15


 大きな月だ。

「なんで…」

 巨大な赤い月が頭上にあった。暗く世界を照らしている。

 月?

 いや、あれは――

「小和瀬!」

 あれは月じゃない。

「バカ、伏せろ!」

 落ちてくる光に魅入られたようになっていた臨の腕を引き、雨でぬかるんだ地面に高木は臨を抱え込んで倒れ込んだ。

 爆音とともに抉られた地面から無数の砂利が弾け散る。

 降りかかるそれを払いのけ、臨の上着の襟首を力任せに掴んで引きずり上げた。

「走れ!」

 臨は顔を上げた。敷地の端に停めた高木のバイクが見える。臨の腕を掴み走れと耳元で高木が叫んでいる。

「高木…!」

 臨は空を仰いだ。

 上空にはまだ赤い月があった。

 月の赤黒い光は空いっぱいに広がり、その広げた手の端が頭上から囲い込むように落ちてくる。

 炎だ。

 あれは炎だ。

「なにやってんだ、小和瀬!」

 立ち止まってしまった臨を急いた声が促した。だが臨は目が離せなかった。あと少し、もうほんの一瞬──

 見ていたい。

 高木の声がした。強く肩を揺すっていた腕が離れた。高木は走っていった。追いかけなければと思うのに、けれどどうしてか、臨はあの光から目を逸らすことが出来ない。

 炎は自分めがけて落ちてくる。

 自分が標的だ。

 あの手に灼かれてしまったら、すべてが。

 すべてが変わる。

 世界が変わっていく。

「――」

 その瞬間臨の目の前に、赤く血に濡れた満月の目があった。

 本体だ。

「死ね」

 叫んでいるのは自分なのか。

 炎の雨が降る。

 火の檻だ。

 四方を取り囲まれた、それは鳥籠だった。

 熱風が頬を嬲る。満月の手が臨の髪を掴み上げた。さらされた首筋が爛れた口の前に引き出された。

「あ、ぐ…っ」

 食い殺される。生きたまま喰い尽される。折れるほどに仰け反らされた喉に男の荒い息がかかる。熱い、熱い――その口から滴り落ちた血が、臨の首筋に垂れた。

「オルカゲインではなく残念だったな」

 満月の目が笑う。

 苦しさに涙が滲み、視界が歪んだ。

「ま、…げつ…!」

 オルカよりも早くたどり着いた男。

 その顔には右側がなかった。大きく抉り取られた頬の肉のあわいから、どろりとした血が流れ、風が抜けている。右目はもはや失われ、ぽっかりと開いた洞の向こうに夜の闇が見えた。

 高木の言うことは正しい。

 ぬらぬらと垂れ落ちる血に抗いながら臨は思った。

 傷つけられねば発動しない護りを信じることは、死ぬことと同じことだ。

 でも、それでも。

「満月だと?」

 にい、と男は笑った。

「そうか。自分が誰の手によって死ぬのか、おまえも知っておくべきだな…我が名は烏鷺。お前の持つ六吏の目で、我が王が双環を支配する」

「あ、ア――」

 烏鷺の背後に何を見る。

 赤い月を見ている。

 闇がゆらゆらと揺れる。透明な膜を張った世界に浮かんだ世界の輪郭が滲み、ぼやけていく。

「おまえが呪うべきは己の運命だよ」

 見えるのは、

 目に見えるのは。

 臨の右の視界から、黒い塊が轟音を上げて火の檻を突き破った。

 エンジンが唸りを上げる。

「──」

 浮き上がったバイクの前輪が烏鷺の頭を弾き飛ばした。

「あ…!」

 烏鷺の体は衝撃に仰け反り、臨を掴んでいた手が外れた。臨は解放され投げ出された。足元が地面についたとたん、膝から崩れ落ちそうになった臨の腕を高木が掴んだ。

「立て!」

「たかぎっ…!」

 バイクに跨った高木が見下ろしている。片手でハンドルを握り締めながら臨の体を抱きこむように抱え上げた。なにが起こったのか理解出来ぬまま、臨は高木の腕を掴んだ。

「なにして、なんでっ…!なんで逃げなかったんだ!」

 高木の上着は焼けていた。髪の先が変色し焦げていた。バイクごとあの火の中を突っ切って来たのか。

「バカなことするな!」

「うるせえ、いいからつかまってろ!」

 高木は臨を前に抱え込んだままアクセルを回した。エンジンが唸りを上げる。

「くそッ」

 前輪を軸にして後輪を滑らせようとしたが上手くいかない。臨は高木の背後を見た。後輪に絡み付いた炎が意思を持ったようにバイクを引いていた。

「高木、駄目だ…!」

「ダメじゃねえ」

 この火は烏鷺の一部なのか。炎に引きずられ、方向を立て直そうとバイクが激しくエンジン音を上げた。ゴムの擦り切れる匂いが立ち上る。高木の額から汗が落ちた。指が白くなるほど強くハンドルを握っている。視線は臨の背後に見据えられたまま動かない。

 高木はまっすぐに烏鷺を見据えていた。

「どうせ逃げられはせぬ。ここから出られはしないぞ…」

 倒れたまま烏鷺は笑った。

 高木が舌打ちをした。

「なに言ってんのか分かんねえよ」

 臨は振り返った。

 火の檻の向こうにあるはずの、周りの景色が遠く感じた。

 高木の家はどこだ? 出てきたはずの扉さえ方向が掴めなかった。周囲から人が出てくる気配もない。

(これは…)

 烏鷺の力の及ぼすものか。

 オルカが使った、臨の家で相対したあのときと同じように。

 赤い闇の中で、立ち上がった烏鷺の体が捩れたように揺らめいている。

「…っ」

 烏鷺の顔は肩の上に逆さまになって乗っていた。文字通り、皮一枚で首と繋がっているのだ。

 にい、と烏鷺の目は逆さに歪んだ。高木を見ていた。

「手駒を持っていたとは、…驚いたな」

 そしてゆっくりと臨に視線を移した。

 手駒?

 手駒ってなんだ。

「高木は、関係ない…」

 烏鷺はひどくおかしそうに笑った。

「我を傷つけるほどの者が関係ないなどとはありえんな」

「なに…?」

「おい」

 乗り出した臨を抑えるように高木が言った。だが、臨のほうが一瞬早かった。

「それどういう意味だ」

「ほう、成程」

 烏鷺はぶら下がっていた自分の頭を持ち上げ、正しい位置に挿げようとしている。剥き出しの喉が震えて笑った。

「オルカゲインはお前に肝心なことを何ひとつ話してはいないのさ…あいつはな、核心をはぐらかし薄っぺらい皮をさも本当のことのように見せるのがひどく上手いんだよ」

 後輪が浮き上がる。空回りする唸りがわずかに落ちた沈黙に響き渡る。

「知りたいか?」

「…オルカを、どうした」

「その者のことを、お前は知りたくはないか?」

 烏鷺の左目が高木を見た。

「オルカをどうしたんだ!」

「さあな」

 羽虫が耳元で飛ぶ音がした。

「小和瀬!」

 高木が叫んだ。同時に、バン、と衝撃波にバイクごとなぎ倒された。高木はその体で投げ出された臨を覆うようにして地に転がった。砂利が体に突き刺さる痛み。視界の端で火に捕らわれたバイクは空転を繰り返しながら檻の外にはじき飛ばされていった。

 檻の外で、めらめらと這う炎がゆっくりと後輪を燃え上がらせる。

 くそ、と高木が忌々しげにつぶやいた。

 衝撃が頬を掠めた。

 折り重なって伏した体のまわりを次々と襲う。

「ハハハハハハハハ!」

 見る間に人の形に地面が抉れていく。舞い上がった石が容赦なくふたりの体を打ちつけた。

 抗えない。臨にはなにひとつ出来ない。

 烏鷺の攻撃は玩ぶようだ。追い詰めるようにギリギリで引いていく。

 知っている、と臨は思った。この体が傷つけば庇護が――オルカの力が発動することを。蛾梟がそれで消滅したことを。

 ならば。

「やめろ」

 動くな、と鋭い高木の声がした。考えを悟ったかのようで臨ははっとする。臨を庇おうと高木が強く覆ってくる。臨は身を捩ってそこから抜け出そうとした。

 このままでは駄目だ。

「高木、離せ…!」

 叫んだのを狙いすまして臨の耳を掠めるように衝撃波が地を打った。

 身を硬くしてやり過ごした瞬間、ふっと臨の上から高木の気配が消えた。

「グ…っ!」

「高木!」

 臨は咄嗟に手を伸ばしたが間に合わない。

 高木の体が浮き上がり、抉られた剥きだしの地面に叩きつけられた。体を起こした臨の目の前に男の足先が見えた。臨は目を上げた。ガッ、とその顔を男が容赦なく踏みつける。

「う…く、っ」

 じわりと頬が熱を持った。摩擦で皮膚を焦がしていた。地面に押し付けられた顔がぎしりと軋む。砂利が食い込んだ。臨は足掻いた手で男の足首を掴んで爪を立てた。満月は喉を鳴らして嗤った。

「我が手を出せぬと思ったか? あてがはずれたな…」

「っう…!」

 重く冷たい靴の底が容赦なくこめかみに食い込む。息をするたびに口の中に湿った土が入りこんだ。横目に見上げたわずかな視界の中で奇妙に傾いた烏鷺の顔がにやにやと歪んでいる。

「オルカゲインは来ない」

 どくん、と鼓動が大きく跳ねた。

「お前の盾となったあれももう動けまい」

「な、に…がっ…」

 可笑しそうに烏鷺は残っていた口の端を持ち上げた。

「盾だよ、お前の。この領域の中にあっても我の攻撃を弾き飛ばし我を傷つけた、あれは確実にお前の『領域』なのさ」

 男の目が動き、臨もそれを追った。見ている先には高木が倒れている。

「六吏の目の持つ力だ。人はお前の傍にいるだけで盾となり、お前を護る。お前の領域を創り出し、その領域を侵すものを排除しようとする。それが自らの意思だと思っている」

「え…」

 そう思っている?

 盾?

 傍にいるだけで?

 俺の傍にいるだけで、護らなければと思ってしまう?

 高木が自分をここまでして助けてくれようとしているのは、自分の中にある六吏の目の力なのか。

「……っ」

 そうかもしれないと、臨は思った。

 そうでなければ説明がつかないではないか?

 どうして、こんなにしてまで…

「たかぎ、…」

 ごめん、巻き込んでごめん。

 高木が首を振った。

「そいつの言うことをまともに聞くな!」

「恐ろしいものだよ、オワセノゾミ。お前自身に何の力がなくとも、ただ六吏の入れ物というだけで誰しもがお前の僕になる…手となり足となり、血を流して傷ついてもまた立ち上がってくるのさ。大した影響じゃないか? …なあ? 何も出来ない木偶でく人形が」

 ぐう、とさらに体重を掛けられ踏みつけられる。臨の口から悲鳴がこぼれた。

「お前、気がつかなかったのか」

 烏鷺はさも感心したように口角を上げた。

「これまで生きてきた中で、まるでその身に覚えがないとは言うまい?」

 臨をじっと見下ろした目が、ふと、近くなる。顔が影に覆われて黒く塗りつぶされた。血走った眼球の奥に閃く何かが見え、臨は息を呑んだ。踏みつけたまま屈みこんだ烏鷺は臨の耳元に顔を寄せた。

「お前の周りで死んだ者がいたはずだ」

 やめろ、と高木が叫んだ。

「聞くな、小和瀬、聞くな!」

 高木はもがいていた。横たわった体が見えない何かに押さえ込まれている。高木が無茶苦茶に振り回した手が、何もない空を掻き毟っていた。

「た、かぎ…っ」

 高木に、烏鷺の声が聞こえているはずがない。

「何も…っ聞くな!」

 なのに──なぜ。

「そうさ」

 烏鷺の生温かい息が臨の首筋にかかった。全身が強張った。針で縫いとめられたかのように体が動かない。臨は抗った。

 首を振った。

 聞きたくないと思った。

 聞きたくない。

 耳を塞ぎたい。

 もがいた手を烏鷺が掴み上げた。

 いやだ。いやだ。

 高木が臨の名を叫んでいる。

 いやだ。

 ――いやだ。

「…お前の母親がそうだ」

 熱い息。

 血の匂いがする。

 ──雨の匂いが混じっている。

 滲んだ闇の中で、高木が苦しみの声を上げた。

 赤く燃える檻が揺れている。

 揺れながら高木に近づいている。

 地を掻く高木の足先に、ほ、と小さく明かりが灯る――

「やめろ──‼」

 臨は満月の足にしがみついた。掴んだ肉を爪を立て、無茶苦茶に抉った。男は声を上げて笑った。

「ハハハハ! 容易いものだ! なあ!」

「嫌だ、いやだ、やめろ! なんで、いやだ…っ!」

 目の淵から涙が溢れ出す。さもおかしそうに満月はいっそう声を上げて嗤った。足の下で捩れもがく臨の体を踏みつける。嫌な音がした。

「あ、──グう!」

「見ろよ、弱いなあ! 所詮はセンの者の盾か! 己の身を護る力はどこにもないようだな!」

「ア、あ、嫌だ…!なんで、関係ない、ちがう、高木は関係ない!」

 ただ傍にいただけ。

 ただ一緒にいただけだ。どうして。

「やめろ烏鷺、高木! いやだっ、いやだああああ!」

「ハハハハハハハ!」

 臨の指先がぬるりと滑る。爪は烏鷺の皮膚を引き裂いて、血に濡れていた。臨は這うように男に縋りついた。高木の足先をたどる炎の手が痛ぶるように蠢いている。くぐもった高木の声がした。

「どうして…!」

 母のことは断片的にしか覚えていない。抜け落ちた記憶。

 あの日は雨が降っていた。

 臨はただ手を握り締めていただけだ。

 その手を離さなかったから、その手を離したくなかったから、ただ。

 そこにいただけで。

「さあ、死ぬ前に、我を傷つけた代償を払ってもらうぞ」

「あッ!」

 烏鷺が臨の髪を掴みあげ仰向かせる。足に縋る手を引き剥がされ、腕は寄るすべを見失う。

 さらされた喉をやすやすと片手で握りこまれ、臨は喉を抑えている手ごと掻き毟った。

 だが烏鷺はものともしなかった。

「見ろ」

 臨の顔を力ずくで高木のほうに向かせた。そうしながらも烏鷺はぐう、と指を押し込み、ゆっくりと臨の呼吸を奪い、抵抗を塞いだ。

 ずるりと足先が滑り、臨は力が抜けていくのを感じた。

 傾いた視界の中で滲んでぼやけていく輪郭。

 くぐもった呻きの中で高木が臨の名を呼んでいる。臨も名を呼んだ。けれど動かしたはずの唇は、ただ浅い呼吸を繰り返しただけだ。

「お前が傍にいるというだけであれは死ぬのだ」

 聞くな、と高木が叫ぶ。男の声は聞こえていないはずなのに、その気配や雰囲気だけで男が何を言っているのか、分かるようだった。

「クソ…ッ!聞くな、小和瀬…!」

「お前を護るものなどあってたまるか」

 目の端で男が右手を持ち上げたのが見えた。血に汚れた手に真新しい数本の指が蘇っている。不気味に白い指だった。男が気配を変えた瞬間、その掌から赤黒い刀身がずるりと現れた。

「その力はシイのもの…シイにこそあるべきものだ。センの人間の体になぞ…」

 口の端が吊り上った。

「この時をどれほど我らが待ち望んだか…お前には分かるまい」

 殺すのだ。

 火をつけて炙るだけでは足らず、臨の目の前で切り裂いて嬲るのだ。

 傷つけられないから、

 臨自身には刃を向けられないからか。

 庇護があるから。

 その矛先を、高木に向けるのか。

 涙に歪んだ輪郭が溶けて落ちていく。首を締め上げる男の手の甲を引きちぎりたい。男の残った満月の目を抉り、潰し、再生を始めた真新しい肉をまた血に塗れさせたい。毟り取りたい。どうしてこんな目に合わなければならないのか。今まで感じたこともなかったまっ黒く塗りつぶされた感情が腹の奥底から湧き上がってくる。こんなにも激しい。怒りが抑えられない。哀しみが、やるせなさが、悔しさが、渦巻く叫びに飲み込まれていく。

 どうして、どうして―――

「か、ッハ、ァ、…!」

 苦しい。

「そら…その目でようく見ておけ。こいつはお前の母親と同じ運命をたどる。六吏の目を持つお前のせいでな」

「──っ…」

 苦しい。

 苦しい。いらない、もういらない。

 護ってくれなくていい。

 いらないから。

 もういらない。

 男が一歩足を踏み出し高木を見下ろした時、振り上げたその右手を臨は見た。そして男が笑いながら刃を振り下ろす、自分への注意が逸れるその一瞬に、身を捩り、自分の肩をその切っ先に差し出した。



 ごう、と風が鳴った。

 たゆたう水底から見上げている気がした。

 世界が陽炎に揺らめいている。

「キ、さ、マああああアア!」

 噴き出した血が弧を描き烏鷺の顔を染めた。燃え上がった陽炎が臨ごと烏鷺をを丸呑みにしていく。

「小和瀬ー!」

 烏鷺は臨を地面に叩きつけた。見上げれば白炎を纏った男は再びその手を振り上げている。高木に迫るその腕に臨は飛びかかった。

「邪魔をするなあアア!」

 満月の腕の一振りで臨は吹き飛ばされた。叩きつけられた全身に痛みが走り、くらりと意識が飛びそうになる。起き上がろうともがくが、力はどこにも入らなかった。

 逃げろ、と高木が叫んでいる。

 烏鷺は炎に照らされた赤い闇の中で振り向き、めらめらと立ちのぼる焔のように――笑った。

 臨は息を呑んだ。

「ど、して…、…っ」

 烏鷺は、三日月のように消滅したりはしなかった。臨から立ち上った白い炎は、ただ烏鷺の手を一時止めたに過ぎない。

 烏鷺は嫣然と臨を見下ろした。

「思惑が外れて残念だな」

 そうして臨に見せつけるように高木に向き直り、血色の刃を高く掲げ、構えた。

 なにもかもが歪む。

 くらくらと夢のように。

「やめろ…! やめろーっ!」

 地を掻く手は土の感触しかない。

 悔しさに涙が滲む。

 力が、力が欲しい。

 護れる力が。

 この手に力が欲しい。

 すべてを、――すべてをなぎ払える力が。

 欲しい。

 ──欲しいか?


「──」

 耳の奥で、ふふ、と笑う声がした。

 なにかが、ひた、と自分の内側を撫でる。

 暗い胸の深淵から顔を覗かせる。

 それを叶えることができると囁きかける。

 簡単さ…

 さあ、手を。

 こちらにおいで。

 ──さあ。

「…誰?」

 おまえは――

 おまえは誰だ?

『――…僕は』

 

 烏鷺がその手を振り下ろした。

 

***


 化け物は、白い炎の中で笑っている。

 その後ろで倒れこんでいる小和瀬がこちらに這ってこようと手を掻いている。その手は自分のためのものだ。助けようとしてくれている。高木は早く逃げろと叫んだ。

 化け物は歪に捻れた唇で何かを言う。

 俺を嘲笑っている。

「――」

 聞こえない。高木は舌打ちした。

「だから、聞こえねえっつってんだろうが…!」

 化け物は血の色をした刃を振り下ろした。

「ア──」

 刃は火のようだった。高木は灼けつくような痛みに支配される。

 喉の奥に血の味が広がった。

 胸の上に落ちてきた切っ先は服を裂き、肉にめり込んでいく。

 痛みに喰いしばった奥歯がもう耐えられそうにないと思った。

 声を上げる。

 死ぬことに意味はない。ただそれだけだ。

 そうだ。

 そんなことはもうとっくに知っていたのではなかったか。

 そのためにここにいるのだ。

 俺はそのために。

「ち、くしょ、…がっ…!」

 視界が暗く引き絞られていく。

 まだだ。まだ、見届けていない。何ひとつ。

 そのために、俺は願ったのではなかったか。


***


 雨が降っている。

 いつも雨が降っていた。胸の奥で、鳴り止まない雨の音がする。

 闇の奥では答えを待っていた。

 差し出された手のひらを雨粒が打つ。

 雨、雨音。

 雨が。

「あめ…」

 臨は思い出した。

 ――いけない。

『駄目だ』

 その手を取ってはいけないと、その人は言った。

 それは――



「あ、ああアアアああああああ‼」

 臨は絶叫した。

 烏鷺は振り返った。

 だが遅すぎた。

 噴き上がった白い炎の中で蹲る臨が顔を上げた。臨の瞳の色がゆらりと揺らめいた瞬間に、烏鷺はその体を両断されていた。




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