16

 すべてが白い。

 烏鷺が驚愕の目で見ていた。何が起こったのか分からぬままに、臨はその顔を見上げた。

 何かがおかしい。

 違和感のままに瞬いて、そして、気付いた。

 烏鷺の体が、胸と腹の間ですっぱりと両断されている。

 ばたりと下半身が倒れた。

「あ──」

 奇妙な位置に傾いた顔が歪んだ。

「やはり、お前は――」

 宙に浮いたままの上半身。烏鷺のその手にはまだ剣が握られている。

「小和瀬! おわせ…!」

 右手に宿る赤黒い刃が臨を捕らえている。

 臨の体は動かない。

 見開いた目を閉じることさえ出来ない。

 烏鷺が壮絶に笑い、その刃を振り下ろした。

「それでこそ我が王の石だ!」

 見上げる臨の首筋を冷たい風が舐める。

 開ききった臨の目に鳥が過るのが見えた。

 鳥?

 火の檻が砕け散り、その声は落ちてきた。

「臨‼」

 目の前に背中があった。月凪が烏鷺の刃を受け止めている。垂直に噛み合った刃が火花を散らす。檻の残骸が火の粉となって頭上から降り注ぐ。その髪に、その肩に。

「オルカ!」

「…オルカゲイン…‼」

「また会ったな、烏鷺」

 オルカの瞳の前を火の粉がよぎる。緑の虹彩に映った残り火がひとすじの光を描き闇に消える。オルカは烏鷺を押し返しながら背後の臨に叫んだ。

「行け!」

 オルカの足が一歩前に出る。押し返す。烏鷺はすでに再生を始めていた。腹の切り口からは柔らかな真新しい肉がすでに蠢くのが見えていた。

 臨は頷いた。オルカの背を見つめて、振り切るように高木へと駆け寄った。



「高木! 高木、ごめん、たかぎ…っ」

 駆け寄った高木の傍には腹から下の烏鷺が横たわっていた。

 動く気配はない。

 臨は高木を覗き込んだ。胸から血が溢れ出している。

 ゆるく目を開けた高木が口元で笑った。

「あー…言うほどでもなかったなあ、いってえ…」

「血が…!」

 血の流れる場所を臨は強く押した。

「う…たたた…っ」

「ごめん、血、止めないと…!」

「たいしたことない…」

「なに言ってんだよ! バカか!」

 そんなわけないだろ、と溢れ続ける温かな血に涙がこぼれた。ぱたぱたと、押さえつける自分の手の甲に落ちる。その手にも血が流れていて、まだ渇いていない血が涙で滲んで高木の服に染みこんでいった。

 青ざめた顔で高木が苦笑する。

「おまえの方が傷だらけだよ」

「どうでもいい」

 止まってくれ、と願う。血の気のない顔でなんでもないように笑ってみせる高木に、涙が止まらない。

「二度目、ちゃんとあったな…三度目か」

「いいから…っ」

 ぎゅっと押し付けた掌の下から、漏れ出てくる体液の感触がおさまらない。どうしようどうしようと気ばかりが急いて胸が苦しくなり、嗚咽が抑えられなくなる。

「…っう……!」

「バカだな」高木が閉じかけた目で臨を見ていた。

「泣くなよ」

「──」

 すっと高木の目が閉じた。

「…高木?」

 臨は体を揺すった。眠っているように見える口元は笑っていた。

「高木、たかぎ‼」

 全身から血の気の引く音がした。臨は叫びながら強く肩を揺さぶった。何度名を呼んでも、高木の目は開かない。胸に耳を押し当てると鼓動は小さく、消えかけているようだ。

「やだ、いやだ…、高木、たかぎ! 目開けろよ、高木!」

 胸の上で手が滑る。血に塗れた体。固く閉じた瞼。

 このまま、開くことがなかったら。

「いやだ…!」

 ふっと臨は気配を感じた。振り返ると、ゆらりと蠢きながら、烏鷺の足が立ち上がろうとしていた。


***


 背後で臨の気配をたどりながらオルカは烏鷺を追い込んでいた。

 刃を返した月凪を引く。上体しか持たないその身では勢いを受け流せず、烏鷺は大きく飛んだ。自ら張った檻に激突し、炎が崩れ落ちていく。

「オルカゲイン…!」

 その髪がゆらゆらと燃える。

 体を切られても死なないのは不死の肉の所業だ。

 生きたまま捕らえるために、それは必然だったことだ。

 オルカは烏鷺を火の檻に押し付けたまま、アシラを生む手を肩から切り落とした。

「グ、ウあああア…!」

「甘い考えだったな」

「…! 貴様あああ…!」

 私が望んだもの。

 どんな形でも生きてさえいればそれで良かったのだ。

 眼球を失った眼窩の奥でぬらりと光るそれが裏返った。烏鷺の右の顔はゆっくりと再生していた。

「ハッ…なにを言う…!」

「あわよくば、おまえは臨を覚醒させようとしたんだろう」

 檻の残骸が頭上から雨のように降り注ぐ。

 火の粉が舞っていた。

 濡れたように光る烏鷺の再生した右目に、見下ろすオルカが映りこむ。

「仕組んだのは伊月いつきか?」

 烏鷺の口元が引き攣れた。

「答えろ」

「…お前の、飼い鼠の弟か…」

「臨を何度も追い込んでおきながら決定的に殺さなかったのは、伊月の差し金だな?」

「……」

 歪んだ唇が薄く開いて、震えるような呼吸を烏鷺は返した。見交わす視線の中に複雑な感情が幾重にも入り混じる。

「…布石を取り出したところで使い物にならなければ意味がないからな、それを言い出したのは確かにあの小僧だよ」

 忌々しげに烏鷺は笑った。

「…だが、我は違う――はな」

「どう違う」

「我らに必要なのは玉座の布石だけだ…!あいつがどう言おうが関係などない! すべてはその為にあったことだ!」

「そうか」

「センの肉体なぞ、何の価値もない。我らが必要なのはあの目だ! あの六吏の目こそがすべて…!」

 ぎらぎらと滾る目で烏鷺はオルカを見ていた。

「見ていろオルカゲイン、――」

 瞼のない目。閉じることの出来ないそれをオルカは見下ろした。月凪を構えたとき、男の口の端が笑った。背後の気配に背筋がざわめいて、オルカは振り返った。


***


 烏鷺の足が立ち上がっていた。その腹の切り口からあふれ出た肉が触手となって臨へと迫る。

「臨!」

 咄嗟に目を瞑った。聞こえてきた声に続いて、切りつける音が続く。

 顔を上げるとオルカがそこにいた。肩で大きく息をし、高木を見下ろしている。

「大丈夫だ」

「オルカ…!」

「遅くなって悪かった」

 無造作に上に向けた掌をオルカは月凪で切りつけた。赤い線が走る。ギュ、と手を握りこみ、隙間から滴る血を高木の胸の上、血の流れる傷口に落とした。

 びく、と高木の体が無意識のまま仰け反った。

「高木!」

「治すだけだ、心配はない」

 臨は頷いた。

「俺を、助けてくれて」

「そうか」

「オルカ」

 臨は呼びかけた。こちらを向くその姿は、ひどく消耗していた。本人は気付いていないのかもしれないが、呼吸をするたびに上下に肩が揺れる。大きく裂かれた服の肩から胸にかけて、癒え切れてない傷が覗き見える。髪は乱れ、血がこびりつき、束になった長い髪が肩に落ちていた。

 花びらのように火の粉が舞う。

 こんな光景を、知っている気がした。

 臨はどこかで見たことがあるのだ。忘れているだけで思い出せない。

 臨は言った。

「…俺、あの手は取らなかった」

 オルカの目がわずかに見開かれた。

「取らなかったよ」

 緑色の目の中に、残火の赤が灯る。

 臨はそれをまっすぐに見返した。

 思い出した記憶。

「あのとき、きみは――」

 オルカの視線が自分から逸れたことに気付いて臨は振り返った。

 視界に広がる赤。

 生温かな肉の感触。

「くッ…!」

 臨の鼻先を掠めた月凪がそれを撥ねつけた。襟首を強く引かれて臨は高木の体に覆いかぶさるように倒れこんだ。

「――オルカ!」

 臨の頭上で、上半身の烏鷺とオルカが相対していた。左手で受け止めた月凪を烏鷺は握りこんでいた。烏鷺はその手で臨を捕らえようとしたのだ。

「グウウウゥ…!」

「行け!」

 臨は高木を引きずりそこから動こうとする。

 だが動けない。体格のある高木は臨には重すぎた。察したオルカが烏鷺の上半身を蹴りつける。

「ガアッ…!」

 烏鷺は弾き飛ばされ、地に叩きつけられた。オルカがすかさず飛びかかり、月凪を振り下ろす。

 烏鷺はそれをまた受け止めた。

「鈍っているぞ、オルカゲイン」

 オルカは容赦せずに押し込んだ。握りこんだ掌が裂け、血が噴き出す。男は喉奥で咆哮した。オルカは意に介さず刃を引き抜いた。月凪が空に弧を描く。纏わり着いた血を払うように振るった月凪を、オルカは再び烏鷺へと振り下ろそうとして、宙でそれが止まった。

「――」

 背後から、烏鷺の下半身から伸びた触手が月凪に絡みついていた。それはオルカの両腕ごと月凪を侵食し、大きく胸をさらす姿にさせた。男は狂喜した。吊り上る唇がめりめりと耳元まで裂けていく。

「ヒハハハハハハ!」

「オルカ――!」

 臨は叫んだ。オルカが腕を振り下ろそうとする。動かない。ギッ、と軋んだ触手がオルカに引きずられる。

「逃げろ臨!」

 烏鷺の切り落とされた腕がアシラを生む。

 臨を見ている。

「逃げられると思うなあアア!」

 上体から伸びた触手が切り取られた腕を持ち上げた。アシラを絡め取り、放つ。狙いを定めた切っ先が矢のように向かってくる。

 駄目だ。

「あ──」

 すべては一瞬だ。

 なにもかもがそのとき終わる。

 けれど臨の体は動かなかった。

 そのとき、臨の肩を誰かが強く引いた。

 誰かの気配がそばをすり抜けた。

 高木じゃない。

 影が目の前を過る。

「!」

 甲高い音が鳴り響いた。

 臨は目を見開いた。

 見知らぬ男が目の前にいた。臨の前に突きだした掌から青い光が放たれ、アシラは宙で止まっていた。

 青く光る掌の中心がアシラを押しとどめている。

「やーっと追いついた…」

 灰色の髪をした男は深くため息をついてそう言った。

 オルカが男を見ていた。

「──列王れつおう!」

「よう」

 烏鷺の目が怒りに歪む。

「おのれ…鼠がぁアアア‼」

「鼠鼠とうるさいなあ」

 ぼそっと呟き、灰色の男──列王はうっとうしげに眉を顰めた。

 烏鷺の形相が醜悪に歪んでいく。

「ちょろちょろと鬱陶しい…! お前には似合いの名だ」

「かもな」

 列王の踏み込んだ足がざらりと音を立てた。灰色のうねる髪が火の粉に焦げる。大柄な体で、オルカと似たような服装をしていたが、こちらもひどい有様だった。どこかで既に一戦交えてきたように、首筋や頬、腕にべったりと血が滲みこびりついたままだ。

「だから俺は、腐臭が漂うところに吸い寄せられるのさ」

 いいざまに列王がアシラの切っ先ごと掌を握り込む。掌の中でアシラが粉々に砕け散った。火花が飛び散り、舞い踊る檻の残り火とぶつかり、溶け合っていく。烏鷺の怒気を孕んだ肩に、檻の天井が崩れ、降り注ぐ。列王は表情も変えずに、浮いていた烏鷺の腕を掌から生まれた青い刃で一閃した。

「列王!」

 オルカが叫ぶ。列王は月凪に絡む触手を断ち切った。解放されたオルカが烏鷺に向く。

「――遅い」

「あーのねえ…」

 刃を振り、うんざりしたような顔で列王はオルカを見た。

「これでも精一杯だよ俺は」

 列王に一瞥も寄越さずに、オルカは間合いを詰めるように一歩前へ出た。

「烏鷺」

 対峙する。

 烏鷺は再生し始めた上体を傾けたままだ。

「時間切れだ」

 その背後で火の檻が崩れていく。

 巨大な鳥籠のような檻が内側から崩壊していく。ぼろりと崩れ落ちた天井のむこうには、薄い闇が――夜明けを孕んだ闇が広がっていた。白い光が、夜の端を染めている。

 夜明けだ。

「ク…ッ!ぐああああああ!」

 烏鷺の上半身と下半身からオルカを目掛けて、前後に触手が放たれる。列王がそれを切り崩していく。烏鷺の目蓋のない両目が赤く血の色に染まっていく。

「おのれええええオルカゲインんんんん‼」

「我が左手をそのことで解放する」

 オルカはその左手を掲げた。まっすぐに伸ばし、手のひらを烏鷺に向ける。

「列王、鍵を!」

「はいはい」

 触手を払いのけ、列王は振り返った。足払いを仕掛けてきた烏鷺の下半身を無造作に蹴り飛ばす。

「――『審門に問う』」

 列王が抑揚のない声で言った。オルカに掴みかかった烏鷺の左手が指先から霧のように霞んでいく。

「バカな…!お前は左手の力を失ったはずだ!」

「私がそうだと言ったか?」

 烏鷺の双眸が驚愕に震えた。声を潜めてオルカは言った。

「私がいつ、おまえにそうだと言った?」

「その姿は…貴様…もしや――自ら…!」

 オルカは口の端を持ち上げた。

 それは壮絶な笑みだった。

「どうした? はかりごとはおまえの専売特許だったか…?」

 一歩、踏み出していく。烏鷺は後ずさった。それは無意識の行動か、もしくは怖れからだったのか。

 知ることは出来ない。

「間違ったのはおまえのほうだ」

 掲げた左手から逃れるように烏鷺は下がった。烏鷺の左手は粒子となり、それはいまや徐々に体を這い登り、左肩のあたりまでを侵食していた。

「なぜだ、我の審門はいまだ閉じぬぞ…!」

「残念だがおまえの審門はすでに封印された――おまえがこれよりくぐるのはおまえが蛾梟に用いた審門だ」

「な、にを…!バカな…!」

 烏鷺が叫ぶ。

「我々の降下を阻止しようと蛾梟を先に送り込んだのが仇となったな…審門はおまえだろうが蛾梟だろうが区別はしない。もとは同じ肉体だからな」

「だが…、――!」

 一瞬訝しんだ烏鷺は、そして思い当たったようにオルカを凝視した。

「あの回廊で、時をも操ったか…!」

「時間切れだと言ったはずだ」

 オルカはうっすらと笑みを浮かべた。

「番人はい力を私に与えてくれた」

 そして含めるようにゆっくりと告げる。

「お前は、最初から間違えているよ」

 慄いた烏鷺は半身を捻り右肩から垂らした触手を臨へと放った。最後の足掻きか、臨が反応するよりも早く、列王がそれを切り捨てた。

「平気か? リン」

 動けずにいる臨に列王は手を貸して引き起こした。臨は息を呑んだ。

 リン?

(――)

「列王を鼠と侮ったのは早計だったな。彼は囮を演じたに過ぎない」

「うちの愚弟がずいぶんとそちら様に世話になっているようで、礼を言うよ」

 烏鷺は列王を睨みつけた。列王はにやりと笑った。

「でもあいつには気をつけろよ? 仲間だろうが敵だろうが、使える者は何でも利用する奴だ。だが、それはおまえも同じか? おまえも伊月を利用していた。あいつもそうだろう、なにせ俺の上を行く、ご立派などぶ鼠様だからな…?」

 烏鷺が唸った。

「…なにもかも、猿芝居だったというわけか…!」

 列王は読めない表情で笑みを浮かべた。沈黙は肯定と同じだと言ったのは、誰だったか。

「終わりだ」

 オルカが言った。

「門番達がお前の到着を待ちかねていることだろう。その身で自らの罪を永遠にあがなうがいい」

 オルカの左手の甲に赤い文様が浮かぶ。

「お前は多くを殺し過ぎた。いずれ、死んだほうがましだったと知るだろう」

「アアアアアアアア―――!」

「『審門はを望む』」

 列王が続けた言葉に臨は目を瞠った。

 日の環を望む―――

「帰還する」

「『その名をって望みとする』」

 オルカが言い、列王が応えた。呪文、これが、鍵か―――

 シイとこの世界を開く鍵。

 たったひとつの。

 繋ぎ目。

「名は烏鷺リドゥ、番人の命によりこれより回廊へと幽閉する」

 左手のその先で烏鷺は絶叫した。

「が、アアアアアアアアああああ―――‼」

 体の全てが一瞬で霧となった。オルカは叫んだ。

「回廊!」

 霧となった烏鷺の周りをオルカの手から放たれた透明な膜が覆った。薄青い闇の中でそれは凝縮し、結晶のような多面体となっていく。美しい、青い闇を反射する鉱石のように。

「我が名は皇帝の使者オルカゲイン、この名を捧げ回廊の封印とする!」

 きらめく石の中で一瞬満月の目が見えた気がした。

 臨の背を、ぞくりと打つ。

 それは何か。

 臨は確信していた。

 それは──予感だと。

 世界が変わる。

 世界がくつがえっていく。

 キン、と激しい耳鳴りがあたりを覆った。波紋のように空に広がる。烏鷺の領域が消滅し、檻は弾け、粉々に砕け散っていく。

「開門を求める!」

「──『天開てんかい』!」

 オルカと列王が叫ぶ。

 美しい石は空へと飛んだ。臨は闇を仰いだ。端のほうから水を溶かしたように薄くなっていく夜がそこにある。無数の星の名残、舞い踊る火の小さな赤い光に紛れ、その石がどこに向かっていったのか、もう分からない。

 あのむこうに知らない世界がある。

 風が頬を掠めていく。臨はオルカを見た。




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