第1話 すべてが変わった日 二年前:ヴァン
約二年前
「だがあるいは、かの者が復活することもあり得るかもしれない」
父の声だ。
夜中、ひどい胸騒ぎがして目を覚ました。自室のドアを開けて声のするほうへ歩いていくと、父と母が話していた。
このときのことは、まだ鮮明に覚えている。
自分の運命を変えた、満月の晩の出来事。
軍事国家カローラの北部に位置する小さな村、ラインドッグ。人口三百人ほど、農家を中心とした村で、円形に並ぶ畑の中心部に家屋が密集しているのが特徴だ。
森を挟んで南東には大きな町があり、そこから定期的に来る行商に頼って生活をしている。
といっても、野菜はある程度自足できるため、買うのは生活必需品や肉類が主となる。
すぐ北は空になっていて、ここ一帯は珍しく柵が設けられていない。
小型の飛空挺すら停泊しないこの付近では、空釣り以外でそこへ足を運ぶ者はいなかった。
リビングのドアを開けたヴァンを、両親は笑って出迎えた。起こしちゃってごめんねと母が声をかける。
その前に話していた復活がどうこうというのは、今となってはよく思い出せない。
母がヴァンの肩を抱いたところで、家の外から悲鳴が上がった。驚いて窓の外へ視線をやると、赤い炎がいくつも上がっているのが見えた。
視線を動かすと、父親の顔が引きつっていた。見たことのない表情だった。血相を変えて部屋から飛び出していく。母はヴァンに「ここから動かないで」と言い、父の後を追っていった。
まだ幼かった彼にも、ただならぬことが起こった、というのはすぐに分かった。
一人残されたヴァンは、当然のように部屋から飛び出した。
この判断は正解だったと、現在ではそう思っている。残っていれば、家ごと燃やされていたのだから。
深夜。夜のとばりが下りた村は、本来ならば静けさに満ちているはずだ。だが、この日は違った。そこら中で悲鳴が上がり、何かが壊れる音が響いていた。
玄関から出たところに母親がいて、茫然自失といった様子で立ち尽くしていた。
母の横から顔を出すと、充満した血の臭いが鼻をつく。右手で口元を覆って視線を巡らせると、見たことのない光景が広がっていた。
この時、その『臭い』を自分が即座に『血液』だと判断できたのは本能によるものだろう。
無論吸血鬼としての本能だが、このときのヴァンはまだその事実を知らなかった。
母の足下をくぐり抜けて、家の外の地面を踏む。遠くのほうでは火の手が上がっている。燃えていた。
視界の端では油を家に向かって撒く男がいた。その隣に松明を持った髪の長い女がいて、間もなくして火を放った。一瞬にして燃え広がった炎は酷く非現実的で、ヴァンはしばらく周りで起こっている事実を飲み込めずにいた。
民家から子供を抱えて飛び出した女の背中に刃が突き立てられる。炎とは別物の赤が、地面にぶちまけられる。
赤ん坊の泣き声でさえ、悲鳴の波にかき消される。
ヴァンには理解できなかった。何が起こっているのかも、それが起こっている理由も。そして、それをする意味も。
頭の中で疑問が渦巻いて、だが声には出なかった。
反応としては、至極当然だっただろう。むしろ、かなり落ち着いていたほうかもしれない。
そこで、ヴァンは父親の姿が見えないことに気付いた。母に訊こうと振り返るが、彼女の心はもうそこになかった。
斜め上を向き、口は半開き。見たことないくらいに目が血走っていて、それはもうヴァンの知っている母親ではなかった。
村の惨状に、一種のパニックに陥っていたのだ。逃避というのが近いだろうか。とにかく、母親の心は一瞬のうちに病んだのだった。
ヴァンはもう一度視線を巡らせる。悲惨な光景を見るのは苦痛だが、確認しなければならないことがあった。
村を襲っている連中が誰であるか、だ。服装からして賊の部類ではない。
青く、肩に紋章のある制服……この国の……軍隊――――ッ!?
「え……いや、なんで……」
「それは、私が吸血鬼だからだ」
まるで心を読んだかのように、男の声がした。見れば、口元を赤く濡らした父親が立っている。名前はグラム・オリエンタ。今までと変わらぬ顔と、体躯。だが唯一違うところがあった。それに気付いて、ヴァンは恐る恐る訊いた。訊いたら何かが変わってしまいそうで怖かったが、訊かずにはいられなかった。
「父さん……背中、どうしたの?」
「翼だ」
平坦な答え方だった。グラムの背中にはたしかに、黒光りする巨大な翼が出現していた。悪魔を彷彿とさせるそれは、吸血鬼としても珍しい。
彼が【翼持ち】と呼称されていたことをヴァンが知るのは、まだ後の話だ。
「いいかヴァン。お前は吸血鬼の息子だ。人間とのハーフだ。この村が軍に襲われたこと、その責任は私にある。私は、落とし前を付けねばならない」
今なら分かる。その時ヴァンの家に軍の人間が寄ってこなかった理由も、父にはまだ勝算があったことも。なぜなら、軍の人間ではヴァンの父親に勝てなかったから。並みの軍人では、吸血鬼などに太刀打ちできない。
父親の勝算、結果的にそれは誤算だった。
なぜなら、そう。父親を殺す専門に雇われた奴がいたからだ。
ギルドのハンターか、それとも軍の聖職者か、はたまた異種族か。それは分からなかった。
どこからか現れたそいつは、真っ白な仮面を被り真っ黒なローブとフードをしていた。
一瞬で、父の雰囲気が変わった。ヴァンには――おそらくその場の誰もが――そう感じた。
爪が長く伸び、牙が生える。体中を黒いオーラが覆い、殺気を放つ。
「吸血鬼さん。戦いましょうか。葬って差し上げるわ」
驚いた。てっきり男だと思っていた。声音から察するに、あの仮面の奴は女だった。しかし言葉は
最初から、軍は彼女と父親を戦わせるつもりだったのだろう。でなければ、一対一の状況など作られようはずもない。
まず動いたのはグラムのほうだった。軽く地面から浮いたかと思うと、ヴァンが目で追えないほどの速さで女に接近していく。
爪で女を抉ろうと突き出された腕。その腕を素速く握る仮面の女。あの速さの突きを素手で止める、半端な強さじゃないことはヴァンでも分かった。
女の拳がグラムの腹にめり込む。
苦しげな呻き声が聞こえた。女をふりほどいたグラムが翼を打ち、少し距離をとる。地面に足が付くとほぼ同時、女が追撃をしかけようと走った。
対して、グラムは静止したまま右手を差し出す。その手の上、ゆらりと揺らめく炎が見えた。
手を振ると、ひとりでに女目がけて飛んでいく。
女は身をかがめて避けようとした。たしかに、それは成功した。だがいきなり軌道を変えた炎が背中にヒット。布が焼ける臭いの後で、皮膚の焼ける独特の臭いがした。
しかし女は走る速度を緩めなかった。
一瞬で間合いが詰まる。
グラムが反応するより速く、女が腕を掴む。そして――――引きちぎられた。
ヴァンは言葉が出なかった。形容しがたい感情が渦巻いて、ねじれるように胃が痛い。
ボトリ。
落ちる腕。
ボタボタボタと、滴った赤黒い血液。人間より、若干黒みが増すだろうか。
そして、量が少ない。そういう種族だ。
失った左手を押さえる父。 ――嗚呼、コレが戦いか。そう、子供ながらにして、ヴァンは理解した。
齢十四の子供には、あまりにも残酷な光景だ。古い神話の英雄譚や、昔話の勇者とはわけが違う。
軽く母に習った歴史の戦争とも、ヒーローが悪者を倒す話とも違う。 ――これが――――戦いなんだ。
血が流れ。
人が焼かれ。
叫び声が鼓膜を震わせ。
腕が無くなる。
――ふざけるなよ……ふざけるなよ。
感じたものは、怒りだった。だが、動けなかった。
なぜなら、そう。怖かったのだ。とてつもなく。
十四歳。話したことのあるおじさんも、仲の良かったお店のおばさんもいる。
人が少なかった村には、たしかに同年代の友人こそいなかったまでも。だがそれでも、大切
な人々だ。
ああ、昼間は暖かかったのに、今は酷く寒い。
肌を刺すような冷気がある。
にも関わらず、皮膚を焼くのは炎の熱と、怒り。ひしひしと感じられる、内蔵を掴むような恐怖。
グラムから必死の形相で繰り出された突き。しかし軽々と躱される。
「流石にもう歳ですね。全盛期の戦闘力がない。私など、軽く屠れたでしょうに」
腹に蹴りが入った。軽くグラムの体が浮く。
口から透明な液体が吐き出された。
ヴァンは見るに堪えなかった。なんなんだ、これは。
口が乾いて、舌が張り付く。言葉を発せなかった。
「くそっ」
短く吐き捨てる父。
羽ばたき、宙へと逃れる。ある程度高く上がるが、よろよろと安定しない。
「やれ!」
声が響いた。
一瞬で、父親は蜂の巣になった。
銀の鏃。次々と放たれた矢が、体を貫いていく。
遂には、射られた鳥のように落下。『ように』というよりは、『それそのもの』のようにも感じる。
地面に落ちたところで、一人の男がグラムに歩み寄った。
彼の腕には重そうなハンマー。並みの大きさではない。重さも相当あるだろう。証拠に、彼でさえ地面に引きずっている。実戦で使えるような代物ではない。あれは、吸血鬼にとどめを刺すための武器だ。肩に担ぎ、反動をつけて振り上げる。
「や……やめ――――」
グラムの、頭が潰れた。
「あ……ああぁ……」
体が動かない。頭が回らない……
ついに母親が崩れ落ちた。気を失ったのか……。そして気付けば、仮面の女はもういなかった。
村に残る人は、もはや僅かとなっていた。そのほとんどが血を流し、炎に焼かれたのだ。
父親の頭を潰した男。青い軍服に身を包み、金髪を丁寧に撫でつけている。地面にめり込んだハンマーをそのままに放置し、腰に吊った剣帯から細身の剣を抜く。グラムの処理を寄ってきた部下に任せ、残るヴァンの元へと歩いてきた。
「この村にいることは分かっていたが、まさか人との間に子供までいたとはな。吸血鬼のハーフ、ダンピールか。ずいぶんと珍しいものだ」
「レイリ大佐。どうします?殺しますか?」
後ろから小走りで駆け寄ってきた男がそう問いかける。
「いいや。珍しい個体だ。会議で判断を仰ごう。上手くいけば、何かしら新しい進展があるかもしれん」
「了解しました」
「母親のほうは殺しておけ」
「ハッ」
短く返事をする。腰から黒い何かを取り出し、横たわる母親に向かって先端の穴を向ける。
ヴァンには、それがなにか分からなかった。
「新しく北から入った武器、銃か。目新しいものを使いたいのは分かるが、反動がくるらしい。気をつけろよ」
「分かっております」
「まったく、北は毎度珍しいものを作る。キカイだとかカキだとか。魔法や石術の類いとは全く異なる技術らしい。分からぬ話だ」
黒光りするオートマチック拳銃は、その村に酷く不釣り合いだった。男は両手でしっかりと握り、引き金を引き絞る。
火薬の臭いと銃声。ヴァンの足下が、紅く染まった――。
気付けば、ヴァンは馬車の中にいた。傍らに大きな男が座っていて、目の前にも二人ほど軍人が居る。手元を見れば、両手に手錠がかかっていた。頑丈そうな鉄の手錠で、簡単には外せそうにない。
ふと揺れが収まり、一人男が入ってきた。
「交代だ。休んで良いぞ」
目の前の男二人が立ち上がり、談笑しながら馬車を降りていく。交代で入ってきた男が、先ほどまで彼らのいた位置に陣取る。
ヴァンの目線に気付いたようだが、彼は何も言わない。
何も、考えられなかった。
ただ無心に目の前を眺め、振動を聞き、体を揺らす。
ヴァンの生まれ育った村から出て、馬車は首都アローラへと向かっていた。大陸のほぼ中心に位置し、軍の大規模な施設や王宮の所在地である。各地から特産品や人の集まる場所で、貿易で得た物品もそのほとんどが一度アローラへと集まってくる。
軍事国家であるここカローラは、首都のうち軍の施設が占める割合が高く、軍人も軍服のままで買い物をする姿などが特徴的だ。
ヴァンは当然ながら行ったことがない。だが今となっては、どこへ向かうのかなどどうでもいい話だった。
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