17

 オルカの長い髪を揺らして風が過ぎていく。

 そこはすでに臨の見知った世界だった。

 いつもの夜明けだ。

 しんとした静寂の中にかすかに生活音が混じり始めている。人の生活する匂いが、空気の中に溶けている。ここはいつもの世界。

 でももう知らない世界のようだと臨は思った。

「オルカ…」

 こちらを見ているオルカの顔は、薄闇の中に沈み、表情はよく分からない。傍らにたたずむ列王もなにも言葉を発しなかった。

 地面に落ちていた檻の残り火が風に煽られて舞い上がり、臨とオルカの間を漂っていく。やがて、それも消えていく。

「大丈夫か、臨」

 そっとオルカが言った。

 影になった顔の、そこに何かが見えた気がした。緑色の美しい目が、自分を愛おしむように見つめるのを、臨は知っている。

 臨の目を見てオルカは言った。

「私を、思い出したんだな?」

 オルカは気づいていた。

 目を合わせて、臨はゆっくりと頷いた。

「俺は…きみを知っていた」

 オルカは臨を見ていた。

「ずっと、ずっと前から――俺はきみを知ってる」

 オルカは手を差し出した。

「臨、まだ時間は残っている。おまえの行きたいと思う場所に、私を連れて行ってくれないか」

 臨は差し出された手を見つめた。細く白い指先、泥と血に塗れた掌が、そこにある。それを見て臨は思う。

 耳の奥でずっと雨の音が鳴り止まない。

 あの日から忘れることが出来ない。。

 ずっと聞こえるその音を、この手を取ったら、消してくれるだろうか。

 その手で、塞いでくれるのなら。

「うん」

 オルカの手を臨は握った。

「願うだけでいい」

 目を閉じて、と言われた。

「…高木は…」

 臨は振り返る。高木が横たわっていた。オルカの血のおかげか、出血は止まり、傷はすでに塞がっている。深く呼吸を繰り返して、今は眠っているようだ。

「彼はもう大丈夫だ」

 臨はオルカに向き直り、目を閉じた。

 温かなその手は頼りないほど小さかった。柔らかく、温かい。 

 その感触にどうしようもなく切なくなったとき、目蓋の裏が白く弾けた。



 十三年前、雨の降るあの日、母は死んだ。

 降り続く雨の中で、臨はそれを見ていた。

 化け物が母を殺すのを。

 醜いもの、見慣れないもの、知らないものがそうだとは限らない。化け物はどこにだっている。すれ違う人の中に、たまたま乗り合わせた電車の中に、見知らぬ人ごみの中に、街角で、よく知った人の中に、人の姿をして。愛するものの姿をして。

 夜の闇。

 水たまりに反射する外灯の明かり。

 雨が落ち広がる波紋。揺れる水面、その中に映る姿を、臨はよく知っていた。

 知らない者のように笑うその――顔を。


             *


「十三年前、ここはただのなんにもない道だったのに、いつのまにかビルが建ってたんだね」

 目を開けたとき、そこは知らないビルの屋上だった。

 臨は落下防止の柵の前まで行き、下を覗き込む。随分高い。二十階はありそうだと思った。

「この近くによく行く店があってさ、母さんと。その帰り道だったんだ」

 きっと、多分、と付けるいつもの決まり文句を臨は口にしなかった。もう知っているからだ。それが事実だと。

 忘れていた、記憶から抜け落ちていた細かなあの日の事柄が、今は鮮明に思い出せる。

 こんなにも鮮やかに。

「きみは知ってるだろ?」

 臨はオルカを振り返った。

 明け切らない夜の薄青い光の中、オルカはそこにいる。その肩の向こう、控えるように少し離れたところに列王が佇んでいた。

「母さんは死んだ。あの日、この場所で」

 風がゆっくりと髪を撫でていく。

「殺したのは、俺だ」

 オルカは首を振った。

「俺が殺した」

 緑色の目がまっすぐに臨を見ている。臨も見返した。

「きみもそこにいたね」

 沈黙は肯定と同じ…

 耳の奥深くで雨は降り続けている。

 どんなときも。

「あれは臨ではない。あれは、おまえの――」

「俺の?」

 問い返すと、オルカは言いかけた言葉を飲み込んだ。

「俺は本当はずっと、きみに会いたかった」

 覚えていなくても、体が覚えている。ひどい既視感の正体、ふとしたしぐさに重なる記憶の断片。透子には一度も聞いたことがない。あの場にいなかった彼女は知るはずもないことだ。

 答えを知りたかった。あの日、あのとき、見たあの光景はどこまでが真実でどこからが夢なのか。

 醒めない夢を見ているようだ。

 どこまで行っても現実味がない。

「きみに会って、聞きたかった」

 オルカは表情を変えなかった。

 そして静かな声で言った。

「あれはお前の、生まれてくるはずだった兄弟だ」

 ざあ、と冷たい風が吹き抜ける。

 同じ顔、同じ体、同じ声。

 そう、あれは自分と全く同じ姿をしたなにかだった。

「鏡の中に俺がいたんだ」

 自分がそこで笑っていた。握り締めた母の、雨に濡れた手が滑りそうだと、ぎゅっと強く握り返した。

 それを見て、鏡の向こうの自分はせせら笑っていた。

『…──…』

 傘に当たる雨の音が、声を消していた。

 思っていたことを臨は言った。

「あれは…きみの義兄さんだろ?」

 オルカは頷いた。列王がふいと顔を逸らし、柵のむこうに目をやった。

「あのとき、俺に手を差し出したのはあいつだった」

 臨は目を閉じ、また開けた。

「母さんを殺した手で、俺に言うんだ。一緒に行こうって、こっちにおいでってさ、顔中血まみれにして、ごみみたいに母さんを殺しておいて、笑いながら俺に来いってその顔で言うんだよ!」

 目の奥が熱くなり、淵に滲んできたものを臨は手の甲で拭った。

「俺とおんなじ顔して言った…!」

「――臨」

「なんで今ごろ来るんだよ!」

 オルカの手がそっと臨の指先に触れ、臨はたまらずに膝をついてその体を抱き締めた。縋るように子供の体の細い肩に顔をうずめると、血の匂いがして、悲しいと思った。

「オルカ…!」

 こんなにも悲しい。

「すまなかった」

「…あの手を、俺は取らなかった」

「ああ」

「きみがいたから…あのとき、きみは、同じように俺を護ってくれてた」

 差し出された手を取ってはいけないと、そばにいた人は言った。それはオルカだ。

 鏡の中の自分を砕き、臨を護ってくれた。

「だが…私はおまえの母は護りきれなかった。本当にすまなかった、臨」

 オルカの手が臨の背にそっと触れた。

「どうして俺は忘れていたんだろう」

「……」

 オルカは苦しさを覚えた。

 義兄のその顔を思い出す。あのとき、十三年前のあの日、もっと、もっとあの場に早くたどり着いていれば──もっと自分に力があったなら。

 臨は悲しみや苦しみも味わうことなく、この先もずっと自分の存在など知らずにいられたのだ。

「オルカ」

 臨は問いかける。

「俺は、俺だよね?」

 現実味のない生活。現実感を伴わないとき、何かがふと違うと感じるとき、考えてしまう――これは自分なのかと。これは果たして本当に自分自身であるのかと。あの日の記憶を失った日々の中でずっと感じていた。

「俺でいいんだよね」

「そうだよ」

 オルカが臨の髪を撫でた。

「おまえは臨だ」

 臨は頷いた。

「ありがとう」

 俺を知っていてくれて。



 ゆっくりと臨は顔を上げた。オルカのぬくもりから手を離す。向かい合ったオルカの目が間近にある。宝石のような虹彩が青緑色に光り、美しかった。そこに自分の姿が映っている。

「俺はまたきみを忘れる」

 オルカのその目が、ゆっくりと見開かれた。

『…お前の記憶をもらっていくよ』

 幼かった臨にオルカはそう言った。

 そうして何もかもを持っていったのだ。

「…俺の記憶がないのは、あの日、きみが持っていったからだ」

 オルカは何も言わなかった。ただじっと臨の目を見ていた。見交わした視線の中で、臨には分かってしまった。これは初めから決まっていた事なのだと。何をどう言っても、オルカは自分の前に現れると決めたときからそのつもりだったのだと。泣いても喚いても、どんなに拒絶しても、この人はこの記憶を持っていく。

 あの日と同じように。

「俺を殺せば終わることなのに、オルカはそうしないんだね」

 ゆっくりと瞬きをして、オルカは言った。

「私は、臨に生きていて欲しい」

 オルカの口元がふっと緩んだ気がした。

「臨が六吏の目として生まれたとき、皇帝はシイを人の世界に戻すことを決めた。私は皇帝の意を受け、それを実行するために存在している。…臨」

 呼びかけられて、臨は息が出来ないほど苦しくなる。

 離れたくないと思う。

「皇帝の…私の望みはただひとつ、人が自らその手によって世界を…シイを人の手に取り戻す事だ。皇帝が臨を護り続けたように、なにがあってもまた私は臨を護る」

 その目の中に愛おしさを見る。

 覚えていたい。この人を、忘れたくない。

 臨はジーンズのポケットに入れていた紙片を取り出した。これを、とオルカに差し出す。

「これを、持っていて。これはね、母さんが遺したものなんだ」

 オルカの指先がそれを開いた。古い紙片の中に綴られた短い文章。

「その中には名前が隠されてる」

 オルカは臨を見ていた。

「…名が?」

「俺と、あの子の」

 あの子、というのが死んだ片割れだとオルカには分かった。

「誰も知らない。あいつも…あいつはこれを知りたがってた気がする。だから、いつかきっとオルカの役に立つよ」

 臨は微笑んだ。自分が笑って見えるようにと願った。

「俺がきみを忘れても必ず覚えてるよ。だからオルカも知っていて」

 十三年経ってやっと埋められた空白を、また同じように失うのは怖い。

 けれど、どこかに共通したものが、それが例え記憶でなくても言葉でもあれば、大丈夫だと思える気がした。忘れてしまっても同じことを知っているのなら。

 臨、とオルカが言った。その目を美しいと思った。あのときと何も変わらない。

 すべて同じ──

 忘れたくない。

「記憶は私が貰っていく。──リン」

 静かな声でオルカはその名を呼んだ。

 臨は目を瞠った。

「これからたとえ何があっても、生きて、幸せで、笑っていろ。それがおまえの母の願いだった」

 問い返す声は言葉にならない。

「どうして、それ──」

「私はいつもおまえと共にある」

 柔らかなオルカの指先を額に感じた瞬間、臨の意識は溶けていく。何もかもが白く淡く消えていった。



 目を閉じてしまった臨の傍らで、オルカがゆっくりと顔を上げた。

 聞こえていた足音が屋上へと通じる扉の前で止まった。列王は振り返った。赤茶色のくすんだ金属製の扉には小さなガラスが入っており、そこから人影が見えた。

 誰かがそこに立っている。

 オルカは立ち上がり、歩み寄った。

 ゆっくりと扉は開いた。

「あなたには感謝している」

 オルカは言った。

 列王の横でオルカは立ち止まった。

 それが誰なのか知っている。

「我々にはもう時間がない。今…ヴィリンの効力はわずかに延ばすことが出来た。しかしすでに終焉は発動した」

 けれど呼びかけるべき名をオルカは知らなかった。本当の名前を。

「双環の境界は、再び封印を試みてはいるが、それもどれだけ持つか約束は出来ない」

 見交わす視線は穏やかだ。

 けれどその内なる激情を互いに理解する。

「その日まで臨のことを、よろしく頼む」

 風で扉が軋んだ。

 たとえ本当の名前を知っていても、お互いに呼び合うことはない。

 これからも、きっと同じだ。

 我々は影に潜む者。

 闇の中にいるべき存在だ。

「もちろんだ、――オルカゲイン」

 扉の前に立ち、静かに微笑むと、そう番人は答えた。



「まったく無茶ばかりするよ」

 深く列王はため息をついた。

「俺が間に合わなかったらどうするつもりだったんだ?」

 かすかにオルカが笑った。

「おまえなら間に合うと思っていた」

 ふん、と列王は鼻を鳴らした。

「…で? これでよかったって?」

 列王が問いかける。

「ああ」

「それで、どこまで本当の事を話せたんだ? あいつは、お前の義兄は、リンの――」

「列王」

 オルカが列王を制した。

「いいんだ」

 風がオルカの髪を揺らしていた。空は白く、闇を消していく。

 光は逆光になっていてオルカの表情を見えなくさせていた。

 肉体を失ってもなお、義兄はこの手から逃げおおせた。今もこのセンの世界にあり、息を潜めて笑っているのだ。オルカはそれを臨に告げないと決意していた。

 けれど…

 青白い空が端のほうから赤く変わっていく。

 火を灯したようなそれは、息を呑むほど美しかった。

「列王、見ろ…夜明けだ」

 こんなにも美しい空の色をいつか見せてやりたい。

 自分の還るあの世界にも。

 いつか。

「もう、いいんだな?」

 オルカは頷いた。

「目的はすべて…果たせたのか?」

 手の中にある紙片をオルカは握り締めた。

 存在を確かめる。

 左手の奥の熱を。

 それは臨の意志であり、記憶であり、決意だ。

「…ああ」

 彼は気づいていたに違いない。曖昧な言葉で誤魔化すことを許したのは、言えなかった真実は、あの日たった一度だけ問いかけた自分の言葉に、臨がすべてを悟ってしまったからだ。

『──おまえの名は?』

 臨は思い出したのだ。

 オルカが記憶を持っていく理由を。

 それにどんな意味があるのかを。記憶の中に何を封じ込めているのかを。

「時間だな」

 列王が空を仰いだ。

 ああ、とオルカが応えた。

 目に焼きつけるように、オルカは夜明けを見ていた。

 この世界のすべてを。

 やがて鮮やかな光がふたりを照らし、包み込んだ。眩しさに目を細める。

 すべてはこれから始まるのだ。そして終焉も。

 終わりがくるそのときまで。

「行くか」

「ああ」

 オルカは言った。

「帰還する」

 あのうねりの中へ。

 風が吹き抜けたとき、すでにそこに姿はなかった。


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