凍えた太陽

 漆黒の外套を纏った亜麻色の髪の青年が瓦礫や木片、夥しい数の人骨が散乱する床に膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。元は気品に溢れていただろう顔は、刺青のような呪印まみれであり、加えて恐怖と苦痛が混在して醜く歪んでいる。

 悶え苦しむ青年の肉体は現在、二つの魂を内包した状態だ。そして身体の主導権を持っているのは、後から無理やり入り込んできた邪悪な魂の方だった。

「くそ、骨も霊剣もなかった。どういう事だ……有りえん。勇者が生きているなんて」

 若い肉体を奪った男ジーナが、あってはならない事態が発生したために発狂していた。

 恐怖感の極地。自身の真上に存在する「何か」の機嫌を損ねてしまったのだ。

「ジーナ、お前に力を与えてからワタシが眠りについたその間、何していたのです?」

「グッ。申し訳ありませんッ。まさかこのようなッ」

 放たれた荘厳で透明な声に威圧されると、ジーナは怖じ怖じと首を上げてそこにいるモノへと必死に許しを乞うた。

 この世の終りを告げるかのような真っ赤な空に覆われたメネス王国王都ナダン。 

 大陸随一の都市として栄華を誇った街は、建物は崩れ骸が至るところに散らばり葬民が羽虫の群れの如く蠢く終末の情景と成り果てている。

 崩壊寸前の王国の都市の中では、もっとも規模が大きいものだった。街の北端に位置するナダン大聖堂――青と白の美しく気品に溢れていた聖堂は、街の中でも一際無残な様相に変わってた。数えきれないまで伸びた赤い縄のようなモノが聖堂の随所に張り巡らされているのだ。

 それが血の色をした粘液をまき散らしながら聖堂を汚しているのである。まるで蜘蛛の糸に絡まった獲物同然。粘々とした縄状のモノは、聖堂内に浮遊している薄紅色に透けた物体から伸びていた。

 昆虫の卵や繭がそのまま巨大化したような形状。表面に付着した真っ赤な粘膜が松明の灯りで照らされてぬらぬらと光っていた。それの真上に生えた一本の巨大な束が上に伸びるにつれ無数に枝分かれをし、天井を貫通して外に出ている。

 胎動する異形の正体とは――

「みすみすフェンブルの血を引く者を取り逃がしていたとは。お前はワタシが眠りから覚めるまでに全てを終わらせると誓ったが、これを破った。よもや虚言を弄していたと?」

 聖なる神々の手を逃れ幾億の時を経て現世に復活した邪神シュマだった。

「そのようなッ! 滅相もございませんッ」

 怯えるジーナは人智を超越した主君に対して、ただただ、謝罪の言葉を繰り返す事しかできない。

「どんな状況だったか知る由もない。だが勇者は現実に生き延びており、王都まで来ようとしているとは明々白々。認めなさい、お前はしくじったのです、この役立たずめ」

「あぐがッ! ぐぅ……ッ!」

 反論の余地もない現実を叩きつけられたジーナは自責のあまり、借り物の若い肉体を両の爪で掻き毟った。ヴァネッサから報告を受けた後、すぐさま決戦の舞台となった塔へ幽体を飛ばしたが、嫌な予感は当たった。勇者の遺骨はおろか霊剣すらなかったのだ。

(してもあの高さだぞ、衝撃を和らげる木々もない、バラバラに砕け散っていないとおかしいんだ。奴はどうやって窮地を脱した!?)

 驚天動地の展開としか思えなかった。理由はどうあれ勇者は生きているのだ。ジーナは戦いに勝利したと思い込み浮かれた過去を心底悔いる。

(ふむ……。全てを疑ぐる必要がありますか。憂い事は一つ残らず消し去らねば)

 一方、邪神は呻き悶え続ける手下を無視し現時点で自身を滅ぼす可能性全てに対し、思慮を巡らせていた。

(聖霊術士の方は魂の波動が押し込められているので問題ない。しかしこの分では神獣の方もどうか……勇者だけではなく、彼奴すら危機を脱している可能性を考慮せねば)

 一撃でねじ伏せたというシュマの証言はもはや信用できない。勇者同様、神獣も仕留め損なった予感がしてならなかった。神獣ビノは聖なる神々の長アルターの息吹を受けた強靭なしもべである。肉体が崩壊する直前で奇跡的に踏みとどまったかもしれない。シュマの懸念は深まるばかりだ。

 数えきれない時間を逃走と力を蓄えるに費やした。屈辱の日々を思い出した卵の中の本体は怒気のあまり点滅し母親の腹で暴れる胎児みたいに蠢いたが、やがて静かになった。

(必ずや世界へ破滅と混沌をもたらす。そのために力を蓄えて現世に再臨したのだ。ワタシの存在理由を穢す者は、誰であろうが死あるのみ)

 負の根源である邪神シュマは己に刻まれた悪心の意志へ従い、アルター神が創造したこの世に死と虚偽をもたらし続ける。それは例外等なく、全てへ平等に振りまかれる害毒だった。

 邪神本体はずっと閉じていた赤い単眼を見開く。その異形の瞳の奥に秘められた禍々しい思惑は人間では決して推し量る事はできない。

「ジーナ、今一度慈悲を与えます。今度こそ勇者を仕留めなさい」

 望んでいた許しの言葉にジーナが安堵し、胸を撫で下ろした。

「抜かりありません。すでに駒を動かしている最中にございます」

「よろしい。ワタシはこれより完全復活に向け今一度の眠りにつく。次に目を合わせる時までに、勇者の首を我の下へ献上していなければ――」

 が、安堵感は切り裂かれた。赤い異形の中から音もなく射出された針状の物体が、緩んだ顔を掠めたのだ。

「八つ裂きです。怨魂となって苦しんだ末に偽善神の煉獄で火あぶりになるがいい」

「は、あがが」

 憤怒の念までは収まっていなかったようだ。ジーナは口をぱくつかせ、血液が流れ出る頬をさすった。

「ワタシが完全復活するまで時間を稼げ。今度こそ勇者の死体を献上しろ。清浄土へ逝きたければ与えられた命を果たせ。それがお前の存在価値です」

「――ハハッ」

 邪神はそれっきりピクリとも動かなくなった。青い顔をしたジーナは極限の緊張に耐え切れず、膝をついて嘔吐した。

「グファッ。あッグ!? あ、し、失敗はできないッ!」

 正気ではいられず床へ頭をぶつけ続けた。亜麻色の細い髪は血で赤く染まる。

 そうして何度かの自傷行為を経て呼吸を整えると、老齢の死霊術士は点滅が早まった邪神の繭へ懇願するよう両手を合わせると、何度も祈りを捧げた。

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