9


 長いため息の後に透子は言った。

『心配してたのよ』

「分かってるよ。ごめん」

 電話の向こうの声はいつものように静かに言った。数時間前に会った時と変わらない声で、透子は臨の身を案じていたのだと告げた。

『無事ならそれでいいんだけど、何度掛けても繋がらなかったから、どうしたのかと思って』

 言い訳を臨はとっさに口に乗せた。

「雨で、携帯ちょっと濡れちゃって、それで調子悪かったみたいなんだ」

 もう大丈夫だからと言って、臨は月明かりで薄青い部屋を見渡した。

 どこかに、先程の痕跡を探していた。

 何もない。

 なぜだ。

『ご飯食べた?』

「食べたよ。透子さんは?」

『うーん、まだ?』

 笑いを含んだ返答に、知らず臨の声にも微笑が混じった。

 視線だけは忙しなく部屋を行き交っている。

「なに、それ」

『忙しいからつい忘れちゃうのよね』

「ちゃんと食べなよ。俺の心配はいいから」

『リンの心配は私の日常でしょ』

 それは当たり前だと透子は続けた。

 リビングと続きのキッチンに行く。視線を落とすと、流しの中には汚れたままの食器がそのままに重なっていた。皿の中に残っていたパンの欠片が乾燥して硬くなっていた。

『一緒に住んでた時は帰ったときの部屋の空気でリンがどうしていたかなんてすぐ分かったのよね。食べ物の匂いとか、色んなもので。でも今は離れてるから。余計に心配になるのかも』

「そうかな…」

 指の先でそれをつつく。ぽろりと剥がれて落ちた。鈍く光るステンレスの流しに、乾いた水滴の痕が水玉のように散らばる。

『じゃあもう遅いから、明日…あ、もう今日ね、講義あるんでしょ』

「…今日?」

 透子が微かに笑った。

『…なに?もう日付、変わってるわよ』

 なにかがすっと、首筋を舐め上げていった。

「……ッ!」

 弾かれたように臨は振り向いた。

 何もない。

 ただ、そこにあるのは見慣れた自分の部屋だ。

 けれどどこか──なにかが。

『どうかした?』

「なん、でもない…」

 動悸が速くなる。

 なんだ?

『じゃあおやすみ──リン』

 通話は切れた。


 ***


 足下を見なくとも──柔らかな空間の壁に、己の足が飲み込まれていくのが分かった。

 烏鷺は切り込んだ姿勢を保ったまま、その足を引き抜こうとする。だが、力は霧散して、ことごとく柔らかな境界に吸い込まれていった。

「無駄だ」

 オルカは言った。

 この足はもう動かない。

 捉えられた。

 烏鷺の瞼のない目が、ぎょろぎょろと思考に合わせて左右に揺れていた。

「おまえは──」

 憎々し気に烏鷺が言った瞬間、オルカは手首を返して刃の向きを変えた。月凪を下げ、脇に寄せる。力の受け口を失った烏鷺の剣が大きく傾ぎ、それをオルカは自分の肩で受け止めた。切っ先が肉にめり込む。焼ける痛みを食いしばって耐えた。オルカの肩から刃を抜こうと烏鷺は動かない足で体ごと腕を引こうとする。

 今だ。

 オルカはそれを逃さず、烏鷺の腕を下から返した月凪で跳ね上げた。

「ぐああっ…!」

 両者の胸に血が飛んだ。

 生温かな血が口元を濡らす。

 オルカはそれを舐めた。

「オルカゲイン……!」

 烏鷺の右腕の肘から下が、皮一枚で繋がったままぶら下がっている。

 ゆらゆらと揺れるその手には、赤黒い刃が固く握られたままだった。アシラと呼ばれる蛾梟の炎だ。だが今はそれを食らった烏鷺のものとなっていた。

 自分の分身とはいえ、こいつは本当にその身に取り込んだのだ。

「ふ、ふふ…」

 声が漏れて、自分が笑っているらしいと自覚する。

 両膝をつき痛みに呻いていた烏鷺が苦々しく歪めた顔を上げた。

「何がおかしい…」

 その顔をオルカは見下ろした。

「ずっと、このときを待っていた。おまえには聞きたいことがある」

 舌先に広がる濃い血の匂い。

 ──私のもの。

 そう、私の血だ。

 不死の味だ。

 オルカは言った。

「さあ、借りを返してもらおうか」

 

 ***


 通話の切れた携帯を耳に押し当てたまま、臨は部屋を眺めた。

 携帯を握り締めたままの指が動かない。強張った腕をそろそろと下ろして、手の中のそれに視線を移した。

 側面の小さなボタンを押すと、白く強い光の中に現在時刻が表示される。

 午前2時26分だった。

 その下に表示された通知の羅列をスクロールする。バイト先からの幾度の着信履歴、友人からのメールと着信、大学関係の連絡網。知らない内に届いていたそれらは長く積み重なっていた。

 留守録がひとつ通知されている。再生してみるとメールを寄越したのと同じ友人から、早朝にバイト明けの仮眠をさせて欲しいとの申し出だった。着信は22時。返事をするにはいい加減遅すぎる。

 午前、2時?

 変だ。

 おかしい。

 いつ、そんなに時間が過ぎていた?。

 なにが…?

 それは一瞬だけ手の先に触れてするりと消えた違和感だった。  

 臨はもう一度携帯の画面を見つめた。

 オルカが眠りから目覚めたとき、時刻はまだ21時になろうかというところだった。あれから食事を摂り長く話をしていたが──

(満月が来て、それで)

 それからのことを臨は思い出した。

 あの時、自分は確かに見ていたはずだ。

 揺れだした部屋の中、崩れた本の山、傾いた棚、そこから落ちた置時計。

 時間を目にしたはずだ。

 大きな音がして咄嗟に目を向けた。あれは…

 目の奥に浮かび上がる景色。

(あれは、22時半)

 針は22時半を指していた。

 あの男と対峙したのは僅かな時間だった。どうしてそれで、あれから4時間も経っているのか。

 キッチンの流しの中は乾ききっていた。夕方食事を作ったという痕跡はどこにもない。けれどベッドの傍のローテーブルの上には確かにオルカが食事をしたそのままになっている。

 なにもかもがちぐはぐだ。

 先程までいたあそこは、ここではない。

 しかしあの場所で起きたことがこの場所でも同じように起きている。

 ここは、どこだ?

「…」

 深く息を吸い込んで臨は自分に落ち着けと言い聞かせた。

 落ち着いて考えろ。

 大丈夫だ。

 ふいに、ごとり、と壁際の棚から本が一冊抜け落ちた。

「え…」

 手さえも触れていないそれから、ばさばさと何冊もの本が落ちていく。

 落ちた本の表紙が窓から差し込む月明かりに晒された。

「──」

 臨はそれを見て、ぎくりとした。

 赤い──

 本は滴るほどの血で濡れていた。


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