第17話 女の顔をした男
太陽が高く昇りきった頃、長瀬はスクーターに乗って、自宅へと帰る最中だった。
知人から譲り受けたそのスクーターは型遅れの野暮ったいデザインのものだが、重い荷物を載せても軽快に走れるそれを長瀬は気に入っていた。
早く帰って勤めの準備をしなければ、本業に支障が出る。
赤信号が変わるのを待ちながら、彼女は歩道に何気なく目を移した。
平日の昼間という事もあって、子連れの主婦や時間を持て余した若者が目立った。
その中に一人、彼女の目を引く者がいた。
白いスーツを着た男だ。
容姿もスタイルも整ってはいるが、二車線の脇の歩道、それも昼間に八百屋や古本屋の前にいるにしては浮いた存在だ。
何より、彼女は男の顔に見覚えがあった。
地下駐車場連続殺害事件、四人目の被害者。
それは女性の顔だったが、男のそれが他人の空似ではないという確信が彼女にはあった。
男は長瀬の傍を通り過ぎ、変わらぬ歩調で彼女から離れていった。
長瀬は男が角に曲がって姿を消したのをサイドミラーの中で確認すると、スクーターを歩道の脇へと押し上げて、エンジンを切って鍵を抜いた。ヘルメットを脱ぎ、男の向かった先へと急ぐ。
男の消えた角へ向かいながら長瀬は携帯を開き、慣れた手つきであずさの番号を呼び出した。
『はーい、何―?』
呑気で朗らかな声に、長瀬は平時の固い口調で言う。
「長瀬です。お忙しい中、申し訳ありませんがお時間を頂きたいです。バーミッシュです。連日報道されている事件の主犯と思われます。場所は―――」
その日あずさは非常に気だるい気分だった。
一昨日は戦い、昨日は面白くない話を聞かされた。
そのせいで心身共に疲労がたまり、少々神経質になっていた。
その上テストまで日がないため、彼女は友達と一緒に、仕方なしにノートをまとめているのだった。
そんな時に電話がなれば、当然不機嫌にもなる。
「ちょっとごめんね。……はいはーい、何―?」
そこでなお明るく電話に出られる自分に、彼女は大人としてのささやかな優越感を感じるのだった。
着メロで誰か、そしてこれからされる話の内容も察しがついていた。
『長瀬です。お忙しい中、申し訳ありませんがお時間を頂きたいです。バーミッシュです』
お決まりのような台詞に眉をしかめ、彼女は不機嫌を露にして答えた。予想外の内容の方が、新鮮な驚きがある。
「はい、お呼びですね。どこでしょう?」
『空坂町の路地です。現在追跡してますから、私をGPSで確認してください』
「はい急行します」
早口で答えて携帯を切り、あずさは席を立った。隣に座っていた友人の千鶴が彼女を見上げる。
「あずちゃん、どしたの?」
「ごめん、ちょい急用」
「えーまた?最近ずっとそうじゃん。サボれないの?」
「いやいや、人気者は辛いのよ」
不平を言う千鶴や他の友人達をなだめながら、あずさは広げたノートをしまった。
彼女自身も写させてもらいたいのはやまやまだったが、スマートフォンを点け、GPS機能で長瀬の場所を割り出す。
幸いと言うべきか、自転車で行ける範囲だ。
気が進まない。それが彼女の偽らざる本心だったが……
「一応やばいんだよね、ナガさん」
あずさは鞄を抱え、駐輪場へと走った。
白い服の男を追いながら、長瀬は次に直へと電話をかけた。
「長瀬です。お忙しい中、申し訳ありませんがお時間を頂きたいです」
『バーミッシュ、ですね』
返ってきた声は静かで、長瀬はやや面食らう。
「……はい。最近の連続殺人犯と思われます」
『場所は?』
「空坂町の路地です。現在追跡しています。GPSで確認してほしいところですが、そうはいきませんね。通話中ですから。案内しますので、電話は切らないでください」
『はい』
長瀬は彼の声音に抑揚がないのを不思議に思ったが、視線の先の男が角に曲がるのを見て、急いで前方に集中する。
この付近の地理を、彼女は全て暗記していた。
地元の派出所勤務の警察官よりも詳しいと自負できる。
公衆電話からでも案内が出来るように、彼女は全ての道筋を頭に叩きこんであった。
直のように、指示を続けるのが何より重要という特殊なパターンは予想していなかったが、覚えた甲斐はあったと言える。
「十時路を南に曲がって、二つ目の角です。城戸さんにも応援を要請していますから、合流できれば一緒に来て下さい」
声量に気を付けながら彼女は直に説明した。
受話器の向こうで風を切る音が分かり、直が自転車を走らせているのを察する事ができた。
何度も何度も、男は角を曲がって行く。長瀬はまかれまいと、追う事に気を配る。
『はい。そうだ、顔以外にそのバーミッシュの特徴は何かありますか?』
「白いスーツの上下です。自己愛の強そうな男ですから、見れば分かると思います」
『男ですね、分かりました』
しっかり敵の容姿を確認する直に、長瀬は頼もしさすら感じ始める。
彼女は意気込んで尾行に向かい、男を追って角に曲がった。
そこで彼女は足を止めた。
行き止まり。男はいない。
息を呑んだ直後、顎の下を冷たい感触が走った。
「追っかけとは嬉しいねぇ」
長く伸びた指を長瀬の顎に沿え、男は微笑んだ。
背筋の凍りつくような、残酷な笑みだった。
「迂闊だった、と思うかい?」
男の呟きは、長瀬の心情を良く表していた。
平日昼間の細い路地。人気はなく、男の異質な姿を目にするものは誰もいない。
男は長瀬を誘い込んでいたのだ。
会話に集中し過ぎていたせいもあるが、踏み込み過ぎたのが災いした。
何度も道を曲がっていたのも、虚をついて距離を詰めるためだったのだ。
「……尾行に、慣れていた?」
「口うるさいのがいてねぇ。しかし、なかなかどうして」
鋼の爪を滑らせるようにして、男が鼻先を長瀬の頬に近づけた。
吐息のかかる位置まで迫り、小さく呟く。
「美しい。良い顔だ」
良い、のニュアンスに長瀬は臍を噛む。
獲物を値踏みした言い方だ。
長瀬は携帯を持った手をゆっくりと下ろし、男を睨む。
「……地下駐車場で殺された四人も、あなたが?」
「は?……ああ、あれか。みーんな、好みの顔をしていたからね、もらったんだ。でもね、僕は今とても困っているんだ」
男がそこまで言った時、彼の下唇がへたりだした。
引力に従い、だらしなく下へめくれて歯をさらし―――取れた。
びちゃ、と音を立ててアスファルトに肉片が落ちる。
男の鼻もずれ始め、耳もずるずると顎の下にまで下がっていく。
目玉も眼窩から零れ落ちそうになっている。
顔の部品の全てが、川の流れに負ける小船のように下へと落ちていき、今や人の顔を成していなかった。
「この顔も限界さ。だから、ね」
腐り落ちていく顔を空いた手で覆い、男は頬を掴んだ。
豆腐をちぎるようにわずかな飛沫を散らし、たやすく顔の皮が引き剥がされた。
長瀬の頬に赤い液体の粒が飛び、粘った音を立てて男の顔の皮と歯、そして詰め物の肉とが足元に転がる。
目玉が二つ、長瀬の靴に当たって跳ねた。
男はバーミッシュとしての正体を現した。
窄まった頬、前に突き出た細い前歯。
血と体液で薄汚れた、剥き出しの骨。
落ちた人間の耳の代わりに、薄い獣毛に包まれ丸みを帯びた貝のような耳が飛び出す。
鼠の頭蓋に、鼠の耳。
ラットバーミッシュが顎を開き、生臭い吐息を吐いた。
「いただきます」
ラットが自由にしていた方の手の指先が、滑るように長さを得る。
刃の長さと切れ味を持つ指が長瀬の額へと触れた。
「ちょい待ち」
突然、声が上がった。別の声だ。
ラットが顔を上げ、動揺を露わにして周りに顔を向ける。
「誰だ、どこにいる!?」
「こっちこっち」
ラットが長瀬の額から爪を放し、背後を振り返る。
ラットの顎がかち上げられたのも、それと同時だった。
ラットの足が宙に浮き、体が後方へ飛ぶ。
ラットは背中から落ち、息を詰まらせて倒れた。
「がっ……」
ラットは咳き込みながら、肘で身を起こした。
最初に見たもの、彼の前にいたのは女子高生の制服を着た鬼だった。
つり上がったまなじりを思わせる彫りの仮面に、食いしばった歯。
赤い全身に、額に生えた二本の角。
高く掲げた片足は、先ほどラットの顎を蹴り上げたものだ。
鬼に似た異形は片足を下ろし、鋭い眼で倒した相手をねめつけた。
「ヴィオキン、貴様!」
「何が貴様、だ。ナガさん、無事?」
ヴィオキンは前へ出て長瀬を背後に隠した。
長瀬は顎に手を沿え、傷の深さを確認する。
薄皮一枚ですんだ事を知ると、安堵から大きく息を吐いた。
「ええ、大丈夫です。助かりました」
長瀬からすれば命の危機だった。
動悸を押さえながら、あずさの邪魔にならないように下がる。
今やヴィオキンとなったあずさは、襟からリボンを引き抜いて長瀬に差し出した。
首元を緩めるためでもあるが、あずさの学校ではリボンの色で学年が分かれるため、身元が割れるのを防ぐためでもある。
リボンを長瀬に渡すと、ヴィオキンは意気揚々と指を組んで手首を鳴らし、そして首を鳴らした。
「んじゃあ、ちゃっちゃとやっちゃいますか」
ヴィオキンが改めてラットを睨みつけ、腰を落として身構えた。
ラットも立ち上がり、長く伸びた十指をヴィオキンに広げる。
「ッシャアァ!」
あずさが地を蹴り、傍のビルの壁を駆けてさらに高く跳んだ。
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