13

 手だ、と思った。

 途切れた記憶の切れ端が浮かんだ。

 手をつないでいた。

 その手がいつもとは違ってひんやりと冷たく、震えている。ぎゅっと握りこんで見上げた先の顔はおぼろげで頼りない。ぼやけた輪郭のその人は死んでしまった母親だったと――

「…か、あさ…」

 甦る記憶が臨の動きを遅らせた。

 正面から頭ごと鷲掴みにされる。

 視界が黒く塗りつぶされた。

「――おわせ!」

 誰の声だ。

 掴まれた皮膚に食い込んだ蛾梟の爪が突然離れ、衝撃に身体が薙いだ。体が落下する寸前、強い力で腰を引き上げられ視界が揺れた。誰かに抱きとめられている。名前を叫ぶその声に激しいエンジン音が被さっている。バイクだ。

「おわせッ!」

 臨は、バイクに跨ったままの誰かに荷物を抱えるように背中から引きずり上げられていた。振り仰ぐと、ヘルメットの中に知っている顔があった。

「高木…!」

 離れたはずなのに、なぜ。

「乗れ!」

 高木の視線は中空で止まっていた。何を見ているのかは聞かずとも分かる。

「なんで」

「早くしろ!」

 苛ついた声で、高木は被っていたヘルメットを脱いで臨に押し付けた。臨は蛾梟を振り返った。先ほどとはわずかに距離が離れていた。白く燃える火の玉の中から咆哮が聞こえてくる。臨を掴んだ蛾梟の腕は体から千切れ地面に落ち、ゆらゆらと燃えている。びくびくと痙攣を繰り返す。

 高木がバイクで突っ込んだのか。

「ギイイイイイ――!」

 蛾梟が叫んでいる。

「小和瀬!」

 高木の腕が体から離れ、臨は我に返った。高木の背に張り付くようにしてバイクに跨る。手にしていたヘルメットを取り上げられ頭から押し込まれた。

「しっかり被ってろ、行くぞ!」

 高木の体に腕を回すとぐいと引かれ腹の前で強引に手を組まされる。

「落ちるなよ」

 スロットルを回したバイクが前輪を軸に半回転する。後輪がアスファルトに半円を描いて擦れ、甲高い音が上がった。ゴムの焼ける匂い。高木がそのまま加速する。アクセルを握りこむ。一気に走り出した。

「――!」

 正面に蛾梟を見据えた高木の目がすっと細くなり、挑発のように地面で燻っている片腕を轢いていく。瞬間蛾梟の体は大きくのけぞり咆哮を上げた。炎を纏った体は軋んだ音を立てた。臨を捕らえようと火の檻の中から、残りの腕を伸ばしてくる。

「高木!」

「――ッ」

 高木が舌打ちする。横から伸びてきた手を身を屈めてすり抜ける。速度を上げたバイクに並走する蛾梟の指先が臨の背中を捉えた。まずいと思った瞬間背中を掴まれ、ぐっと後ろに引かれた。臨が高木に回す腕に力を込める。引きずり下ろされそうだ。それにすばやく反応した高木が車体を急転回させた。臨の手が離れないように片手で腕を掴みハンドルを切って体勢を立て直す。激しい遠心力に臨の背に食い込んだ指がゆるんだ。長くたわんだ蛾梟の腕が高木の正面を横切った。

「やめ…ッ!」

「くそ!」

 それを高木は構うことなく掴みあげた。白い炎が高木の指や腕に纏いつく。臨は叫んでいた。見上げた高木の横顔は無表情だ。掴んだ蛾梟の腕を思い切り引くと腕は体から千切れ、ずるりと臨の背から外れた。高木は掴んだそれを握り潰して路面に叩きつけた。びくびくと路面で跳ねる。

「高木手が…!」

「後だ!」

 高木は再び方向を変えアクセルを回した。走り出したバイクは歩道を横切って車道へ入り、加速する。明かりのない闇の中を照らすライト、風に高木の黒い髪が煽られる。足元を見えないほどの速さで後方に流れるアスファルト。臨は背後を振り返った。

 月だ。

 月が見える。

 月の手前に同じものが浮かんでいる。

 蛾梟だ。

 炎の檻はもう完全な球体となっていた。

 白い炎は陽炎と同じだ。オルカの右腕に立つあの刃と同じ色だ。

 どんどん遠ざかり、小さくなる。

 見えはしないはずなのに、三日月の目がぬらりと光った気がした。

「逃すものか――我らの…」

 玉座の布石――

(…玉座の布石)

 その声は臨にだけ聞こえていた。

 蛾梟の言葉が炎に巻き込まれて消えていく。臨を見つめたその目が笑う。

 離れても捕らえられている。

 ぞくりと背を悪寒が駆け抜けた。蛾梟に掴まれた背が強く痛んだ。

 これで終わりじゃない。

「後で説明しろ」

 高木が叫んだ。臨は返事の代わりに腰に回した腕に力を込めた。

 

 月の色をした球体は男を焼き尽くして空で弾けた。

 空に浮かぶそれと重なるようにして、三日月の目が、その闇の隙間に溶けた。


 ***


 高木がゴーグルだけで、ノーヘルだと気がついたのはしばらく経ってからだった。バイクは恐ろしいスピードで幹線道路を北上している。周囲の風景が認識できないほどの速さで後方へと過ぎていくのを見て、臨はぞっと血の気が引いた。

「高木!たかぎっ!」

 掴まっている腹を拳で何度か叩くと高木はちらりと肩越しに振り返った。前を見ないその仕草にもぞっとして臨は前を見ろ、と全力で訴えかける。

「まえ、まえみろ、まえっ!」

「おまえが呼んだんだろうが!」

 そうだけれども、と思った瞬間に舌打ちを返された。嫌味のようにぐん、と更にスピードが上がる。冗談じゃない。

「高木、危な…っ!」

「喋るな、舌噛むぞ」

 高木は目の前のカーブを余裕でやり過ごし、再び直線となった道路を走っていく。息を詰めていると、わずかに速度が落ちたと感じた。少し肩の力が抜けた。

 ライトに照らされて過ぎる周りの風景の中に、ちらほらと家が立ち並ぶようになってきた。郊外の町のようだ。大きなビルもなく、建物は皆2階か3階建てだ。それぞれの間合いも広い。やがて高木は幹線道路から外れ脇道へと入っていった。速度も次第にゆっくりとなり、エンジン音だけが夜の空気を震わせている。

 バイクが停まった。

「降りろ」

 そこは、アスファルトで舗装されていない、開けた場所だった。すでに高木は降りていて、髪を掻き上げながら、まだバイクに跨っている臨に呆れたような視線をよこした。

「着いたから降りろよ?」

「え?」

 被っていたヘルメットを脱がされた。二の腕を掴まれて地面に降りた臨は、はっと、歩き出した高木の背中を掴んだ。

「なあっ、危ないだろ、ノーヘルなんて! もうあんなことするな!」

「予備がなかったんだから仕方ないだろ」

「だからってあんな…、死ぬかもしれないのに!」

 上着の背中を引っ張られたまま構わずに歩いていた高木が、臨を振り返った。

「俺じゃない」

「え?」

「死に掛けてたのはおまえだろ?」

 そう言われて臨は言いかけた言葉を飲み込んだ。そうだ。助けてもらった礼もまだ言っていない。

「そう、だけど、ごめん…あ、ありがとう」

 臨を見下ろして、高木は鼻を小さく鳴らした。

「あっ」

 再び歩き出した高木の背中を追いかけて、臨も早足になる。

「とりあえず手当てだ」

 高木は言った。空き地の奥には建物があった。暗がりの中を見上げると、コンクリートの素っ気無い壁があり、そこが建物の裏らしいと分かった。ドアに鍵を差し込む高木に臨は聞いた。

「ここは…?」

「俺の家だよ。今はもう誰も住んでないけど。いいから、早く入れ」

 開いたドアを押し開けたまま、高木は顎で臨を促した。

 臨はそっと足を踏み入れた。

「…病院?」

 建物には、家に限らずそれ特有の匂いがあるものだ。そこに集まる人や住んでいる人、使われる目的、建っている場所。足を踏み入れた高木の家と言われたそこには、生活空間には似合わないわずかな消毒の匂いが漂っていた。

「あー、診療所。親が、父親が内科医だったんだ。町医者ってやつだよ」

 閉め切られていた窓を開けながら高木が答えてくれた。

「もう随分経つのにまだそのまんま。片付けんのも面倒だからな」

 臨が首を傾げ、その言葉から推察していると、顔に出ていたのだろう高木がふっと口元を緩めた。

「死んだんだよ、事故で。両親とも」

「あ、…ごめん」

「なにが」

 笑いながら高木は廊下の奥の引き戸を開けた。とたんに今までよりも強い病院の匂いがした。慣れた手つきで高木がぱちりと壁のスイッチを押す。蛍光灯の青白い光が瞬いて点いた。

「こっち」

 引き戸の向こうはかつての診察室になっていた。古い木製の診察机と革の椅子、その正面に背もたれのない丸い座面の回転椅子があり、臨はそれに座るように言われた。壁面いっぱいを埋め尽くす薬品戸棚の鍵を高木は開けた。

「大したもんはないけど、応急処置ならいける」

 戸棚を探る高木の背中を臨は見つめた。天井までしっかりとはめ込まれたスチール製の棚の中はおびただしい量の紙束が隙間なくぎっちりと詰め込まれている。そのほんの隅に薬品と思われるガラス瓶やボトル、包帯の類が小さな箱に詰められて置かれていた。視線はそのまま部屋を漂い、今は使われなくなった診察室の中を見渡してしまう。

 そんなに広くはない部屋の隅に、ダンボールに入れられた紙束が積み上げられている。出入り口は他に二箇所あり、ひとつは開け放たれて、続く向こうのスペースが見えていた。古い木目のカウンター、回転椅子、壁掛けの時計、受付だっただろうその先の待合室に置かれた飴色の革のソファ。大きな窓、白い漆喰の壁、敷き詰められた淡い色合いのカーペットが、いわゆる病院特有の暗い陰を消して、まるでどこかのゲストルームのようだと臨は思った。

「もったいない…」

 思わず口をついて出てしまった言葉に慌てたが、高木は言われ慣れているのか特段意に介した様子はなかった。

「よく言われる、それ」

 応急セットをひと揃え抱えて高木は臨と向かい合わせて座った。

「跡は継がないんですかって」

「その気は?」

「ない」

 あったらおまえと同じ学部にいるわけがないと続けられて、臨は苦笑した。それもそうだ。経済学部では医者にはなれない。

「首、見せろ。血がべったりだな。先に拭くか」

「うん、でも…そんなにひどくないよ」

「それ本気か?」

 立ち上がった高木が不審そうに振り返った。診察室の中にある簡易キッチンの小さなコンロにケトルをかけて火をつける。

「自覚ねえの?」

「え?」

 やがて沸いた湯を琺瑯の水桶に空け、タオルを浸し固く絞ったものを臨の首にあてがって、高木はこびりついた血を拭ってゆく。

「こっち、傾けろ」

「うん」

「本当に痛くないのか?」

 首筋から流れた血は上着の下に来ていたカットソーの腹部分までぐしょりと重いほどに染みていた。無我夢中で気がつかなかったとはいえ、その広範囲を見ればおそらく大量に出血していたことは明らかだった。

「平気だよ」

 高木が眉をひそめた。固くなった血を拭き取る指先がためらうのを感じた。痛くないという言葉が似つかわしくないのは臨にもよく分かっていた。

「…慣れてるな。ほんと、もったいないよ」

「ねえから。しみじみ言うな」

 軽口を叩く臨に応えて高木も同じように返して笑った。

「まあ妹がいりゃ違っただろうけど」

 懐かしむような響きについ臨は聞き返していた。

「妹?」

「ああ、親よりも先に死んだ妹がいて、頭良かったから生きてればあいつが継いだかもしれねえけどな」

 何でもないことのように高木は続けた。

「両親とも親兄弟いないし、今は完全にひとり」

「親戚とかは…」

 思いついたままのことが言葉になって出た。遠くても血を分けるものがどこかにいればと思っただけだった。自分に、透子がいたように。

「いない」

 そしてなぜかふと高木はなにかを思い出したように笑みを浮かべた。

「でも、そうだな」

 世間話の延長のように返されて、臨はなにも言えなくなった。高木はとくに気にしたふうでもなく、淡々と臨の手当てを続けていく。

 同じ部分を確認するように何度もなぞられて、怖らくそこが蛾梟が切りつけた部分なんだろうと臨は思った。ざくりと、あの赤い切っ先が肉に食い込む音を確かに聞いたのだ。

 高木が消毒綿を傷口にあてがい、器用に医療用のテープで固定していく。一見して肌と同じ色のガムテープのように見えるそれは予想よりもはるかに肌になじみやすく優しかった。

「一応保護しておく。…背中、後ろ向け」

 回転椅子を回して背を向ける。高木が服を背中の中程まで捲り上げ臨に持っているように促した。湿らせたタオルで肌の表面を撫でられる。痛みよりもくすぐったさのほうが勝り、蛾梟の手で抉られたと思ったのは間違いだったかと思い直す。だが、そんなはずはない。あのとき感じた痛みは本物だったし、背中を伝った生温かな血も、確かに感じた。

 高木がその場所を指先でたどる。

「……」

 どう?と臨は聞いた。

「大丈夫そうだな」

 そう言って高木は臨の服を引き下ろした。

「ありがとう」

「他は?」

 臨はかぶりを振った。

 小さな沈黙が訪れる。

「…高木、あの…」

 首の傷も背中の抉られた場所も、きっともう塞がっていたのだ。

 臨は高木と向き合った。

「高木は手…大丈夫なのか」

「ああ、あの火は熱くなかった」

 ほら、と手を差し出される。

 目の前の高木の指を見つめる。どこにも傷はない。

 臨はこくりと息を呑んだ。

 今──しなければ。

 今、説明をしなければ。しかし、信じてもらえるだろうか。

 あんな、非現実的なこと。

「あれはまた来るのか?」

 はっと臨が目を上げると、高木はじっと臨の顔を見据えていた。

 臨は頷いた。

「来るよ、きっと」

「あれはなんなんだ?」

「──」

 高木の言葉は率直だった。言い出すタイミングを計っていたのは臨も同じで、いつまでも当たり障りのない言葉ばかりを並べているわけにはいかない。

 高木が言った。

「俺にはあいつの言ってることが聞こえなかった。目の前にいるのに何も。おまえには聞こえてたんだろ? 説明しろよ」

「信じられないかもしれないけど」

「もう見てる」

「どう言ったらいいのか分からないんだ」

 見たものは全て信じるからとそう言われて、臨は詰めていた息を小さく吐いた。高木は真摯なくらいまっすぐに臨を覗き込んでくる。

 臨は顔を上げ、今度は同じほどの強さで見つめ返した。

「俺だって混乱してるんだよ」

 壁に掛かっていた時計は午前三時を回ったところだった。


***


 引きずり出した体を、烏鷺は無造作に投げ捨てた。

 ――ごとりと、肩から落ちた。投げ出された手足は力が入らないのか細かく震えるだけで、立ち上がる気配はもはやない。荒い呼吸音が繰り返される。それはお互い同じだった。

 その場所の空気はひどく冷たく湿っていて、息の上がった体には都合がいい。小気味よさに口の端が知らず持ち上がるのを烏鷺は感じた。

「口ほどにもない」

 烏鷺は足下に横たわる細い肢体を見下ろした。口の中で呟いた声は掠れていた。血の味がする。それは舌が溶けそうなほどに甘かった。不死の血が、既に己の身の内に巡っていることを実感する。腹の奥から、言い知れぬ歓喜が湧き上がってくる。

 可笑しさが込み上げてくる。

「憐れだなオルカゲイン」

 幼子の姿でよくもここまでやったと、褒めてやるべきか。

 限界を迎えてもなお足掻き続ける姿は敵と言えども美しかった。

 烏鷺は後ろを振り返った。

 そこにあったはずの空間の裂け目はもうどこにもない。今、這い出てきたばかりだというのに。

 回廊は解けた。

 風を感じ、烏鷺は目を上げた。髪を嬲る冷たい風。開け放たれた窓に垂れ下がった薄い布が揺れる。荒れ果てた狭い空間、見覚えのある、最初に訪れた場所。オワセノゾミの住処だ。だが何の気配もない。ここにはもうオワセノゾミはいない。

 外は闇だった。

 烏鷺は張り出したそこに近づいて行った。ぎしりと足元の床がしなる。血に塗れ、数本指を失くした手を差し出した。外気は部屋の中と変わらずに冷たく心地良かった。月が目の端に浮かんでいる。

 また振り返る。

 床の上から、薄く開いたオルカの目がこちらを見上げている。そこに映る己の姿を見て、烏鷺は満たされる気分になった。見下ろすのは――打ちのめした相手を足下に見下げるのは、格別に気持ちのいいものだ。

 この肉を分けて生み落とした蛾梟は、あっさりとしてやられた。人間ひとりと侮ったか。しかし口惜しさはさほど感じていない。

 あとは自分が出向けばどうとでもなる。

 オワセノゾミはもうこの手の中だ。

「今回もお前は守れなかったな」

 呟きは闇に溶けた。

 そこに烏鷺の姿はすでにない。



 烏鷺が消えた闇をオルカは見据えていた。

 指先が震えている。

 動かない体を引きずり、冷たい床を這い、オルカは爪を立てた。浅く繰り返す呼吸を鎮めようと深く息を吸い込む。肺の奥が軋む。喉が唸る。胸に開いた穴から息が漏れていく気がした。実際そうなのだろう。視界がぐらりと揺れそうになる。固く目を瞑ってやり過ごす。肘を突き無理やりに引き起こした上半身から音が鳴るほど血が落ちた。

(憐れだ)

 そうだ、憐れだった。

 烏鷺の言いざまにどこかでオルカは納得している。頭の芯が煮えるほど、胸の内が冷静になっていく。

 本当にそうだ。

「──」

 オルカは激しく咳き込んで、喉の奥につかえた血をあたりに撒き散らした。思うよりもずっと、ダメージは大きいらしい。

(臨)

 烏鷺の気配を探る。

 闇の中に漂う痕跡がが途切れぬうちに、追いかけなければ。

「――…っ」

 オルカは目を閉じて意識を集中させた。

 目蓋の裏に星の散っていく。再生の切れ端を手繰り寄せる。

 命の萌芽が、その領域を侵して逆流する。

 全身が震え始めた。声がこぼれた。獣のような咆哮をオルカは上げた。千切れた肉の狭間に新たな血が通いはじめる。赤く染まる視界、限界まで見開かれた目の淵から生温かいものが滲み出した。それは目の縁に溜まり、床に食い込む血まみれの手の甲に滴る。

 熱い。

 涙など、枯れ果てたと思っていた。

(あなたには敵わない)

 脳裏によみがえる姿を頭を振ってオルカは振り払う。

 縋りつく面影はもういない人のものだ。

(あなたにはなれない)

 そうかもしれない。

 だが、そうだとしても。

 痛みが正気を凌駕していき、思考が侵食されていく。体中を駆け巡り、出口のない痛みが渦巻いて、何もかもを奪っていく。霞んでいく意識の中でオルカはただその名を呼び続けた。

 臨。

(臨)

「…み、のぞみ…ッ」

 爪を立てた指先が床を突き破った。

「ア──」

 オルカは絶叫した。


 ***


「…なにこれ…」

 入り口に佇んだ青年は息を呑み、動けなくなっていた。

 その扉は上から潰されたかのようにひしゃげ、蝶番で固定されたコンクリートの壁にかろうじて大きく斜めにぶら下がっていた。

 背中を嫌な汗が伝う。

 何があったんだ。

 大きく開け放たれたままの玄関からマンションの外灯が薄く差し込み、その暗い室内を淡く照らし出している。荒れ果てた部屋、散乱する食器、砕けた家具、この部屋の住人が集めている本などが床一面に、嵐が吹き込んだ後のように乱雑に散らばり、こげ茶色の床板には何かが大きく擦れたような痕が残り、倒れていた棚は無残にもその原型をとどめてはいなかった。

 息を詰めて青年は入り口をくぐり、一歩中に踏み込んだ。

 その瞬間、目の前で床の一部が激しく抉られた。突然陥没した床、窓から差し込む月明かりに口を開けた床の裏側が白く浮かび上がる。開け放たれていた窓から風が吹き込みカーテンを揺らした。

 青年は目を瞠った。

「な…」

 揺れるカーテン。

 目の端が映る人影を捉えた。

 誰かいる。

 ぎくりとして目を向けた。しかし誰もいない。

 床に落ちるカーテンの影の下に、まだ濡れた血痕を見つけ、青年から血の気が引いた。

 それは点々とベランダまで続き、大きな血溜まりを残してそこで途絶えていた。

 たった今までそこに誰かがいたように。

 手の中で握り締めていた携帯が氷のように冷たかった。




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