ、殺された人達の顔が映ったんだ。志乃ちゃんに似てる子もいたし、あずさと同じ年くらいの子もいた。すごくドキッとしたし、違うって分かってホッともした。でも、もしこの中にあずさの友達がいたら、って所までは頭があんまり回らなかったんだ。ひどいよね、僕。……でも、あの時あずさが襲われてるのを見たらさ、背中からすっと、何かが抜けたみたいに軽くなったんだ。上手く言えないんだけど、多分切れてた、って言うんだと思う」
やがてあずさがおずおずと上目遣いに顔を上げた。
泣きはらした目で見上げる彼女に、直は言う。
「僕もやめない。あずさが友達を守るのなら、僕があずさを守る。今日はそれが言いたかったんだ」
あずさは涙をぬぐうのを忘れたように、じっと直を見つめた。
直にとって、これはあずさへのフォローのつもりだった。
セガールが長瀬にしたように、直もあずさを落ち着かせようとしたのだ。
直があずさの返事を待つ間、どこか固い沈黙が流れる。
あずさの視線がゆっくりと下がり、その様子に直が不安を覚える。
余計なプレッシャーを与えたのかと思うと、直は落ち着かなくなり、次に何と言うべきか必死に考えを巡らせ始めた。
そこで、ぷっ、と、あずさの口から声が漏れた。
「なっち、ふふ、それじゃ、愛の告白だよ……、ふふ」
「え?」
言われて、直は自分の言葉を反芻する。
ようやくそうとしか聞こえない事に気付いた途端、彼の顔は一気に赤くなった。
「え、あ、いや!そ、そんなつもりじゃなくて、その……!」
「んっふふ、ふふ……」
涙の跡の残る顔で、あずさは笑う。
ひとしきり笑った頃、彼女はぐしぐしと袖で目を拭うと、直を見上げて丸めていた背筋を伸ばした。
「あー、なんか笑っちゃった。なっちに励まされるなんて、なーんか負けた気分」
そう言われた直は、むっとしてあずさを睨んだ。しかし彼の表情にまるで迫力はない。
「そんな言い方ないと思うよ」
「ごめんごめん。……ありがと、なっち。もう、全然怖くないや」
あずさの言葉に、直もようやく安心からふぅ、と息をついた。
「よかった。僕も安心したよ」
「こんな所、志乃さんに見られたら言い訳できないね」
「なんで志乃ちゃんがそこで出てくるのさ」
「今のなっち、女の子泣かせてるようにしか見えないよ。なっち大ピンチ」
「……もしそうなったら助けてよ。本当に」
「どうしよっかなー」
「ちょっ……」
やがてどちらともなく、ふふ、と笑う。
心地よい沈黙が二人の間にあった。
そんな時間が長く続けば、二人にとってどれだけ良かっただろうか。
「ちょいちょーい、何―?超いい感じじゃーん」
不躾な足音と、底抜けにひょうきんな声が二人の傍で上がった。
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