第19話 凛サイド~お泊まり当日

 今日は金曜日。

 そう、天音がお泊まりに来ると言っていたその日だ。


 お互いに好き合って付き合っている訳ではないし、言ってみれば契約恋愛みたいなものだから、今日何がある訳ではないッ! ……と思う。

 いくら側にいるのに、手を繋ぐのに嫌悪感を抱かないとはいえ、それだからって恋人としとの最終段階を突破できるとは思わない。

 第一、触られるのは気持ち悪い筈だ。今まで痴漢に触られたりした経験は腐る程あるが、悪寒しかなかった。鳥肌すらたった。なんなら吐ける。


 痴漢にされた以上の行為を天音と……なんて、多分無理だ。いや、確実に無理だ。全身鳥肌がバレたら、もし吐いちゃったら、あまりに天音に申し訳ない。


 うん、断ろう!

 ちょっとご飯してすぐに解散。

 それなら遅くならないし、送ってもらわなくても問題ない筈だ。


 営業フロアーの入り口にある予定表の前に行ってみる。

 今日天音は朝から榎本にくっついて外回りをしている筈で、帰りは十七時になっている。もうすぐ帰ってくるようだ。今日は残業はしないといっていたから、十七時半……は無理か、十八時時過ぎには終わるわね。


「高柳君」


 いきなり至近距離で名前を呼ばれて、耳元に熱い息を感じて、私はビクッとして振り向いた。

 この距離はセクハラではないのか?

 フロアーには普通に社員がいて仕事しているし、何故こんな至近距離に係長が立っており、あまつさえ耳元に息を吹きかける暴挙に出る意味がわからない。

 これじゃ、電車でよくある痴漢だ。


「何でしょう」


 大きく一歩離れて係長を見上げた。


「今日……嫁がいないんだ」


 だからどうした?!


 声を落として言う係長を胡乱げに見つつ、さらに大きく距離をとる。


「そうですか。では……」

「ちょい待ち! 」


 それなりに距離は開けた筈なのに、係長は大きく一歩踏み出して私の腕を掴む。


「だから、妻は今日は帰ってこない」

「それはお寂しいですね。では」


 係長はイライラしたように軽く舌打ちをすると、何故わからないんだとばかりに私を睨み付けた。


「うまいもん食わせてやる。七時半に前の喫茶店で待ってろ……な? 」

「申し訳ありませんが、先約がありますので」

「はあ? そんなもん断れよ」


 何故?


 意味がわからなすぎて、その顔をガン見してしまう。


 そりゃ、天音のことは断ろうと思っていた。いたのだが、これでは断れないじゃないか?!


「な……? 」


 にやけた顔が気持ち悪いです!


「凛さん、ただいま~」


 フワリと柔らかい笑顔を浮かべた天音がフロアーに入ってきた。


「お疲れ様です」

「本当、朝から疲れたです。凛さん、癒して」

「おい、いくら社内恋愛OKでも、会社でイチャイチャすんな」


 天音の後ろからやってきた榎本がうんざりしたように言った。朝から今まで外回りで疲れてもいるんだろう。心なしかスーツもヨロヨロで、顔もげっそりしていた。それに比べ、天音の爽やかさ加減はどうしたことだろう。 スーツもパリッとしているし、風呂上がりのような良い香りに、まるで休日のようなくつろいだ笑顔。


「ったく、あんなに歩き回ったのに、おまえの体力は底なしか? 細っこいくせに信じられない奴だ」

「だって、今日は凛さんとデートですから。嬉しくって」

「あの……それなんだけれど」


 係長の腕を振りほどいた私は、ソソソッと天音の斜め後ろに移動して、天音のスーツの裾をつかんだ。


「ウン? 」


 ニコニコ笑顔の天音は、僕凄く楽しみなんですと全身で言っているようだった。


「あのね、係長も一緒したいって」

「「はあ?」」


 係長と天音の声がハモる。

 係長は心底嫌そうな顔で、天音は笑顔を深くしているが眉がピクピクしている。


「係長、馬に蹴られたいですか?ってか、何で? 」


 一日天音と外回りしていた榎本は、天音から色々聞いていたようだ。ついでに今日の初お泊まりのことも。


「馬なんかいないだろう。上司として部下を慰労するのは当たり前のことだ」

「部下を慰労っすか。……おーい! 今日係長がご馳走してくれるそうだ。行ける奴~ッ」


 はいはいと手が上がり、係長の頬がピクピク動く。


「あ、僕達は不参加で。ね、凛さん」

「ああ、はい」


 私と天音は不参加が決定し、営業フロアーにいた半数以上が手を上げた。

 全員おごり?

 多分係長は奥様に激怒りされることだろう。


「係長、太っ腹ですね。凛さん、僕今日はお泊まりグッズいっぱい持ってきました。夕飯は家で食べましょう。材料買って帰りましょうね」

「お泊まりグッズって? 」

「DVDやゲームです。僕今マ○クラとかはまってるんです。凛さん、マ○オとかならわかりますか? 」

「ゲーム? 全くやったことないのだけれど」

「大丈夫。僕教えますから」


 普通に今日うちに泊まることをカミングアウトしているが、もちろん係長や榎本にも聞かれている。


「へぇ、泊まり……」

「はい。彼女んちにお泊まりって憧れてたんです。あ、僕早く仕事終わらせてきちゃいますね。係長、係長のデスクの電話鳴ってるみたいですよ」


 係長の荒んだ声に、天音は乙女のように頬を染めて恥じらう姿を見せると、いそいそと自分の席に戻り、係長も忌々しそうに電話をとりに戻った。


「なんつうか、高柳は笹本のこと男として好きなんか? 男として意識できてる? 俺には乙女にしか見えん」


 性別を飛び越えて可愛らしい認証をされる天音の恥じらう姿は、男女問わず心臓を鷲掴みされるくらいの破壊力があり、榎本は有り得ない感情に揺さぶられてつぶやいた。


「俺、可愛い女の子が大好きだけど、笹本なら……アリかも」

「あ……笹本君はちゃんと男の子だから。はやまらないで」


 私の脳裏には、あの朝の天音の裸体が再生され、珍しく顔を赤らめて言った。そんな私を珍しい物を見たような顔をして見つめる榎本は、煩悩を振り払うように頭を振った。


「ただのジョーク。可愛い女の子一択、おっぱいついてない男は論外」


 セクハラのような発言を残し、榎本も自分のデスクに戻っていき、私も仕事を終わらせる為に戻った。

 もうすぐ定時。その後は……。


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