第3話
初めて人間がゾンビに襲われているのを見たのは、まだ寒い二月のことだ。
その頃はまだ自宅にこもっていて、なんとか缶詰のストックで食いつなぎつつ、ちょうどEndless Worldで美咲と付きあいはじめたりと呑気にすごしていた。外には出られないが、屋内にいれば食料のある限り安全という状況であった。
その日一〇時間近いEndless Worldの連続プレイから帰還し、陽の光でも浴びようかとベランダに出て、マンションの前で若い女性がゾンビに襲われているのを見たのだ。
駅の方から走って逃げてくる女性、それを追いかけるゾンビ。
平和だった頃に遊んだバイオハザードを思い出した。いや、バイオのゾンビはあんなにはやくは走らないか。
とにかく我が家の前であえなくゾンビに捕まった女性は、あっけなくゾンビの餌食になった。
首元に食らいつくゾンビ。即座に力を失って座り込む女性。呆然とそれを眺める僕。
しばらく力を失っていた女性は、バネが入っているかのように突然起き上がって体をピンと伸ばすと、また少し脱力しておもむろに歩き出した。
めでたく新しいゾンビの完成だ。
あのとき何を感じたのかはあまり覚えていない。ニュースで見ていたことを現実に目の当たりにした感慨のようなものはあったと思う。それまでは動画などを見ても、どこか遠い国で起こっているフィクションを見ているような気分だった。
ゾンビが現実だと認識したとき最初に考えたことはたしか、Endless Worldにはゾンビがいなくて良かった、だった。
人を襲う実物を見たのはそれが初めてだったが、暇でEndless WorldかTwitterしかやることがなかったおかげで、ゾンビに関する知識だけは豊富だった。
ゾンビは視力があまり良くない。実際やつらの視界の範囲内にいたけれど音をたてないでやりすごせた、という話もちらほらあった。しかし視力が全く無いわけではないようで、一度捕捉されるとあとは貧弱な視力を頼りに追ってくる。
やつらが人間を襲うのがなぜなのか、それは実際のところ分かっていない。ネット上ではウイルスを繁殖させるために人を襲っているのではないか、という説が有力だったが、真偽は定かではない。しかし間違いないのは、ゾンビは人を襲う、ということだ。
一度見つかるとゾンビは追いかけてきて、襲ってくる。
つまり、見つかってはいけない。これがゾンビ対策の鉄則だ。
◇
さて、状況に戻ろう。
いま僕とリボンさんは炎天下の中、二人仲良く柵の修理をしている。修理は半分ほど終わったところで、三〇メートルほど向こうにゾンビが二体。こちらを見ている。
問題は自分たちが見つかっているかどうかである。
こちらを見ているのがたまたまで、実は見つかっていないのかもしれない。そうであれば、静かにしていればやり過ごせる可能性はある。
一方、見つかっているのだとしたらやつらは確実にこちらに向かってくるため、「戦闘」か「逃亡」の二択を選ばないといけない。いや、「諦める」を入れて三択か。
あるいは、窓からこちらを見ているリーダーがなんとかしてくれるかも。
そんな淡い希望を抱いたが、少し考えれば、ゾンビがいる場所が窓からは死角になっていることに気がつく。ゾンビの姿が窓から見える頃には、もうやつらは目と鼻の先、デッドエンド五秒前だ。つまり、僕たちはこの状況を二人で乗り切らないといけないようだ。
装備品は確認するまでもなく、戦闘できるような武器はない。
一番強そうなものはワイヤーを切るためにリボンさんが持っているニッパー。とてもじゃないがゾンビに対抗できる代物ではない。もちろんゾンビと素手で戦うのは得策ではない。たいていの場合ゾンビは、感染していない人間よりも力が強い。これは痛みなどが麻痺した結果、人間が本来セーブしている力を100%出しているためだと言われている。それに、僕もリボンさんも戦闘向きの体格ではない。
結局のところ、我々非力な人間には逃げるしか選択肢がないのだ。
諦めないとするならば、だが。
さて、Mixorに表示されたホームセンターのドアまでの距離は三〇メートル。
ドアの開閉の時間を考えてもギリギリ間に合うかどうか。
ゾンビは走るやつもいるが、こいつはどっちだ?
最悪のケース、目の前にいるゾンビが走るタイプで、我々がドアの開閉に戸惑ったりした場合を考えると、無策で走って逃げ切れる可能性はせいぜい七割程度か。悪くない確率だが、命がかかっていることを考えると少し心許ない。
何か、一瞬でもやつらの気を反らせるものは無いだろうか。
ふと、目の端に赤いものがうつった。例の防犯ブザーだ。
これだ。
反射的に駆け出すと、防犯ブザーを掴む。こいつを鳴らして投げれば、足止めにはなる。その間に走ってドアに向かう。それで僕とリボンさんは助かる。
そう思って防犯ブザーのピンを抜いて、
――あれ、ピンがない。
よく考えたら当たり前だ。昨晩、この防犯ブザーのピンを抜いて投げたのだ。
その時ピンはどこにしまったか。覚えてないがおそらくポケットか、そこら辺に捨てたか。
いずれにせよこれからピンを探して防犯ブザーにセットする時間はない。
それに、すでに電池が切れている可能性もある。
少し考えれば分かったことだ。
ちらりとゾンビの方を見ると、すでにやつらはこちらに向かって歩きはじめている。あれは明確に目標を持っている歩き方だ。僕らは――見つかっている。
まずい。無駄に時間を使ってしまった。
全身の血が逆流するのを感じる。
リボンさんの方を見ると、こちらを見て固まっている。僕が突然動いたので、動揺しているのだろう。
「逃げましょう」
そう言って、リボンさんに駆け寄って腕を掴む。
リボンさんはハッと目を見開くと立ち上がり、ドアに向かって走り出す。
幸運なことにゾンビは走るタイプでは無いようで、まだ柵の向こうをヨロヨロと歩いている。
僕もドアに向かって駆け出した。
――あっ。
突然、世界が反転する。
気がついたら目の前に地面がある。なにかに躓いて転んでしまったようだ。
衝撃でMixorが外れてしまう。Mixorは単に情報提示だけでなく視力補正も兼ねている。ひどい近視なので、これが外れると何も見えない。
慌てて手探りでMixorを探し出し装着する。すると、足元にスコップが落ちている。
昨日自分が置いていってしまったスコップだ。
やってしまった。失敗続きだ。ほとほと自分が嫌になる。
再び走り出そうとすると、足に激痛が走った。
挫いてしまったらしい。
最悪だ。
ゾンビのほうを見ると、すでに柵のあたりまで来ている。
Mixorに表示されたやつらとの距離は一二メートル。
「メガネくん急いで!」
前を見ればリボンさんはドアまでたどり着いて、そわそわしながら僕のことを待っている。
――もしかしてこのままだと死ぬのか。
あのときベランダから見た女性の姿が脳裏に蘇る。
ゾンビに噛まれてすぐに意識を失っていたのを思い出す。痛みを感じる間も無く逝けるのだろうか。
こんな世界で生きるくらいなら、それも悪くないのかもしれない。
いや、ほんとにそうか? 何か未練はなかっただろうか。
――最近のペンギンは空を飛ぶんだよ。
美咲の顔が頭をよぎる。約束を思い出す。そうだ、生きないといけない。
足元のスコップを取る。
汗が止まらないのは暑さのせいばかりではない。
心臓の鼓動がうるさい。
スコップを持つ手が震える。
もう、戦うしか無い。
覚悟を決めて、スコップを構えた。
そのときだった。
ゾンビの向こうの方から、突然音楽が聞こえてきた。
音楽はどこかのスピーカーから鳴っているようだ。なんともゆったりした学校の校歌のような曲だ。街中に響いているような音量で流れている。
突然の音楽に、ゾンビは足を止めて振り返る。
反射的にスコップを放り投げると、挫いた足を引きずって走り出す。
リボンさんはまだこちらを見捨てずにドアの前で待ってくれている。
走りながら後ろを振り返ると、ゾンビはいまだ柵のあたりで音のする方を見ている。
なんとか、ドアの前までたどり着く。
「すみません! お待たせしました!」
リボンさんに謝ると、二人で建物の中に入ってドアを閉めた。
内側から閂をかけると、深呼吸をする。
収まらない動悸を感じながら、生きてることを実感する。
全身の力が抜けて壁によりかかる。
「間に合ってよかった……」
リボンさんが床に座り込む。さすがに気を張っていたようだ。
「ドア、閉めずに待っていてくれてありがとうございます。というか、転んじゃったりして、本当にすみません」
「本当に。さっき一度戦おうとしていたでしょ。一対一ならまだしも、二体相手にスコップで戦うのは無謀」
「ですよね。転んで、気が動転しちゃって。あの音楽のおかげで助かりました」
「そうね。あれはなんだったのかな?」
いまも、ドアの向こうでは音楽が聞こえている。こんな曲が流れたのは、記憶にある限り初めてだ。
「さて、みんなのところに戻りましょ。結局、修理は出来なかったけど。生きているし時間はたっぷりあるんだから、またやりなおせばいいよ」
挫いた足を引きずって階段を登り、みんながいる二階に戻った。
「危なかったな……逃げ切れてよかった。こちらがもう少し早くゾンビに気づいていれば良かったんだが。サポートできず、すまなかったな」
リーダーが出迎えてくれた。
「次は偵察用のドローンも飛ばしたほうが良さそうだな」
すでに次の対策を考えているようだ。心強い。
「すみません、柵の修理は途中になっちゃいました。それにゾンビも中に――」
僕が言いかけたその時、後ろから声がした。
「ゾンビはみんな出てったよ。校歌にのせられて学校の方に向かったみたい」
振り返ると、小柄な女の子がいた。
「学校?」
「そう、学校。だってあの曲、私の学校の校歌だもん」
「小学校の?」
「馬鹿。高校よ。ぶん殴るよ」
彼女はマイちゃん。リーダーの妹で、見た目はかなり小柄だが高校生らしい。妹だから、マイ。
「どうして校歌が流れたんだろう」
「知らないわよ。誰かいるんじゃないの、学校に。本当に誰だか知らないけど余計なことして。せっかくキモメガネをどうにか出来るチャンスだったのに、残念。ていうかリボンさんに迷惑かけるんじゃないわよ。リボンさん、あっち行きましょう」
そう言うと、リボンさんを連れて向こうに行ってしまった。相変わらず口が悪い。
「あんなこと言ってるけど、さっきメガネがゾンビに食われそうになってたとき、めちゃくちゃ焦ってたんだぜ、彼女。なんとか逃げ切ったのを見たときなんて、安心しすぎてちょっと泣いてたし」
今度は大柄の男に声をかけられた。彼はササミ。とにかくマッチョで、こんな状況でも筋トレを欠かさない肉体派だ。年齢が同じで、ここでは一番気軽に話せる相手でもある。
「マイちゃんがいい子なのは知ってるよ」
そう、ほんのちょっと口が悪いだけだ。
「だよな。それにしてもよく生きて帰ってきたな。今回ばかりは俺もヒヤヒヤしたぜ。二階から飛び降りて助けようかと思ったけど、リーダーに止められちまった。なんで途中、走って逃げなかったんだ?」
「それが、足挫いちゃったみたいで。いまもちょっと痛いんだよね」
「なるほど。あとで湿布貼っとけよ。杖もドラッグストアにあるんじゃないか?とにかくしばらくは安静にして、無理して腫らすと長引くからな。俺からもメガネはしばらく安静にしとくってリーダーに言っとく」
「ありがとう。少し休むわ」
そう言うと、ササミの忠告通り湿布を取りに一階のドラッグストアに向かった。
無人のドラッグストアで適当な湿布を拝借すると、急いで二階に戻る。基本的にやつらはいないはずだが、やはり一階にいると落ち着かない。さっき命がけの戦いを終えたばかりなのでなおさらだ。
ここでの仕事の大半は肉体労働だ。昨晩のようなパトロールや屋上菜園の管理、発電機のチェック、食料の確保、等々。足を引きずっていて出来る仕事はあまりない。
現在このホームセンターにいるのは僕を含めて五人。ただでさえ失敗続きで若干の気まずさを感じているのだ。特別みんなに貢献したいとは思わないが、こういう悪目立ちは苦手だ。早く治してまたいつもの日常に戻りたい。
ゾンビから隠れてホームセンターで暮らす生活を『日常』と呼ぶのかは疑問だが。
もともと従業員休憩室だった部屋に向かう。ここはよく皆が集まる場所だが、今は誰もいなかった。まだ先程までの興奮が覚めきっていないこともあり、一人になれるのはありがたい。
なんとなくEndless Worldをする気にもなれず、ふと思い立ってMixorで撮った写真を見返してみる。 適当にめくっていくと、昨年の紅白歌合戦の写真が出てきた。
好きだったバンドが初出演を果たしたので、記念に撮ったのだ。まさかこのときは、このあと世界がこんなことになるなんて微塵も思いもしなかった。
そう、最初にゾンビが発生したというニュースを見たのは、また年を開けて間もない、一月のことだった。
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