ジーナ
悪意の血流が張り巡らされたナダン大聖堂内は、時が止まったように静かだった。
瞳に虚無を宿したジーナは崩れ落ちて項垂れたまま、うわ言を喋り続けていた。
勇者へ差し向けた下僕が全滅という想定外の事態から、目を背けずにはいられない。
「ありえん、何かの勘違いだ。ディムとムットが敗れるなど嘘だ」
精神崩壊。両眼は血走り身体は激しく震え、少年の顔は歪に引きつっている。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ。せっかく天運を掴んだのだッ、このまま終われるか!」
叫び狂おうが燭台を蹴りあげて行き場のない焦燥感をぶつけようが、耐えがたい現実が変わる事はない。
(いや、数日前から幾度同じ思案を繰り返した? 我はシュマ様の裁きから逃れられぬ)
十分理解していた。何回現実逃避を繰り返しても待っているのは、死だ。
無常――ゾクリと強烈な衝撃が全身を通り抜けたかのような感覚がジーナを襲った。
(な!? う、あぁ)
全身を駆け抜ける圧倒的殺気。恐怖に顔を引きつらせ過呼吸に陥った彼は本能で悟る。
静寂崩壊。この全てをひれ伏させるを威圧感迸らせたのは後方、天井から延びる赤い粘膜に濡れた極太の触手の収束部――発光した薄紅色の大きな繭の中からだ。
審判を下す者が眠りから覚める。ぐちゅり、ぐちゅりと何かが殻を突き破ろうとする音が聴こえてきた。それは大聖堂内へ残響し、顔面蒼白のジーナが怖ず怖ずと振りむいたと同時に一際大きな破裂音が鳴り響く。
「まさかッ。あがが、アレがアレがッシュマ、様!?」
羽化。幾年前の決戦より強大になって復活した邪神の姿を視界に収めたジーナは、その生体から発散されたあまりの禍々しい放射体を受け、なすすべもなく立ち尽くした。
辺り一面には、切り裂かれた血染めの繭から噴き出た乳白色の液体が大量に飛び散っている。粘液を纏って這い落ちたシュマは、生まれたばかりの人間の赤子の形をしていた。
それもあくまで形のみであり、ただの赤子であればジーナとて肝を潰さない。サイズが人間より何十倍に膨れ上がっているのだ。皮膚中にはしる青い血管は、はち切れんばかりに浮き出ており、顔には赤い大きな単眼と紫色の唇がついている。まさに異形の姿だった。
邪神本体はよたよたと埃をまき散らしながら立ち上がると、生まれ変わった自身の姿を見入ると、狂気の笑みを浮かべる。
「素晴らしい心地。あぁ、早くこの手で世界を滅ぼしたい――ですが」
そして、冷徹な眼差しで怯えるしもべを凝視した。
「ジーナよ、して肝心の勇者討伐はどうなったのでしょう?」
変わらぬ荘厳で透明な声に問い詰められたジーナは、畏怖のあまり呂律も回らない。
「つッ、あ、あの、実はッ」
「ワタシの方は準備が滞りまして、いつでも世界を滅ぼしに向かえます。心残りは一つだけ。答えなさいジーナ……どうして勇者の首がこの場にないのかを」
静かな口調には隠しきれない殺意が籠っている。結果を悟っていたのだ。
極限の焦燥へかられたジーナは全身に滝のような汗を流している。声が思うように出ない。もはや死刑は確定的だろうがそれでも尚、彼の清浄土への想いは尋常ならざるものだったのだ。
「下僕共は全員やられ、ました。ですがお聞き下さい! しからば我が直接出向き勇者をッ」
ようやく声を振り絞り、往生際が悪くも最後の慈悲を請うべく地に額を擦りつけ必死に嘆願を試みた。せめて死後こそは陰惨な過去から逃れたいという一心であった。
しかし――
「その必要はありませんよ、ジーナ。言ったはずです、二度の失敗は許されないと」
無慈悲な遮断。悪心権現である邪神シュマに人の心はない。
ジーナは自らの肉体がいつのまにか宙に浮いている事に気がつくと平静を失い、手足をばたつかせて狂乱した。
「見苦しいこと。お前の魂をここで握り潰し、煉獄へと堕としてやりましょう」
念力でジーナの動きを奪ったシュマは単眼を瞑ると、胎児のように身を丸め自身も空中浮遊する。そして背中から身体を包むような極太の紅蓮の輪を発現させたのだ。後方へと噴出した熱波が殻から伸びた触手、壁、大時計、椅子の残骸、列柱、アルター神の像、大聖堂を司る全てを飲み込む。聖霊術の炎など足元にも及ばない、瞬く間に燃え広がり邪神の烈火が周囲を灼熱地帯へと変えていく。
ジーナは手足を死にもの狂いで動かして念力から脱出を試みたが、やはり無駄だ。断罪の猛炎を背にした邪神がじわじわと迫まる。
ジーナは絶命を受け入れきれず、立ち込める煙に咳き込みながら慟哭した。
「はががッ。どうかご許しをッ。もう苦しみたくない、俺は清浄土に逝きたいんだッ!」
「死に目から戯れで救い力まで与えてやったが、虫けらはどこまでも虫けらか。安心なさい、焦がすのはお前の魂だけ。元の持ち主の方はまだ使いようがありますから」
泣き喚く様を蔑んだシュマが意味深な言葉を呟き、閉じていた単眼をカッと見開いた。
「あぁぁぁぁぁぁぁッ――あ」
直後。ジーナは突然意識を失った。轟々と音を立て燃えさかる炎が天井に延びた刹那、瞳を閉ざした少年の口の中から青白い気体が煙のようにゆらゆらと出てきた。
フランクの肉体の主導権を奪っていたジーナの魂だ。一つの塊となり、煙に混ざって逃げるかの如く天井へと昇っていくが、それを邪神が許すハズもない。
「清浄土なぞ存在するはずがないでしょう。アルターの子供達は本当に愚かだこと」
邪神の紅蓮の輪から、人間の身体はゆうに飲み込む大きさの炎の弾丸が飛び出した。
彷徨えるジーナの魂を飲み込むと一段と燃え上がり、やがてぼっと音を立てて消えたのだった。
安寧の死後を夢見た貧民の男の野望は、灰燼に帰したのである。ジーナへの一切の興味をなくした邪神は次なる関心へ視線を移した。紫色の唇が三日月形に割れる。
「予定は多少狂いましたがいいでしょう。しからばあなたには戦いを盛り上げる道具になってもらいましょうか。勇者に絶望を堪能させたうえで、今度こそ世界を壊す」
シュマの策謀が動き出す。ジーナの魂から解放されようが炎の海に囲まれようが、利用されようとしている当人は未だ目覚めない。
邪神が片手をフランクに翳した。すると手の平の中央に穴が開き、黒ずんだ細長い肉塊何十と生えてきたのだ。それは植物の蔓のように伸びてフランクの全身へ幾重も重なりあい覆っていく。黒い肉塊の密集体は一切火を通さなかった。
やがて大聖堂全域が炎へ包まれ、ザラス大陸宗教史における最重要施設は邪悪な力の前に朽ちる寸前となった。事を終えた邪神は燃える大小の残骸が降る中、悲願であった完全復活とアルターの意志を受けし者との決戦を想い改め喜悦し、不気味に微笑んだ。
世界の命運を懸けた決戦が始まる――
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