14

 臨は出来る限りのことを高木に話した。

 分裂した歪な双子の世界。自分が襲われた理由、自分の成り立ち、信じられないような世界の見も知らない人の身体の一部が、それを欲する人々にはどれだけの価値があるのか。しかし物事はそう容易くはなく、そのままの形では自分に受け継がれなかったこと。この状況から救おうとしてくれている人がいること、その人が今どういう状況にあるのかを。

 今のこの事態を。

「そいつは不死身だって?」

 話し終ると、高木はそう言った。

 その言い方では、死ねないことがとても良い事のように聞こえるから不思議だ。至福のように甘く、夢のように美しい。

 だがそれも、実際を知らなければの話だ。

「死ねないっていう呪いなんだ」

 自宅の風呂の中、排水口に流れていく真っ赤に染まった湯の残像が目の前に現れる。痛みを堪えていたオルカが、切り落とされた腕を再生するときに上げた声を思い出して、臨は眉をひそめた。

「…そんなにいいもんじゃない」

 ふうん、と高木は言った。

「それで、おまえがその?――ロクリの目?」

 高木が言うと、どこか奇妙な響きが混じる。

 臨は苦笑した。

「信じないだろ。何言ってんだって、…俺だってよく分からないよ」

 自分自身まだ半分疑っている。そんな状態で、どんなに言葉を尽くしても伝えられたようには思えない。ましてこんな妄言のような話を本気にしてもらえるなどとは、臨は始めから思ってはいなかった。

 高木は小さく鼻を鳴らした。

「おまえのそれ」

 そう言って臨の首を指差す。

「気付いてないかもしれねえけど、頚動脈切れてるぞ。しかも、かなり深く」

 臨は手当てされた首に触れた。

「普通なら死んでる」

 そうだ。死んでいたのだ。

 この体の中には、わずかにもオルカの血が入っている。

 そして、あの炎がなければ。

「そうだな…」

 陽炎のようなあの揺らめき。

 自分は確かにオルカに護られていた。

「もう行くよ」

 臨は立ち上がった。

「は?」

 高木は鋭く笑った。漏れた声は溜息かもしれなかったが、そうではなかった。

 臨は目を見開いた。

「どこに?」

「──」

 どこに?

 見上げる高木と目が合った。



 目を閉じると訪れる闇の中に点在する光。

 その先にいるのだと知っている。

「いた」

 見つけられたことに深く、満足する。

 口の端を舐めた舌を冷たい風が刺した。

 気配はふたつ。余計なものがあるようだが、まあ構わないと笑った。

 ひとりもふたりも大差ない。

「供が出来たな」

 そうだ、どうせどちらも運命は同じなのだから。


***


 高木が臨の行く手を遮るように立ち上がった。

「どこに行くって?」

 臨は高木を見上げた。

 高木のその問いには答えようがない。それは、と臨は言い淀んだ。

「どこか…」

「夜明けまでひとりでどうするんだ?」

「どうって、逃げ――」

「逃げて? それから?」

 高木は臨の言葉を遮った。

「おまえ本気で言ってるのか? 逃げて、走って? あんな宙に浮かんで手を延ばしてくる化け物から? おまえを本気で殺そうとしている奴相手におまえは何も出来ないのに、どうやって逃げ切れると思ってるんだ」

「それはっ」

 声を上げて、そこから先の言葉を臨は見失った。

 それは、──

 それは。

「さっきおまえは本当なら死んでたんだ。この先もそうならないなんてどうして言える?」

 高木は無表情に臨を見下ろしていた。

「そいつが本当に来てくれるなんて保証がどこにあるんだ」

「──」

 すっと背筋が寒くなった。頭の中心の熱が一気に冷めていくのを感じた。

 何に期待しているのだと突きつけられた。

 そうだ、どんな確信があるというのだろう。

 どんな。

 オルカが来ないことも、来れない事態だって、あるかもしれない。

「一度救われたからって二度目もあるわけじゃない。夜明けが来るまでなんて曖昧な言葉を鵜呑みにして信じきってしまえるほど、おまえはそいつを信用してるのか?」

「一度じゃない」

 声を絞り出して臨は言った。

「二度、助けてくれた。一度目は俺を庇ってオルカは腕を落とした。二度目は…さっきは傍にいなかったけど、俺を護ってくれてたんだ。死ななかったのはそのおかげなんだ」

「あの白い火か」

「そうだよ」

 臨は息をこぼした。「高木だってあの火を見ただろ」

 それどころか、高木の腕はオルカの火に包まれたのだ。

 高木は納得できないのか、目を眇めて臨を見下ろした。

「それでも、危険だと分かっているのにおまえを放り出したんだろ」

「違う! それは理由が…!」

 振り仰いだ蛍光灯の光は空々しいほど白かった。

 理由はある。あるはずだ。理由はきっと…

「俺がそばにいたら、オルカは戦えなかったんだと思う」

 あの満月の目の男が言っていた。

 蛾梟も同じことを嘲笑った。その姿でどうするのだと。

 臨は深く息を吐いた。吐く息が震えていることに気づいたが、気づかないふりをした。

「高木、俺は信じてる。オルカを。おまえがどう言ったとしても、あの人がそう言うなら、夜明けまでって言うなら、俺はどんなことをしても逃げ切ってみせるよ」

 高木にも臨の声の震えが伝わっているはずだったが、高木はそれを見て見ぬふりをしていた。何か言いたそうに高木の唇が動いたが結局は諦めたように閉ざした。今度は臨がそれを見なかったことにした。

 長いとも短いともつかない沈黙の末に高木がため息をついた

「わかった」

 そう言って臨の二の腕を痛むほどの強さで掴んで歩き出した。

 臨の足がもつれるように体が傾いた。

「ちょ…っ」

「俺も行く」

「え?」

「それなら、俺がおまえの足になる」

「そ…」

 臨は高木の自分の腕を掴む右手を見た。そこに白い炎の残像が過る。

 あのとき。

 違っていたら?

 あれがもしも、もしも――蛾梟のものだったなら。

 高木は今ここにはいない。

「嫌だ」

 臨は立ち止まり、掴まれた腕を引いた。

「嫌だ、ひとりで、ひとりで行く」

「駄目だ」

 高木が振り向いた。

「何で高木が──」

「そいつが本当に来るとして、夜明けまであとどれくらいあると思ってるんだ」

 うわずった臨の声を遮って高木は続けた。

「いいか、この時期の夜明けは午前6時頃だ。今4時少し前。あと二時間、どうやって逃げ回るつもりだ?」

「でも、俺は嫌だ!」

 臨は高木の腕を激しく振り払った。

「オルカが俺を護ってくれてて、それがどこまで持つとかそんなの分からないけど、でも、また同じようになって、捕まって、それがもしも、…もしも俺じゃなくて高木だったら? 高木には何もない、関係ないのに、一緒になんていられないだろ!」

「それはおまえも同じだろうが」

「違う!」

「おまえが傷つかなければ護れないものになにが出来るんだ」

「――」

「そうだろ? あの火はおまえがに出てきたんだ」

「…けどっ」

 臨は唇を噛んだ。

 高木が臨の腕を強く掴む。

「どうなるか目に見えているのに手を振って送り出せってか? がんばれとでも言えばいいのか? 俺は笑って、どうにかなるなんて気休めを言えば済むのか? そうじゃないって分かってるのに。俺におまえを見殺しにしろって言うのか」

 ──見殺し。

 こくりと臨は息を呑んだ。

「俺が…死ぬって思うのか?」

「可能性の話だ」

 臨は俯いた。

 蛍光灯の白い光に照らされた足下に、ふたり分の影が重なっている。

「なんで…そんなにしてくれるんだ」

 高木は答えなかった。

 短く落ちた沈黙の後に臨は言った。

「俺は、そんなつもりで話したんじゃない」

「分かってる」

「そんなつもりだったんじゃないんだ」

「分かってるよ」

 高木の頬がかすかに緩んだ。



 奥の住居部分に残されていた不用品のダンボール箱の中から、高木は古いヘルメットを見つけ出してきた。その間も、今も、なぜか高木は臨の腕を離そうとはしなかった。まるで一瞬でも目を離せば臨が逃げるとでも思っているかのように。引きずられるようにして臨は裏口を出た。

 踏み出した瞬間、どく、と臨の鼓動が大きく跳ねた。

 ぐらりと視界が揺れる。

「――っ…」

 足がもつれ膝が折れた。高木が振り返る。逆光で高木の顔に影が落ちた。傾いだ臨の体を高木は片手をのばして受け止めた。

「どうした」

「いや、…」

 なんでもない、と顔を上げ、臨はぎくりとした。何かが。

 違う気がした。

「小和瀬?」

 違う。

 、違う。

 項が強張っていく。

 見てはいけない。

 それは見たくもないものだと、直感で分かった。

「――」

 息が止まる。

 夜半の風が尖る。

 湿り気の混じる夜の闇の空気は、もうすでに夜明けの気配を孕んでいる。

 やがて沈む。頭上にあるものすべてが西のほうへと傾いていく。朝はもうすぐそこにあるというのに。

 なのに。

 なのに――どうして今、その月があるのだろう。


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