30 逸脱

 思わずげっという言葉が出るところだった。


無遠慮に空気を壊して事務所に戻ってきたのは、誰もが見惚れるであろ美貌にエメラルドグリーンの輝く長髪。堕された神のうちの1人、ハウライトラピスだった。


つい先程まで彼を無力化……いや、彼を殺す算段を立てていた身としてはぐっと喉に息が詰まり嫌な汗が吹き上がる感覚を覚えた。


その緊張感に気づいているのかいないのか。ハウライトラピスはズカズカとクリストファーとリュシアンの元へ歩み寄り、しゃがみ込んでから大きく息を吸った。


「ふむ、鉄錆と血の匂い……愛と情欲、憎しみと嫉妬、盲信といったところか?やはり人間がUHMに化けると上質なコアが出来るようだな」


「ハウライトラピス、お前はクリスに手を出すつもりか?いや、俺がいなければ喰っていただろう?」


リュシアンは眼光鋭くハウライトラピスを睨みつける。クリストファーの頭をしっかりと抱いて、じりじりと体の方も守るように盾になる位置に移動する。それを見てもなお僅かに口に笑みを含んだままハウライトラピスは言葉を続ける。


「今まで雲隠れしていたのに急に友情ごっことは笑えてくるな。そんなやわな男じゃなかっただろう、リュ・シ・ア・ン?」


「気持ちが悪い。馴れ馴れしい。これ以上近寄るな。お前は昔から予測不可能で未知の存在だ。俺の能力の域から逸脱した存在……人であって人でない、UHMですらないお前を受け入れることなんて出来ない。早急にこの場から消え失せるんだな。迅速に。素早く」


「私と会話する気はないということか?寂しいなぁ」


わざとらしくハウライトラピスはため息をついてみせる。しかしリュシアンはじろりとハウライトラピスを睨みつけたまま固く口を閉ざした。明らかな敵意をぶつけられているのにも関わらず、ハウライトラピスはまるで子供が駄々をこねているのを見るような目でリュシアンを見つめる。


「ハウライトラピス」


不意に彼を呼ぶ声が響いた。その声は力無いものの、よく響く低い声でその場にいた全員の視線を集める。


春というのに妙なくらい厚着をして、室内なのにキャスケットを被った彼は確か具合が悪かったはずだ。雷呀蕾はその真っ青な顔色を隠すことなく足音も立てずにゆっくりとハウライトラピスに近づく。


そう言えばいつこの部屋に蕾は入ってきたのだろうか。あまりの緊張に扉を開ける音に気付かなかったのかもしれないと思いながらも何故か違和感を感じてしまう。なぜ違和感を感じるのか、それもわからない。息が詰まるような感覚を覚えた。


いつからいた?いつ入ってきた?何をしにきた?

多くの疑問が湧いてくる。どこからか腐臭が漂ってきた。


「貴様が何をしようと俺には興味がないし、干渉するつもりもない。だがここで騒ぎを起こすな。ゆっくり体を休めることも出来ない」


蕾はいつものどもりなどまるで最初からないかのようにスラスラとハウライトラピスへ文句を述べながら歩み寄る。そして呆気にとられているハウライトラピスの目の前に立ち塞がると眼前に指を突きつけた。


「俺は貴様が嫌いだ。世界が自分中心に回っているような顔をして平然と人の心を踏みにじる行為をする貴様が嫌いだ。上から目線の貴様が嫌いだ。自分が一番優しくて自分が一番可愛いと思っている貴様が嫌いだ。俺は誰が貴様のことを肯定しようとも否定し続けてやる。この世で最もおぞましく、いやらしく、意地汚いのは貴様だと言い続けてやる」


「待て待て待て、私そんなに嫌われるようなことをお前にしたか?」


流石に怒涛の悪口にハウライトラピスもたじたじになる。先程までの余裕はもうどこにも見当たらない。


「うるさいうるさいうるさい黙れ。いいか、何度だって言ってやるし貴様の行い全てを邪魔したっていいと俺は思っているんだ。それくらい嫌いなんだ。わからなくていい、理解されるのもヘドが出そうだからな。大人しく引っ込んでいろ、事務所から消えろといっているんじゃない。仕事を終えたら部屋から出てくるなとだけ言っているんだ」


一歩一歩距離を詰められ憎悪をぶつけられるのはさすがのハウライトラピスでも堪えるのか、蕾から若干顔を逸らす。ちらりと亜美の方へ助けを求める視線を投げかけたが、亜美も関わりたくないらしくパッと視線を逸らす。


「な、なあ、少し落ち着きたまえよ。様子がおかしいにも限度というものがあるだろう?」


「指図するな」


しかしこの腐臭は一体どこから漂ってくるのだろう。確かどこかで一度嗅いだことのある匂いのはずだ。ぼんやりと思考を巡らせていたがこれ以上ヒートアップしてはならないと判断したのか、亜美が2人の間に割って入ることでこの無意味とも言える争いは幕を閉じた。

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