闇に降る奇跡

「ハァ。ハァ。ハァ」

 アメリは暗闇の中で激しく息を乱していた。底なしの恐怖感も身体中を浸食している。

 尋常ではないくらい疲れているのに、昨日から眠っていないのに、目は開いたまま固まり瞬きすらできなかった。

 現状において瞼を閉じるという事は死を意味すると、本能が察知しているからだ。

 音が聴こえてきたのだ。石廊に響く絶望の足音が。

 コツ、コツ、コツ。彼女がいる部屋へ着実に近づくにつれ音像がクリアとなっていく。

「あ……!」

 息を呑んだ。アレの足音が止んだ。とうとう入り口の前まで来たのだろう。

 戦慄。アメリは自分の両腕で自分の体を抱きしめた。堪らなく怖い。それは事実だ。

(できる。私はできる。できるんだ)

 この場に監禁された際は絶望しきっていたアメリだが、現在は希望を身に宿していた。ここから脱出できるとさえ、強く思ってさえもいる。

 何故なら、一発逆転の手段を偶然にも手に入れる事が出来たから――

 永遠とも思える時間が経った後、死神の姿がその手に持った蝋燭の灯りで露になる。

「待たせてゴメンね。つかえてた分の作品に時間がかかってさ」

 ディム。針が突き出た真紅の仮面と漆黒のマントで全身を覆い隠した葬民の頭が来てしまったのだ。もう片方の手に斧を持った彼は、部屋に散乱する人骨を軽快に踏み潰しながら、俯いて震えるアメリの元へ駆け寄った。

「さて、君の頭はどんな模様にしようか。花がいいかな、それとも頭蓋にシュマ様の教えをくまなく書こうかな! インスピレーションが広がるねぇ」

 棘仮面は膝を落として斧を置くと、汗で頬に張りついた亜麻色の髪を冷たい指先で後ろに流し、血の気が引いた聖霊術士の顔をむりやり覗き込んだ。

「期待しているよ。この斧を振り下す瞬間に見せる君の表情にね」

 心底嬉しそうにディムは話を続ける。

「そんなに怯えなくても大丈夫だよ。君は僕のお気に入りだからさ、怨魂になる前の魂を一生に清浄土へ連れてってもらえるようシュマ様へお願いしようと思ってるんだ」

 清浄土に行く――

 耳に入ってきたその言葉への違和感が、アメリの瞳に勇気の炎を灯したのだ。

「清浄土。葬民も言っていた、死後の次元の事ね」

「まだ口をきける元気があったの。ま、いいか。どうせ死ぬ間際だし話してやるか」

 アメリが反応を見せた事に驚きのけ反りかけたムットは、得意げに説明をしだした。

「シュマ様はね、輪廻の輪へ自在に介入できる力があるんだ。シュマ様は世界を壊したあかつきに僕らの魂を聖浄土っていう永劫安楽の地へ昇華させると約束してくれたのさ」

 なんと愚かなのだろうとアメリは思った。悪徳の使徒が極楽世界なんて創れるはずがないのだ。邪神に唆れた亡霊達がありもしない幻想を追い求めるためにメネスが、大切な人達が犠牲になった現実に聖霊術士の少女のやるせない怒りが爆発する。

「ま、君達は僕らが清浄土に至るための生贄に過ぎないのさ――」

「嘘よ! そんな都合いい世界なんて存在しないわ」

 少女の悲痛な叫びが亡霊の身勝手極まりない話を遮る。

 空気が凍った。怒りに身を揺らした棘仮面は童子のような幼い声から一遍、ドスの効いた低い声でアメリに聞き返す。

「今、なんといった?」

「清浄土は邪神が造ったまやかしの世界だって言ったのよ」

「なんだと……!」

 信仰を真っ向から否定されたディムは激噴し、手に持った斧で横の壁を破壊した。

 粉塵と石片がアメリの眼前に飛び散る。しかし聖霊術士の少女はみじろき一つせずに強い眼差しをディムに向けたまま反論を続けた。

「あなたがどういう理由で亡くなったかは知らない。けど邪神のやるような事は予想がつくわよ、希望を持たせた挙句の果てに騙す様を楽しんでるだけだわ」

「偽善神の使徒が何を言う。我々を甦らせて下さったシュマ様の力こそ真実だ」

 ディムは発狂したように喚き散らした。アメリは負けじと更に語気を鋭くした。

「悪と虚偽の神の力が真実なワケなんてないでしょ。厳しく平等な目でこの世界を創生された聖アルター神がそんな絵空事の世界の存在なんて許すハズない!」

「黙れ、清浄土は存在するんだ!

 我慢ならないディムは煩い聖霊術士を黙らせるべく、

「お前にわかるか。煉獄に逝かされる時が来るのを、暗く閉ざされた空間で凍えながら待つ怨魂の苦しみが!」

 手に取った斧を振り下ろした。

 衝動へ身を任せた飾り気もない一撃は凡庸極まりなく軌道が読みやすい。冷静に身を引いて回避したアメリは、今こそ反撃へ移るに最適な時であると判断し、一枚の紙を素早く

ローブの中から取り出したのだ。

 それは割れたペンダントの中に入っていた、自身の絶望を希望に変えてくれたモノ。

「くらいなさい!」

 アメリは気合いの雄叫びをあげて紙をディムの胴体へと打ち付ける。

「ヒギィィィィィィッ!?」

 絶叫。自身の身に何が起こったのか理解できないまま苦しみ悶える。身体が焼けて消えていくような感覚から逃れようと自らを壁へ何度も打ちつけるが、聖なる神の霊魂は絶痛を消してはくれない。やがて動きも鈍くなると、蹲るようにして倒れたのだった。

 無我夢中だったアメリが落ち着きを取り戻して現状を認識できるまでは、少々の時間を要した。敵に視線を移す。火にあぶられているかのように未だ閃光を纏ったまま仰向けになったディム。起き上がる気配は感じられなかった。

「やった。私、ディムを倒せた……!」

 疑う余地はない。見事勝利できたのだと、アメリは安堵した。そしてすぐさま立ち上がると、牢獄から脱出するべく牢獄のような部屋を出た。

 元来た道は左方向からだ。アメリは小さな灯に照らされた石廊を駆け出した。

 ディムの魔の手から抜け出せた喜びで溢れ出る涙が止まらない。兄がくれたペンダントの中から出てきた起死回生の一打となった一枚の紙、それは、

(ずっと忘れていたわ。ペンダントの中にあの霊護符を入れていた事を)

 アメリが養成所の試験で初めて成績第一位となった際のアルターの霊護符である。

 それは、フランクが生徒だった頃の霊位に匹敵するまでの代物だったのだ。

 勿論このような状況を想定などしていない。ただ、兄からプレゼントされたペンダントに何かを入れようと考え、災いから身を守る意を込めてと入れた、ただそれだけだ。

(私はアルター様に生かされてる。ここで死んではいけないんだ!)

 まさか、ペンダントが壊れた事で当時入れた霊護符の存在を想起しようとは、予想だにしなかったのだ。アメリには、アルター神がかつての英雄のように抵抗する術を与えてくれたのだと思えた。

(どんなに悲しい事があっても希望を見失っては駄目。そうですよね、殿下!)

 そしてルイの顔を思い出し、自分に言い聞かせるように呟く。

 これからどうすればいいかなんてわからない。それでも命尽きるまで全力で生き抜くのみという気概がアメリを突き動かしている。

 転びそうになろうがふらつこうとも持ち直し、なけなしの体力を振り絞って走った。

「出口だわ!」

 ついに微かな光が見えてきたのだ。

 外の世界へ向かって手を伸ばしたその時。突然大地が鳴動し、廃都を揺らしたのだ。

 アメリは態勢を崩して足を滑らせてしまった。

「あたッ。もう、一体何が起きたっていうのよ!」

 天井からぱらぱらと落ちた粉塵に多少むせながらも、視線を彷徨わせる。

 異変は続いた。その出来事はアメリを再度苦境の淵へ立たせたのだ。

 ディムを倒して全滅したはずの葬民達の喚き声が、風に運ばれて王宮の中まで聞こえてきたのである。

「まさか、よね」

 アメリの顔から血の気が引いた。心臓の鼓動も急激に早くなる。

 聞き間違いであってほしいと願った。アメリは事態を確認すべく、胸を抑えながら外へ出たが、現実は残酷だった。

 眼前に映る驚異の光景。先の地の揺れで出現したのだろうか、連れてこられた際には空いていなかった大穴が出来てていた。その向こう側では、

「そんな。何故なの」

 悪夢。消えていて欲しかった存在――大勢の亡霊達が忙しなく動き回っていたのだ。

 結束して何か一点に向かっているようにも見えるが、葬民の数が多すぎるのと建物の残骸や舞い上がる砂埃へ阻まれて何が起こっているのかまるでわからない。

 しかし、少なくとも最悪の展開に違いなかった。後方から漂ってきた禍々しい気配も、絶望に追い打ちをかける。全身の力が抜けたアメリはへなへなと膝を落とした。

 振り返ると、そこには――

「ったく馬鹿共が。大地が少し怒っただけで騒ぎやがって」

 倒したと確信したディムがいた。棘仮面は元の赤色が剥がれて漂泊し、マントはズタズタに擦り切れているものの健在である。

「やぁ。さっきはゾッとしたよ、まさか霊護符を隠し持っていたなんて。けど残念、ヴァネッサやムットならまだしも、僕は丈夫に出来ているからねぇ」

 脅威の特性を明かしたディムは斧を担ぐとアメリの元へ距離を詰めてきた。

 これ以上の抵抗は無意味と悟ったアメリは、その場に留まった。

 不思議と恐怖感が薄れていく。最後の希望が通用しなかったが、それでも信じた神を憎みはしない。生ある限り悪に立ち向かう正義の意思を貫き通そうと、悠然と見下ろしてきたディムを睨みつけた。

「君はもう作品にする価値はないし清浄土にも連れて逝かない。さよならだよ」

「いつか必ずアルター神からの天罰が来るわ。そのときを覚悟しておく事ね」

「強がっちゃって。まぁ安心しな。すぐに御仲間と同じ怨魂になって、君が信じた神が創った煉獄にも送られるだろうから」

 ディムは両手で斧を天高く上げた。

 先程と同じ状況になったが今度こそ終わりだ。アメリは目を瞑り、祈りの印を結んだ。

(お兄ちゃん、助けてあげられなくてゴメン。ルイ殿下、皆、そっちに逝くわ)

 審判が下ろうとする時、覚悟を決めたアメリの脳裏へ大切な者の顔が浮かぶ。

(え!?)

 それだけではない。幻覚さえ見えてきたのだろうか、瞳の中に大急ぎでこちらへと走ってくるあの男が映ったのだ。

「これ、何だ?」

 ディムが狼狽えた。アメリも目を瞠る。光の粒子のようなものが二人の周りに浮いているのだ。その量が急激に増した刹那。アメリを中心に火山が噴火するかの如く地から光の奔流が発生した。

「お次は何だよォォッ」

 ディムは霊護符を当てられた時以上の金切声をあげ、衝撃のあまり王宮の向こう側へと吹き飛んでいったのだ。

 程なく空高く昇る光の間欠泉が収まる。五指を数える間での出来事だった。

(どうなっているの)

 聖霊術士の少女は状況が呑み込めないままぽかんと口を開けていたものの、眼前に迫ってきた救世主の姿を認識する事で、細かい事情はどうあれ自分は助けられたのだと理解できたのだ。

「そうよね。ルイ殿下が負けるはずないもの」

 涙が溢れて頬をつたう。幻影ではない。頼もしい勇者は負けていなかった。

 アメリは死の恐怖から解放されて安堵した途端、激しい立ちくらみを覚えた。もはや精神的にも肉体的にも限界だったのだ。

 ふらついて体が前のめりになる寸前――

「アメリッ」

 駆けつけた勇者が、聖霊術士の少女をしっかりと抱きしめたのだった。

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