飛行船の時代
飛行船の時代
「ちょっと、約束が違いますよ」
作家は電話口で大きくなりそうな声をなんとか押さえた。眼鏡をかけて帳場でそろばんを鳴らせていた大家がちらっと目をくれる。風のある日で大きく開け放たれた店先からは春の心地よい香りが花びらとともに舞い込んでくる。彼はこの雑貨店の二階に間借りしていた。
「今月いただける約束でしたでしょ。こっちも支払う金があるんですよ。ないものはないって、そりゃひどい。え、どうしても二ヶ月まてって? じゃあ、少し色つけてくれるんですか? その間だって、あたしの『暗黒大陸の双子美人』や『不死の賢者』でかせいでんでしょ? え、そんなこよとより次の作品? いや書いてますけどね、稿料いただけないんじゃインクもこころもとない」
見た目派手で今様であるが、仕立ても生地もいまいちの衣服をつけたこの男は少々軽薄な外見である。貧乏と不摂生に濁った目はきょろきょろと落ち着きなく動き、ふけだらけの頭を時折神経質にかきむしる。しかし育ちはいいのか立ち姿に妙な品のあるのがアンバランスだ。
「こまったこまった」
ぶつぶついいながら電話をきると、作家は物腰低く大家の老婆に礼をいった。
「お家賃はちゃんといれてくださいね。前みたいな滞納はなしでねがいますよ」
老婆に釘をさされた作家はぼりぼり頭をかきながらもちろんと愛想笑いした。
いうまでもなく滞納の危機である。
それでなくとも、なんとかまるめこんで金を借りた軍人への返済がある。借りた金は酒と女とおもしろそうなギミックに消えてしまって一銭も残っていない。今月もらえるはずだった印税が一縷の望みであったものを。
作家は借金を申し入れる相手を思案しながら階段をあがった。
「こりゃあ、ほんとにまずい」
彼以上に金にこまっているもの、借金浸けのもの、むしろ無心されかねないもの、そして以前に彼に金を貸したことを思い出しそうなもの。
「おらんなら、開拓するしかあるまいて」
作家は文化人を気取る紳士たちが集う社交場に行くことを決心した。うまくいけばカモ・・・いや彼に出資してくれる新し物好きが見つかるだろう。
タバコ臭い作家の部屋には無造作につみあげた多数の蔵書にまじって天体望遠鏡、手回し計算機、非常に複雑な時計らしい機械、壊れた自転車、オルガンといった雑多なしなものがごちゃごちゃにおかれ、歩けるのは戸口から寝乱れたままのベッドまでの細い踏み分け道だけだった。
社交場にいくなら、紳士らしい格好をしなければいけない。
ベッド脇の洋服掛けから外套、帽子、ステッキをとろうとした時、階下から大家の呼ぶ声が聞こえた。
「来客だと? 」
とっちらかった室内を見回して作家は首をふった。誰であれ、ここに通すことはよろしくない。
「応接室をお借りします」
慌ててそう返事して外套と帽子をもとの位置に戻して彼は階下の応接室に向かう。戸口のところでステッキをもったままだと気づいてこれをベッドに放り投げた。
借金を取り立てにきた軍人ならまだ印税を受け取っていないと言おう。そうでなければ? めまぐるしく考えを巡らせながら大家の営む商店が商談のためにもうけた応接室に入ると、そこにいたのは実に意外な二人組だった。
肩でそろえた黒髪の美しい若い女。どこのものか氏族の紋章をあしらった帽子をつつましくかぶり、黒を貴重としたドレスに天主教の聖印をさげているところは近頃はほとんどみない習慣である。敬虔な信者でなければ教会関係者であろうか。
(肌の輝きは二十そこそこだが、どこか老成したお顔だね)
今一人は軍人のようにがっちりした体格の紳士で当世風のしゃれた帽子に少し太めのステッキを持っている。年齢は三十前後。いかなる経験をしてきた人物であるか、居心地が悪くなるほど強い力をもった目をしている。
(ああ、このステッキは仕込みだ)
女性に一歩譲ったような立ち位置からしてエスコートであろうか。
「お初にお目文字いたしまする。奇想哲学小説をご執筆の浮世幻遊斎さまでしょうか? 」
女が彼のペンネームを口にした。
「いかにもそのような名前で何冊か上梓しておる者です」
女はにっこり会釈した。
「私はキクともうします。こちらは当家の食客のヨシスケ。当家とは西通家と申す細工物あつかい商でございます」
「ほう」
作家はその名前を知っていた。共和国の国教である天主教大聖堂の法具、内装を代々請け負ってる商人で、おもに宗教芸術だが芸術のパトロンとして歴史に習うことのある名前だ。
「そんな旧家のお嬢さんが、私のようなやくざな駄文書きに何の御用でしょう」
「本日は家業とは関係ございませんの。わたくしの趣味の研究に関して、先生のお作に気になるところがございましたのであつかましくもまかり越した次第です」
(いや、俺の作品はちゃんとしたお家のひととかは読まないような荒唐無稽なんだが)
「どの作品でしょう? 」
「『不死の賢者』ですわ。そのあとがきにとても気になることが」
その作品は夢の中で様々な過去の時代、国に行ってしまう現代人の話である。眠りの長さはうたた寝から熟睡までさまざまだが、夢の中で過去を過ごす時間は関係なく数日から数年に及ぶ。夢に見る時代はだんだんに主人公の生きる時代に近づいていき、そしてそれが一致したとき…何が起きるかという話だ。
この物語は作家の友人の学者から聞いた話をもとにしている。その男は類似性のある異能の人物の話があちこちに時代を違えて存在し、これが同一人物のように思われると考えていた。
あとがきにはその話をいくつか簡単に紹介し、類話収集の学問を紹介していた。話のヒントをくれた友人にパトロンがつくようにという配慮だった。
「主人公の不思議な体験をご友人の集めた天帝教国、天主教国に伝わるお話をもとにしていると書いておられましたね」
「間違いない。彼の研究は二大宗教とは別の民間共通の信心を探り当てることだった。その材料を借りておもしろおかしく書いただけだ。もしかして、彼を時代錯誤な異端審問にでもかけるつもりかね? 」
「まさか」
女は苦笑した。
「二百年前ならそういうこともあったでしょう。でも、それだって大聖堂御用達の商人の仕事ではありませんことよ」
確かに。
「それでは、いったい? 」
「結末直前のエピソード、ほんの十年ほど昔の話は、ご友人の集めた話ではないそうですね」
それは厳格な天帝教の国にして列強の一つ、西汗国の謹厳な神学者のもとに出入りする不思議な商人の話だった。老いた神学者は商人の言葉、主人公である現代人の言葉に翻弄される旧弊の道化のように見えながらも最後に現代人にどきっとするような質問を投げかけてくるほどその学問を深めていたという話であった。
作家の背筋がのびていた。自堕落なだらしなさが消えて、厳格な幼少時のしつけが姿を現していた。気づいて彼は意識して力を抜いた。
「どこで聞きましたか? 」
「ご友人にあってまいりました。あの方のおっしゃるには、そのくらい近い時代では研究の対象とならないし、これはあなたがどこかで拾ってきたか作った話でしょうということでした」
「まあ、そのへんはご想像にお任せいたしましょう」
警戒を隠した微笑み。この女の正体はわからない。知られて困ることではないが、公にしてはいない秘密が彼にはあった。
女もにっこり微笑んだ。
(こりゃあ、いい顔だ)
無邪気、ではない。女性的な魅力にあふれた笑顔だった。どうやら見かけの年齢よりはるかに人生を見てきた人物のようだ。
「あのお話、作り話だけとは思えませんの。失礼ながらご家族について調べさせていただきました」
「そんな気がしていました。どうやら貴女は非常に念入りに下調べをなさってからおいでになったようだ。たしかに私は共和国市民ですが、共和国の出身ではない」
作家の秘密とはそれだった。彼はこの国と異なる宗教を国教とする列強の一つ西汗国の出身であって、宗教的に厳格な家庭に育った。何事もなければ、故国で妻の一人もめとって手堅い仕事についていただろう。時代の変化は暴動と戦争にその家族を巻き込み、職業訓練の中で科学と技術に親しんだ彼は紆余曲折の末、いまここにいる。いくつかの偶然と、彼自身にあった少しばかりの才能がなければこんな仕事はしていなかっただろう。
古き良き時代は消えゆく。世界は時に暴力的な変化も伴いながら忙しく進歩していく。いまだ克服されていない病や新たな危険は数多くあった。だが、嘆くのは消え行く側にある年寄りがほとんどで、若者たちは時折不条理に命を散らしながらもこの新たな変化に昂揚していた。
だから、作家も自分の境遇を特別不幸と嘆きはしない。ただ、「異教徒」としてつまらないトラブルに巻き込まれないようにそのへんは伏せていた。とっくに軽蔑の対象になりはてた信仰なぞに足をひっぱられるのも煩わしい。
「モデルはあなたの伯父上にして、西汗国首都大学神学教授であらせられたロウジョウ師ですね」
作家はうなずいた。
「そして商人にもモデルがいますね? 」
「子供のころ、伯父に書道道具をおさめていた人だ。仙人みたいな人だったな」
女はエスコートのヨシスケの顔をちらと見た。男はうなずく。
「今、どこでどうされてるのでしょう」
「さすがに昔の話だ。わかりませんよ。伯父はまだつきあいがあるようですが 」
苦笑はすぐいぶかしみにかわった。
「あの人がどうかしましたか? 」
「彼はずっと昔に消息不明となった私の身内かもしれないのだ」
これまで挨拶以外は一言も発しなかった男が口を開いた。
「そうですか」
空気のようであった男が話題のど真ん中に降りてきて作家は少々不愉快だった。女は、ではなんのためにここにきているのだ。それにこれは誰の利益になる話だ。
「詳細は当家の内情にてどうぞご勘弁くださいまし」
女が頭を下げた。
「もし、その方に間違いがないなら、しなければならない話があるのです。もちろん、ご協力いただければ謝礼は十分にさせていただきます」
女は小切手帳を見せた。
(ふむ)
作家は少し考え一つだけ釘をさした。
「危害を加えることはないと誓っていただけるなら、可能な限り協力いたしましょう。幸い、二ヶ月までは体があけられます」
馬車は雑踏の中をぬって旧市街、だいぶ取り壊しのすすんだ旧城壁を越えて郊外に向かう。
新聞売りがいる。食べ物の屋台を出すものがいる。まだそう多くもない電球を見上げる者もいる。新し物好きが自転車をあぶなっかしく運転しているし、それを従兵にくつわを預けた騎馬軍人が珍しそうにながめている。とにかくにぎやかだ。
「少し遅れましたがご安心を。飛行船の出立はいつも遅れるものです」
作家は懐中時計を心配そうに見る女にそう言った。うってかわって三人とも旅装である。ついさっき、作家は三ヶ月分家賃を前払いし、金を借りている軍人に手紙を書き残した。いわく、三ヶ月まってほしいこと。心配なら部屋から好きな者を担保に持ち去っていいこと、ただし期日がくるまで担保品を流さないでほしいこと。こうかけば気位の高い軍人は何も持ち去りはしないだろうという読みである。
おかげで少し遅れてしまった。馬車の行くてに高いタワーが見えてきた。巨大な葉巻型がそのタワーに係留され、余分の水蒸気を逃がす煙にうっすらけぶる。
乗り込むための三階建ての木造のやぐらにのぼると、海員のようななりの乗務員が三人の乗船割り符をあらためた。
「右舷第四コンパートメントです」
愛想よく手で乗船タラップを示すが、これは船のそれよりよほどゆらゆらしていて怖い。しかも地面からは結構な高さである。檻かとおもうほど安全柵でぐるっと筒状に囲んでいるが渡るのは勇気がいる。ヨシスケはエスコートらしくキクの手をとって支えるようにわたったが、その顔面は蒼白だった。幻遊斎は何度かのったことがあるので、あまりもたもたもせず、踊るようにわたってしまう。
この飛行船は二十時間かけて共和国の首都から西汗国の首都まで飛ぶのだ。長旅に紳士淑女があまり倦み疲れぬよう、コンパートメントは居心地よく豪華にできている。談話室にはたった一人ながら気のきいた給仕が飲み物、食事の用意をして揺れをものともせず落ち着いたたたずまいで控えていた。
先に乗船していた別の客がドアをあけてビールをもってくるよう大声で注文している。
「ルームサービスが必要な時はああしなくても部屋に電話があります。もっとも、ゆれのひどいときはやめておいたほうがいいですね」
作家は苦笑して連れの二人に説明した。
「なれてらっしゃるのね」
「ははは、借金してでも新しいものは試すほうでして。と、いいたいところですが何回か里帰りに乗らざるをえませんでしたから」
飛行船に初めて乗るのだろう。とてもよい身なりと、きれいにブラッシングされた髪の毛の十前後の男の子が興奮して廊下を談話室へ、そして階段を降りた展望室へと走りまわっている。
「最初のときはあの小さな紳士とあんまりかわりませんでしたよ」
コンパートメントには仮眠もできるように安楽椅子が用意されている。揺れたときに動かないよう固定されているのが難点だが、カバーは毎回はずして手入れしたものをつけているために不愉快は少ない。
出発の鐘が高く長く響いた。いよいよ出航である。見送りの展望台には誰の家族か着飾った多数の男女の姿があり、定期飛行船に手をふっている。乗客も窓によってにこにこ手をふった。楽団が演奏を始め、飛行船はゆっくり係留塔から離れる。
「おや、あれは? 」
珍しそうに離れて行く地上を眺めていたキク女が何かみつけて指差した。
ならされた細長い地面に車や馬車というには妙な大きな板きれをせおったような形状のものがいくつかならべられている。
「ああ、あれはモンド伯爵の飛行機械ですよ」
同じものを見た作家が説明した。
「飛行船のように気球の軽さで浮かぶのではなく、流体力学の力で浮き上がろうとしています。かなり速くないと飛べないらしいですが、羽ばたきより有望だといわれています。まあ、まだ一回に飛べる距離は数十メートル、時間にして一分も浮かんでいませんがね」
他に、成層圏まで花火を打ち上げようと計画してる金持ちや、そもそも重力を遮断できないか研究をしている学者など、飛行をキーワードとした技術的挑戦があることを彼は説明した。
「なんだか、いろいろあってついていけないわ」
女は嘆息した。
「でもきっと、夜空の星に手が届く日がくるのでしょうね」
「奇想哲学小説で、まさに星の世界に遊ぶ話を書いたものがいます。まぁ星座の伝説や童話にひっかけた陳腐な話ですがね」
敵愾心をもやして作家は鼻息を荒げた。
「もっとすごいのを書いてやろうと天文学の最新知識を集めて構想を練ってるところです」
「実際に星の世界に行く日はきますかしら」
「来ます」
作家はきっぱりそういった。
「今日、明日の話ではないでしょうけど、思ったより早いかもしれません。空を飛ぶことなど思いもよらなかった時代から、今日まで百年かかっていないのです。人間にはその可能性があると信じます」
「すてきなお話ね」
女は遠くの雲を見ながらそう答えた。
このやりとりの間、彼女のエスコートであり、尋ね人が身内かもしれないというヨシスケは相変わらず寡黙であった。その目は他の乗客とことなり、ずっと遠い空に向けられていた。
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