10
腕から滴る血が小さな血溜まりとなり、烏鷺のまわりをゆっくりと取り囲んでいた。
烏鷺の目がオルカを見据えていた。
「おまえに貸しなどない」
声は怒りに震えていた。
「…この力はどうした?なぜおまえが、おまえなどが──なぜ使える?」
身を捩り、埋まっていく両足を引き抜こうともがくが、びくとも動かなかった。腕の傷から血をまき散らして、烏鷺は暴れた。
オルカはひとしきり足掻く男を眺めてから言った。
「この力に覚えがあるようだな」
肩で息を始めた烏鷺が、跪いたまま、垂れた髪の間から視線だけを上げた。
「そう、ここは『
偉そうに、と烏鷺が吐き捨てた。
「おまえの力ではないはずだ…」
「勿論そうだ。これは番人から与えられたものだ」
「なるほどな…地の野良犬どもと秘密の逢引きか、用意周到なことだ…!」
冷めた目でオルカは男を見下ろした。
嘲るように烏鷺の口の端が持ち上がる。
「…さしずめ発動はおまえの血といったところか…、番人なんぞの力を借りねば我に向かえぬとは、おまえは余程…余裕がないと見える」
睥睨するオルカの視線を烏鷺は正面から薄く笑って受け止める。
オルカは言った。
「六年前、お前は番人を殺しているな?」
僅かな沈黙が両者の間に落ちた。
ぴん、と見えない糸が張り詰めるのが分かった。
「それがどうした」
「その時番人によって回廊に捕縛されたが、おまえは逃げ遂せた──運が良かったな」
言いながら、自分が切った烏鷺の腕を視界の端に置く。
その血はすでに止まっていた。それも当然か。
私の血だ。
「それがなんだ…!」
不死の呪いにかかった私の血だ。
「因果は巡るものだ。お前の望むと望まざるとに係わらず、与り知らぬ所でそれはいずれ還ってくる」
「何の話をしている」
噛み合わない会話に苛立ちを見せる烏鷺をオルカは無視した。
「女を殺したな」
「たかだか番人の小娘1人だ」
「我々と番人の間の禁忌を知らぬわけではないだろう」
吐き捨てるように烏鷺は嗤った。
「不可侵の殺生か?だが…どの口で、それをおまえが言うんだろうな?」
下卑た笑い声が響いた。
ひとしきり腹の底から声を出した後、ひいひいと息を継ぎながら男はオルカを仰ぎ見た。
洞のような目が暗く歪んでいる。
「お前こそそうではないか、オルカゲイン」
くくくく、と喉を鳴らしてまた笑った。
「あの子供は何も知らないのか?まあ、…知らぬよな?そうでなければ傍にはいられまい」
べたりと掌をつけて烏鷺は地を這いずってオルカの足下へと近づいてきた。にやついた笑いを顔に貼り付けたまま、ずる、と己の血に手を滑らせる。血に濡れた手がオルカの足の指に触れた。「おまえは罪作りだ、いつも。番人に借りがあるのは、おまえのほうだ」
オルカは感嘆したとばかりに眉を上げた。
「──そうだな」
その男の指にオルカは刃を突き立てた。一瞬のことに烏鷺は自分の指が切り落とされたことに気付かなかった。
烏鷺の叫びが上がる。
弾け飛んだ二本の指が男の目の前に転がった。右腕のまだかろうじて繋がっていた腕を、オルカは今度こそ切り落とした。
「ク、ソが…ァッ!!」
「馬鹿が」
不用意に手を伸ばした男をオルカは笑った。血の噴出す先端を握りこんだ掌にかすかな炎が見えた。不意を付いて切りかかるつもりだったのか。おろかな事だと思った。咽返る血の匂いにどこまでも自分が冷酷になっていくのが分かる。冷えた心の底で黒い感情が渦を巻いている。冷めていく。
「私が番人の代わりだ。ここでおまえを粛清する」
烏鷺が呻いた。
「我を差し出し…、そして自分の借りを相殺するつもりか…!!」
「そうだ」
オルカは切り落とした腕を踏みつけた。
握られていた刃は消えた。唸り声を上げた烏鷺の左手から新たな炎が立ち上った。それは形を成し、揺れながら、オルカへと突きつけられた。しかしそれも一瞬だった。オルカのほうが早く、烏鷺は体をのけぞらせ、顎の先に当てられた月凪に息を呑む。
「この力は番人から預かり受けたものだ。彼らはおまえを捕らえ罪を贖わせる事を望んでいる。私はおまえに用があった。我々の目的は同じだった、おまえだ」
「自らのために奴らの犬にも成り下がったか」
嘲りを浮かべて烏鷺は言った。その言葉にオルカは薄く笑んで返した。
「そうだ。目的のためなら、私はなんにでも尻尾を振るさ」
くぐらせた顎の下で月凪を横に引くと切っ先が皮膚に引っかかる感触がした。
そのまま滑らせるとわずかな抵抗はすぐになくなり、烏鷺の首が薄く切れた。腕や手の先の痛みに比べればどうと言うこともないのか、男は眉ひとつ動かさなかった。
「お前をここに寄越した者の名を言え」
右の口の端を持ち上げて烏鷺は喉の奥を鳴らした。汗が首筋を伝って落ちる。
オルカは表情を変えないまま意識を集中させた。この空間を保っていられるだけの時間は後わずかだ。烏鷺の動きを封じておけるのはそう長くはない。
そのことを烏鷺に気付かれてはならなかった。
番人と交わした契約の力には限りがある。
(随分と長くこの時を待っていた)
審門で待ち構えていた番人に、それはこちらも同じだと告げた。
やっと還すことが叶う。
「誰の手引きで臨の居場所を突き止めた?手引きした者の名を言え」
「言うものかよ…」
どこまでも鬼になる。
「それは残念だ」
今度は左目を狙った。
わずかな抵抗の後にぱちんと弾け、とろりとした柔らかな泥のような感触に手の先が沈む。男は声を限りに叫んだがそれを多少なりとも大げさだとオルカは思った。
「せっかく私の肉を喰ったのだから、存分にその身で堪能してもらおうか、烏鷺」
残された右目が大きく開く。
「不死の肉は、さぞや格別だったろうな」
「っ!おのれええええッ…、!」
烏鷺が喰らいつくように身を起こした。両足は捉えられたままで、勢いに引き倒される。その衝撃がオルカの足の裏に響き、緩みそうになる空間の境界を腹の底に力を込めてやりすごす。
(──っ)
ほんの少しの油断で世界は覆る。まだ終わらせるわけにはいかない。ただでさえ既に限界を超えている。悟られてはならない。
どこかに気付かぬうちに境界の緩みは出来ているかもしれなかった。
だがまだ、まだだ。
「アシラァ!」
烏鷺は叫んだ。呼応してその左手に甦った赤い刃――アシラは目の前のオルカに目掛けて放たれる。身の丈以上に伸びた刀身をオルカは瞬時にかわした。切っ先は空間の壁に深く突き刺さり、激しく震えた。烏鷺の血にまみれた手に戻ろうとするアシラをオルカは叩き落とした。月凪が両断し、霧のように消えていく。それを見届けて、無駄なことを、とオルカは言った。
「言うまでお前の体を切り刻んでいく」
落とした指はすでに戻りかけていた。オルカは再生を始めた右腕の切り口に月凪を突き刺して抉った。男の叫びは声にならなかった。失くしたものを再生する痛みは想像を絶する。死んでいたほうがどれだけましかというほどに。
嫌というほどそれを知っている。
こんなものはまだ序の口だ。
「手引きしたのは誰だ」
「…知ってどうする」
烏鷺の声は震えていた。それが痛みからなのか怖れからなのか、判別はつきかねた。
オルカは答えなかった。
「は、ハハハハハハ…!」震えながら大きく烏鷺は笑い出した。
「おまえひとりが!…おまえ一人が足掻いたところでなにがどうなるというのだ!?今更何ができる!皇帝は死んだ!もう虫の息だ!今更お前などに…たかだか不死の力を得たくらいでよくもそこまで思い上がれるものだ!!」
「お前と問答をする気はない」
オルカは男を見下ろした。
「私が知りたいのはお前を手引きし、臨の居場所を知ったそいつの名だ」
「…言わせてみせるがいいさ」
烏鷺は笑った。
「おまえの知る者だ」
同胞だということは分かっている。
だからこそ確信が欲しかった。
だからこそ。
「そうか。だろうな」
オルカは烏鷺の肩に月凪を押し当てた。流れた血の中に足を踏み出す。裸の足が濡れる。それはまだ生温かかった。落とした右腕が足先に当たる。白く蝋のようになったその冷たさはよく知るものだった。
なにもかもが血の色をしている。
すべてそうだ。
すべてが。
そのとき、違和感を覚えた。なにかが足りない。
なにか見落としている気がした。そこにあるはずのもの。
男の右腕の抉った皮膚がゆっくりと元に戻り始めている。左の落とした指先は既に再生を終えていた。脱皮したての柔らかな肉が小刻みに震えている。落とした指は──どこだ?
指が──
指がない。
男の指先のひとつが見当たらない。
いつだ。
オルカは男を見た。
「やはりおまえは我らの側に来るべきだった。皇帝の傍なんぞより、よほど居心地が良かっただろうに」
烏鷺は言った。
にやりと笑う男に嫌な予感がした。その肩ごしに境界がわずかに口を開けているのを見た。
そのまま肩から切り込んで胸まで裂いた。
烏鷺の絶叫を聞きながら、オルカは悟られぬように臍を噛んだ。
気付かれたか?
この空間の不安定さを。
オルカは男を見つめた。
「次は──どこがいい?」
もがき苦しむ烏鷺に聞いた。
痛みに身を丸め、狂ったようにのたうち暴れる男は見開いた眼球をこちらに向けた。
それを受け止めながらオルカは指の気配を追いかけた。
(どこに消えた)
一瞬、向けていたはずの意識が逸れた、
そのとき。
見下ろした男の右目の奥のわずかな愉悦を、オルカは完全に見落としていた。
血溜まりの底が薄く透けていた。
***
流れた血が臨の指を伝って下に折り重なって落ちていた本に落ちた。
文庫本ほどのサイズの、しかしそれは本ではなかった。
持っていた本を床に置き、それを拾い上げる。
その拍子で、薄く黄ばんだページの隙間からはらはらと何枚かの紙がすべり抜けた。小さく折りたたんだそれも同様に黄色く日に焼け、経た年月の長さを思わせる。
臨はそれを拾って、あ、と小さく声を上げた。指に付いていた血でその紙も汚してしまった。慌てて手放して服で手を拭い、もう一度紙を拾い上げる。赤い染みの出来たそれをゆっくりと開き、久しぶりに目にする文字を追いかける。ほんの数行の文章。
読まなくてももう覚えてしまっている内容は、頭から離れることはない。数年前に遺品を整理していて偶然見つけた、それは母の日記の一部分だった。切り取って一枚だけを手元に置いて持ってきた。残りは透子が持っている。走り書きされたわずかな文章は詩とも覚書の断片のようにも読めて、それが母にとってどういったものであったのかは、今となってはもう分からないことだった。
「にちわを、のぞむ…
まるで呪文だ。誰にも意味もなさないその文は、しかし臨にとっては守るべきもの、意味のあるものだった。臨は、気付いてしまったのだ。
何度も繰り返し読んだ数行のこの文字の中に、自分たちの名前が隠されていることを。
この中に、一緒に生まれてくるはずだった片割れの名があるのだと。
感傷に浸りそうになり、慌てて臨はその紙片を元のように折りたたんだ。
今はそんなときではない。
臨はジーンズのポケットにそれをねじこもうとして、ぎくりとした。
影が。
床に影が落ちている。
ベランダから差し込む月明かりの青い光が影を生んでいる。
屈みこんでいる自分のシルエットの上に覆いかぶさるようにして、なにかが重なって──
「──」
なにかがそこにいる。
背後に立つ気配。
ちり、とうなじが強張った。
凍りついたように、臨はそこから動けなくなった。
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