第4話 廃都にて

 翌朝、待ち合わせの場所にいくと御者だけがひねりスープを食べながら待っていた。

「悪い、あと一日まってくれ」

「討伐が終わってないからかい? 」

「そんなところだ。ところでそちらは? 」

 油断なく目を配る、といいたいが珍しそうにきょろきょろしているイトスギのことだ。

「連れができた。席は残ってるかい? 」

「あるよ。つけとくから代金は明日のこの時間にもってきてくれ」

 さて、一日できた。赤い本のマニュアル、リハビリをかねたイトスギとのあれこれ、彼女の品物の補充。彼女はオープンのプレイヤーだったらしく、力も何もかもさほど特殊ではないが、魔法も剣もいたって自然に使えた。

「魔法は魔力だけでそれほどの効果はでないので、触媒を持ちます。火の魔法なら隅の粉、水や氷は水筒、治療には薬品や食べ物」

 彼女は蝋燭を削って小さな火の魔法を実現してみせた。魔力だけだとマッチくらいだが、蝋燭のかけらを使うと一瞬激しく燃えた。

「触媒を供給する道具を使う人もいます。今の魔法だったら触媒を供給しつづけて溶接に使うこともできるでしょう」

 ライトの魔法を使ってみせると、彼女は驚いたと言った。

「通常の魔力量ではありませんね」

 本当の驚いているのかわからないが、あまり感情ののっていない話し方だ。赤い本には生まれてすぐの赤ん坊に表情がないのと同じようなものだと書かれている。接し方によっておいおい感情が生まれ、人らしくなっていくのだという。初期に設定された使命感もそれにともない感情の形にかわっていくらしい。それは愛憎どちらにでもなるし、愛すれば愛してくれるとは限らない、子育てのようなものだと書かれている。

 わかる。俺も現実では親だった。子供は連れ合いとわかれたときに去って、それっきりあっていない。そんな俺で大丈夫なのだろうか。

 イトスギは相棒というか、サーバントというか、どちらかというと弟子のように接する事にしたようだ。最初はぶっきらぼうだったがいまは敬語で話しかけてくる。たぶん、あれはまだもろい自分の心を守るための武装なのだろう。

 触媒に使えるものと、便利な使い方をいくつか教えてもらう。魔法はコントロールが大事で、ちょっとした魔法をいかに巧妙に運用するかにつきると彼女は言った。触媒を使って火の槍の魔法を使ってみたが、俺がやると威力がありすぎて使いにくいと言われてしまった。

 剣など武器のスキルは、これまた魔法の一種らしい。

「使う武器の届く範囲をよく心得ておいてください。スキルを発動するときは息を止めます。どうせまともに呼吸などできませんから」

 検証はこうだ。スキルのない武器を持った状態でスキル持ちの武器を持ったものと対峙する。何がおきるかというと、スキル持ちの速度が格段にあがるのだ。一つ差があれば倍くらいになる、時間の流れが変わるらしい。同じなら同じ速度。

「だから、スキルなしでの打ち合いの練習は必要です。それと、スキル使用中は空着抵抗もレベル差に応じて大きくなりますから、慣れておく必要があります」

 ナビゲーターはそんなこと教えてくれなかったな。

 イトスギは情報の古いナビゲーターよりよほど優秀だ。

 その日は、宿の裏庭を借りて剣技の手ほどきをうけることに費やした。帝国の騎士の流儀だった。

「ダンジョンの一つは帝国領にありますから」

「君のオリジナルもログアウトできなかったのかな? 」

「わかりません。削除された記憶に属しています。ただ、封印書庫をあけようとしてたのは本当のようです」

 あそこに表示された過去のプレイヤーたちは、このクエストに挑戦したものたちかも知れない。

 夕方、町がざわついた。討伐の傭兵団が戻ってきたらしい。

 かなりの苦戦であったらしい。重傷継承ケガ人だらけだ。そして意気消沈している。アルフェリスと大男の姿がなかった。女戦士はぐるぐる巻きにされているのを発見したから、あの仲間に入ったのだろうか。

 まだ少年のような若い男が二人ほどつれて颯爽と城に向かう。結果の報告のためだろう。あらためて領主のほうから発表があるのだろうが、町の住人が傭兵たちから聞き出しているようだ。

 小屋ほどもある熊の魔獣で、おそらく死ぬであろう手傷は負わせたが、多数の負傷者と数人の行方不明者を出してしまった。その中には指揮官であったアルフェリスも含まれていた。

 消沈して戻ってきた理由はこれでわかった。

 耳にした話を総合すると、魔獣を盾の壁と矢の雨、絡み付かせる網とロープで弱らせるまでは順調だったが、どうも今ひとつ足りなかったようでとどめの大槍で大暴れされて一番、二番槍までは引き抜かれ数人の槍手ごと投げ飛ばされ、盾列も崩れかけたところにアルフェリスが自ら三番槍を打ち込んだところ、槍ごと打ち手ごと魔獣が崩した包囲をついて逃げてしまったらしい。大槍にはふりとばされないよう打ち手を固定するしかけがあったのが裏目に出たらしい。不審なのは、槍もまたロープ で大木などに固定してもっていかれないようにしていたはずなのだが、これが切れたかほどけたかしたということだ、

 あまりに突然のことだった。追いかけることは副隊長が禁じたらしい。斥候の得意な兵士二名に追跡を任せ、四名をその後詰めにおいて本隊は帰還したというわけだ。

 被害は出たが、街道は開かれた、町の人間の表情は明るいものだった、

 イトスギは何も言わず、その様子を見ていた。

 夕方、斥候と負傷者が帰ってきた。魔獣が崖の下で死んでいるのを見つけたという。負傷者はその途中にこぼれてうめいていた二名。アルフェリスは魔獣ともども落ちたらしい、薄暗くなったので崖の下に下りるのは明日として拾った負傷者だけつれて帰ってきたらしい。

 隊長はおそらくだめだろう。傭兵団に無事を信じる言葉も、絶望を口にする言葉もない。犠牲者が一人ですんだのは展開を考えれば少なくてすんだともいえる。

 彼女とは長い付き合いでもないし、ちょっとした死線をともにくぐっただけの仲ではあるが、その夜はあまりよくねられなかった。

 翌日、馬車にのる場所にいくと他に三人の乗客がいた。六人乗りなのでほぼ満席である。

 薄く堅牢な鞄を大事そうにかかえた商家の者、夫婦ものらしいこぎれいなみなりの若い二人連れ。いずれも今の王都までのるのだという。魔獣の脅威がなくなってすぐに席が埋ったそうだ。

「一つあいてないか」

「一人は途中で拾うことになってる。最初に休憩する村だ」

 そこに届けるらしい行李を二つほど屋根にくくりつけているのが不安定で心配になる。

 その村は魔獣ががんばっていた場所に近く、ずっと息をひそめていたらしい。

 だが、その村では結局乗客はいなかった。行李を受け取った村人も、それらしい滞在者はいないという。

「料金はもう受け取ってるんだけどなぁ」

 御者がぼやいた。

 夫婦ものはひそひそ話をしちる。漏れ聞こえる限り、ちょっとした噂などの他愛のない話だ。商人はぎゅっと唇を結んでいる。イトスギは静かに彼らを観察していた。

 戦闘の現場を馬車はゆっくり通り過ぎた。細い木や下生えがなぎ倒され、壊れた盾など武具の破片が飛び散っている。早朝からこちらに駆けつけていた傭兵団員が警戒と片付けをやっていた。

 ゆっくり通り過ぎる馬車を彼らは無感動な目で見ていた。

「抜けたらとばします。ゆれますよ」

 御者が一声かけて馬車は速度をあげた。

 しかし、順調だったのはわずかの間で、馬車は少し急な感じで停止する。

 道の真ん中に障害物がおかれていたらしい。剣を手に、イトスギとともに警戒態勢をとっていると、ドアがひらいて軽甲冑に身をつつんだ女が入ってきた。

「お、あなたもいたか」

 アルフェリスだった。甲冑はへこみだらけで、マントはちぎれ、かなりぼろぼろのなりである。

「いやあ、村までいって乗ろうと思ったんだが、迷ってしまってね」

 嘘だと思った。

「旧王都までだが、よろしく」

 彼女の臨席となった商家の男はぎゅっとかばんを抱きしめた。

「どうして傭兵団のところに戻らないのですか」

 夫婦者の妻のほうが彼女に尋ねた。不審を隠そうともしない。夫のほうが慌てていた。

「殺されかけた」

 彼女はなんでもないふうにそう言って首をとんとんした。

「よくあるお家騒動さ。うちでは初めてだけどね」

 全員でないにしても、暗殺をもくろむ勢力は少なくないだろう。為損じたと知ればどう出るかわからない。だから一度離れるらしい。

「弟のように思っていたのだがな」

 誰のことだろう。あのとき堂々と報告に向かった少年の姿が浮かんだ。

「これからどうするんだい」

 休憩によった村で、古着に着替えたアルフェリスにそうきいた。古着はどこかのおかみさんのお出かけ着で、くたびれてはいたが華やかさが残っている。こうしてみるとなかなかの美人で、大きな槍や剣を振り回すようには見えない。

「旧王都にいるうちの社員に合流して、部隊を取り戻しに行く。そのまま本社に移動して社内会議ってことになるだろう。最悪、鋼のふれあうことになりかねないが、たぶん穏便にすむと思う」

「あんまり心の平安にはよろしくないことになりそうだね」

 そうだな、と彼女は笑った。寂しそうだった。

「うん、うちに来る事は考えなくていいよ。見たところ、連れもできたようだし」

 イトスギを見る目が妙に優しかった。

「彼女のような人を知っていたような覚えがあります」

 そのイトスギはそっと俺にそういった。

「なぜかわかりませんが、とても悲しい気持ちになります」

 そうか、としか言えなかった。

 旧王都は瓦礫の山だった。城壁は何カ所も敗られているし、そのときの攻撃のとばっちりで高い建物はほとんど崩壊。ほぼ無傷の一角を廃材積んでつくった壁で廃墟としきったのが砦と呼ばれる場所であった。兵士の他には娼婦と娼館の男衆数名、宿は娼館と兼用という大変風俗の乱れた場所でもある。馬車は屋根から別の行李をおろして娼館の若い衆に渡した。腰の低い青年が受け取りに書名する。

「あれがあの宿の主だ」

 アルフェリスが教えてくれる。

「ただ、あなどってはいけない。あれで前の主と癒着していた士官を切り捨て、生首片手に司令官室に乗り込んで談判でいまの地位を得た男だ」

 とんでもないのがいたものだ。

「その司令官は私の叔父だ。これからちょっとあいに行ってくる。時間がとれたら夜にでも酒場で軽く飲まないか」

「ああ、時間があったらな」

 たぶん、そんな時間はないだろう。それでもそう約束することが大事な気がした。

 壊れた甲冑を背負い、剣片手に、からんできた酔っぱらいを蹴飛ばして彼女は砦の入り口に消えた。

「お泊まりですね。お部屋は一部屋でようございますか」

 行李を強面の男衆に任せたらしく、宿の受付にいたのは先ほど話題になった主だった。にこにこしていて、血刀と生首という組み合わせがどうも信じがたい。

「それでお願いする。前金かね」

「はい、銀貨五枚いただきます」

 高いな。こんな場所ではものいりなのだろうか。その顔色は簡単に読まれた。

「安全はなにものにもかえがたいのです。廃墟の空き家ならただですが、明日を迎えることは大変むずかしいかと」

「何がいるんだ? 」

「安全なほうから、廃墟漁りの盗人、隠れた帝国敗残兵、さまよえる死人、野生化した戦闘用魔獣、もっと危ないものもいるという噂ですが、こっちは証言する生存者がいないのでなんとも」

「代金の内訳は? 」

「減価償却、非戦闘員の人件費、食費で一枚、砦に安全税二枚、うちの警備スタッフに二枚。最後のものは頭割りで、本日は五名様宿泊なので」

 とんでもないところだ。

「わかった」

 しぶしぶという顔でイトスギの分をあわせて十枚を渡す。本当のところ、ロックをはずれた金額の範囲でも今なら痛くもない出費だ。だが。まともな金銭感覚を示さないとよけいな面倒がよってきそうなのだ。

「君が覚えている王都はこうだったかい? 」

 部屋に落ち着くと、俺はイトスギに聞いてみた。

「見覚えのある建物はあります。けれど、どれも壊れています。なんだか悲しい」

 それから俺たちは日課を行った。打ち合いの練習スキルなし、スキルを二までいれての練習。イトスギはなかなかの手だれで、よい師匠だった。

「スキル二になると、動きにくいでしょう」

 その通りだった。水の中のようだ。

「そのためには力と慣れが必要です。力は足りているようですから、慣れ、コントロールを身につける必要があります」

 加減が難しいということだ。

「それと、その速度で普通に使えるのはスキルにまつわる動きだけです。それ以外のことをやろうとすると、意識は倍速になっても行動だけ遅くなってしまいます」

 そのうち、レベル差のある魔法などとのコンビネーションをしかけあう練習をすることになるという。

「でも、いまは単独のスキルに習熟してください」

 イトスギ師匠はきびしい。ロックは三まではずれているが、それを使いこなす練習は少し先になりそうだ。

 剣が終わると次は魔法だが、これは部屋で考察を加えながら行う。その前に厨房などを回って火術、水術の触媒にできそうなものを駄目もとで探す手間がはいる。

 気の抜けた拍手が、そのいつものサイクルに待ったをかけた。

 木剣を持った兵士らしい剣呑な目つきの二人がこちらを見ている。

「たいしたものだ。見慣れない顔だが、宿の客か? 」

 宿の裏の広場である。練兵場とかではなさそうだが、ちょうどよいので練習に使わせてもらったのだが、この二人の時間と場所を侵害したことになったようだ。

「ああ、明日の朝には発つ」

「そうか、せっかくだから一手後指南ねがえないかな」

「現役の兵士さんには及びませんよ」

 一応面倒は避けたい。

「いやいや、こいつとじゃれるより面白そうだから」

 避けることは難しそうだ。

「わかった。一本だけなら」

「ありがてえ、じゃあ俺がそこのお姉ちゃんで、相棒があんたな」

「おいおい、逆で頼むぜ」

 二人はどっちがイトスギと対戦するかでもめはじめた。

「よろしければ、二人ともお相手しますよ」

 俺の顔を見て、彼女はそう言った。

「いや、それは駄目だ。あんたは手だれだが、そっちの妖精まじりの兄さんはもっと強いだろう」

「いやいやいや、とんでもない」

「嘘だな、あんた、もっと速くうごけるはずだ」

 兵士はにやりと笑った。

「そいつを見せてくれ」

「加減を覚えているところだ。万が一がありうるぞ」

「そんなの覚悟の上だ。なに安心しろ。俺たちゃそんなにやわじゃない」

 どうあっても、らしい。そして二人はじゃんけんでどっちが戦うかを決めた。

 最初はイトスギとだった。

「せっかくなので、適宜スキルをいれて見ていてください」

 その言葉の通り、巧者の試合だった。最初はちょっとわからなかったが、彼らの攻防を息をのんで見ていると、だんだんにそれが二手目三手目を読んだ一種の将棋のようなものであるとわかった。防がせ方までコントロールし、時にその裏をかく。

「まいりました」

 声をあげたのはイトスギだった。まだ打たれてもいないし、木剣をはじきとばされたわけでもない。彼女の対戦相手は満足そうに微笑んだ。

「まさに紙一重、会心の試合運びだった。礼をいう」

「いいな、俺はこれから化け物相手だ」

 ひどい言われようだ。

「だが、ここで勤務してたら化け物とやりあえなきゃいけねえ。兄さん、遠慮は無用だ」

「トネリコ殿。やったことはないと思いますが、限界までスキルを高めてください。平手で勝てる相手ではありませんよ」

 今の限界は三だ。それ以上はロックされている。素振り程度にしか使ったことがないが、あの感覚で大丈夫だろうか。

 はじめの合図とともにスキル三の世界にはいる。相手の兵士は俺の半分くらいの速度。こいつらも二はあるのか。たしか達人の領域のはずだ。

 水飴の中のような空気の抵抗を、ロックされてない膂力の限界まで使って振り抜く。目標は相手の剣。はじきとばしてさっさと試合を決めよう。

 ぬるりと相手の剣が微妙な動きをしていることに俺は気付かなかった。打撃は受け流され、ゆっくり木剣の切っ先が俺の首にとんでくる。この距離はこのまま避けられるものではない。

 無理矢理地面を蹴って飛び退く。剣を相手の剣に添えて流しにかかる。よし、ぎりぎり躱せた。

 それにしてもとんでもない技術だ。飛び退いた俺たちはふたたび青眼で対峙する。

 彼の構えは陣地、どこを攻められたらどう動くか迎撃ができる。とんでもない手だれだ。

 そんな巧者を打ち崩すにはそれ以上の技量か、力が必要だ。

 そして力ならある。

 まっすぐ振り上げ、全力で踏み込み、振り下ろす。

 兵士は受けようとはしなかった。ゆっくりした動きで剣で受け流すように身を守りながらかわそうとした。それは成功したが、受け流す剣が手から離れそうになる。

 チャンスと思ったが、そこを何度もイトスギにカウンターをくらった身。再度構え直して打ち込む。今度こそ、兵士の剣が手から離れた。

 その面前に切っ先を据えて睨む。

「まいった」

 彼は両手をあげて降参した。

「もういいのか? 」

「見せた隙にくいついてくれなかったんだ。俺の負けだよ」

 時間にして十秒ちょっとしかたっていない。だが、息はあがっていた。

「もしかして、魔獣とかと戦うときのテクニックかい? 」

「そう。油断しない人間には通用しないけどね」

 彼はにっこり笑った。

「今日はいいものを見せてもらったよ」

 まあ、イトスギの試合の事だろうな。彼らはあっちのほうが好きそうだ。

「それは同感だ。もし同じ速さだったら勝てなかった。上の速さのやつがでてきたらどうすればいいかも見えた」

「あんたより速いのって、そういないと思うぜ」

 彼らとは軽く一杯おごりあって別れた。傭兵団の兵士ではなく、どうやた砦の正規兵らしい。身分は最後まであかさなかった。

 アルフェリスが現れたのは彼らを見送った後である。もう部屋に引き返し、いつもの魔法修練は休んで休もうかと思っていた頃合いだ。

「遅くなった。待たせたか」

 ぐったりした顔をしている。

「砦の兵士らしい二人にからまれて、ちょっとつきあってた」

「あの二人とか」

「知ってるのか? 」

「あ、ああ。さっきすれ違った。そうか、あの二人とな」

「何者なんだ」

「聞きたいか」

 後悔するぞ、その目が語っている。ちょっと時間がほしくてそらした目が宿の主とあった。

 彼はそっと首をふった。

「いや、いい。どうもろくなことがなさそうだ」

「助かるよ」

 彼女の肩から力が抜けた。

「からまれたって、酒だけかい? 」

 それも正直にいったものか。イトスギはお任せしますという顔だ。

「剣の稽古をしてたら相手しろって」

「やったのか」

 アルフェリスはびっくりしたような顔をした。

「ああ、俺とイトスギとで一本づつ。そのあと一杯酌み交わして別れた」

 アルフェリスが頭を抱えた。髪振り乱す美女というなかなかお目にかかれない絵だ。

「勝敗は? 」

「イトスギ、説明してくれ」

 だまってにこにこしてるので彼女にふってやった。

「私がエド殿に負け、トネリコ殿がカイ殿に勝ちました。ともに敗者が負けを宣言しての決着です」

「エドにカイか」

 ふと亭主を見ると微妙に苦笑している。

 ことんと、アルフェリスの前にグラスがおかれる。

「どうぞ、おごりです」

「ありがとう」

 彼女はきっと社交界で見せるのであろう淑女の微笑みを亭主に向けた、

「で、貴公はカイとやらに勝ってしまったと。どうやったのだ」

「基本通りに力いっぱい打ち込んだだけだよ。相手が隙だらけになってもかまわず」

「そ、そうか」

 アルフェリスは出された一杯をごくりと飲み干した。

「それで勝ってしまうのか。すごいなトネリコ殿は」

「すごいといっても、あれ以上が出てきてはどうにもならないよ」

「あれ以上、ね。うちの爺様もそうだったけど、放浪者てどうしてこうなんだろう」

 どうなんだろうと思ったが、聞いても答えてくれそうにない。

「で、そなた、エドとやらに宣言負けしたって? 剣をはたきおとされたとか打ちすえられたとかではなく? 」

 矛先がイトスギにむいた。さっきの酒がよく回ってきた感じだ。目がすわっている。

「ええ、三合先に痛い目がまってるのが見えましたし」

「とんでもないな。トネリコ殿、ちょっとこの娘借りていっていいか? 大丈夫、朝には返すから」

 いや、むちゃくちゃ聞こえが悪いのだが何をする気だ。

「いろいろ聞きたいことがある。ついでに添い寝してもらうだけだ。それ以上は何もせんよ。だめか? 」

 添い寝って。

「部下とか連れ込むわけにもいかんし、男女のこととかその類はいらん。ただ、誰かにいてほしいだけの時もある。後腐れもないし、調度いいので借り受けるぞ」

 イトスギは抵抗もできず連れて行かれた。俺が駄目だと言えば抵抗もしただろうが、あの勢いに逆らうのはちょっと。

「大丈夫ですよ。あのかたは寂しがりなだけですから」

 ことん、と亭主が温かい飲み物をおいてくれた。暖まる飲み物だ。

「今日は大変だった。そういうことか」

「はい。お連れ様にはご迷惑でしょうけど」

 変な影響を受けなければいいのだけど。古書店の老婆に言われたことを思い浮かべながら俺は少し不安になった。

 よく朝、鐘一つ半くらいにイトスギは帰ってきた。これまではどちらかといえば無表情だったのにだが、妙につやつやしてて心なしか微笑んでいる。何があったのかと聞くと、

「たくさんお話をして、朝は一本剣の稽古。一緒に水浴びをして帰ってきました」

 と目を輝かせながらそう答える。何やら新しい世界に目覚めたかのようだ。

 どんな話をしたのかと聞いても、いろいろと笑うだけで答えてくれない。

「トネリコ殿のこともいろいろ聞かれましたが、よけいなことは話してはいませんので」

 よけいなことってなんだ。

「秘密です」

 うふふって笑うのだけど、昨日までそんなところはなかった。

「朝食は? 」

「まだです。ご一緒してよいですか? 」

 あぶりなおしたパンと何の肉だかわからない炒め物で食事をしながら彼女を観察したが、昨日までの堅さはすっかりきえて雰囲気が柔らかくなっている。こうして見ると、情緒不安定にも見えない。

「彼女とは友達になったのか? 」

 質問すると、イトスギはちょっと宙を眺めて思案げな顔になった。

「よくわかりません。実感がともなわないのです。強いていえば、姉と慕う人というところ」

 すっかり転がされたというわけか。いや、アルフェリスも真摯だったのだろう。そうでなくここまで転がせるとしたら、希代の悪女だ。

「今日で一度お別れになる。寂しくないか? 」

「そりゃ寂しいですけど、あの人はあの人で強い義務感を持ってますし、そうそう甘えるわけにもいかないでしょう」

「本音は寂しい、と」

「こう、いまの貴方に対する気持ちを表現する言葉があります」

「ほう」

「スカタン」

「すまん」

 アルフェリスはこれから血塗られた道を歩むことになる、そのことはイトスギは知らなくてもいいだろう。少なくともしばらくは。

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