8


 交差する刃の向こうで男の目が燃えていた。オルカの陽炎の刃を、赤黒い血色の剣が押し込む。圧倒的な体格差の体重をかけられて、踏ん張るオルカの足が床をわずかに滑る。

「──何をした」

 男は憎々しげに言った。

「何も」

 オルカが先ほどつけた男の首の傷跡はまだ薄く開いているが治癒の兆しを見せ始めていた。

 ならば狙い通りだったというわけだ。

 読みが当たったとは思わなかった。幸運だっただけだ。そうだ。運が良かっただけ。

 だがそうだとしても、その機会を引き寄せられた。これで僅かにも前に進むことが出来る。このことが布石となったことに間違いはない。

 低く満月の男が唸った。

「あいつをどこにやった」

 オルカは口の端を持ち上げた。

「さあな」

 窓の向こうに消えた姿。

 告げた言葉が、臨に伝わったことを願うしかない。

 踏み込んだ足で陽炎が揺れた。陽炎には名があった。月凪、オルカの手から生れた炎だ。それはいわば分身だった。

 男の鼻先まで押し返し、そこで力が五分となる。

 視線が絡み合う。

 知られるにはまだ早い。

 悟られるな。

 いずれ、まだ。


***

 

 ベランダの窓を開けて臨は部屋に入った。しんとした暗い部屋の片隅で何かが点滅している。流し台の端、放り投げていたそれは携帯の、着信を知らせるものだった。

(なんで)

 雨に濡れたそれは壊れていたはずだ。一度電源を入れたときには何の反応も示さなかったのに。乾いて、復活したのだろうか。

 近づくと待ちかねていたかのように再び鳴り始めた。

 覗き込んだディスプレイに表示されていたのはよく知る人の名前だった。恐る恐る手を伸ばして、深く息を吸い込んでから、臨は通話ボタンを押した。

「…はい」

 耳元に押し当てて、リン、と呼ぶ声を待った。


***


 義兄の蒔いた種子はシイの混沌の中で人々の狭間の奥深くに根づき、花を咲かせた。

 やがて実となり再び大地に落ちて、役立てるそのときを待っていた。

 時は巡り、花は再び咲き、人知れず群生となり──

 それはいつしか「青き蚩尤しゆうひづめ」と名乗るようになった。

 彼らは決して表には姿を現さなかった。道端に根付く雑多な花のように目立たず、暗躍した。

 ひたすらに闇の中で──皇帝派、反皇帝派、共和派の中に身を委ね、内側から仕掛け、内紛や内戦を引き起こした。

 総数も知れぬ彼らを束ねるのはたったひとり、ザルドと呼ばれる人物だ。

 それが本当の名なのか、正体は未だ掴めていない。だが、その手足となって動く者たちは度々自らを追わせるのが目的であるかのように姿を垣間見せた。

 オルカがこの男を最初に見たのは、噴出した鬱憤を晴らすことを目的とした戦場でだった。

『おまえがそうか──お初にお目にかかる、我らが愚鈍なる皇帝の犬』

 そう言って犬の鳴き真似をした。

 それがはじまりだった。

 怒りを捻じ曲げられ、矛先を摩り替えられ、真相を巧く丸め込み仕向けられた衝突。周到に仕掛けられた幾つもの罠の中、その男は後手に回るしかない自分をいつも砂塵の向こうから、薄闇の暗がりから、嘲笑めいた嘲りを見せて姿を現した。あと少しと言うところでいつもこの手をかわされた。

『オルカゲイン』

 一度だけ対峙したあの日、男は嗤いながら名を呼んだ。

 忌々しい。

 次はお前の肉を楽しみにしていると、男は言った。

『不死の肉は格別だと聞くからな』

 こだまするあの声を忘れたことはない。

 多くの命が失われた。死なせずに済む者も多くいた。その全てを負っていくと始めから決めていた。

 そのときは必ず来る。

 間違えるな。

 近づけるそのときを。

 自ら目蓋を切り落とした長身の男。

 その男は今、オルカの目の前にいた。

 名は烏鷺うろ──

 我が同胞を使って皇帝を手に掛けた、ザルドの右腕。



「…っ」

 圧倒的な体格と力の差を、陽炎が月凪が埋めている。押し返す腕に力を込めた。お互いの鼻先を掠める交えた刃が拮抗する。どこまで持ちこたえることが出来るだろう。まだ、ここで逃がすわけにはいかなかった。

 まだだ。

(まだ)

 あと少し。

「なぜだ」

 喉の奥から絞り出す烏鷺の声は酷く歪んでいた。鷹揚に構えていた上辺は見事に剥がれ落ち、怒りは剥き出しになっていた。

「どこにやった…!」

「さあ、どこだろうな」

 からかうように囁いた。

 相手が激高するほど気持ちが静まっていく。しんとした胸の奥で窓の外に追いやった臨の顔が浮かんだが、烏鷺を見据える目に力を込めてそれを消した。考えるな。裸足の足の裏で踏んだ破片がちりちりと皮膚を突く。しかしそれだけだ。

 痛みなどない。

「どこだ!」

「…っ!」

 ギッと互いの刃が垂直に擦れ合う。オルカは奥歯を食いしばった。それはほんの些細な均衡の崩れで終わるものだ。

「…その姿で、どこまで耐えられるのか見ものだな」

 口の端を吊り上げて烏鷺は面白そうにオルカを見下ろした。月凪ごと両断する勢いで烏鷺が押し込んでくる。その刃と十字に交えた月凪を押されるごとにオルカは渾身の力で押し戻した。オルカの細い腕に筋が浮いた。

「く…!」

 のしかかるように体重を掛けられて腰が沈んだ。月凪を構える両腕が小刻みに震え始める。やがて全身が震え始めるのは明白だ。オルカは腹に力を入れて踏みとどまる。

「どうした、体が引いているぞ」

「そうか?」

「沈んでいる」

 さらに抑え込まれる。

「限界なんだろう?降参すればおまえを可愛がってやるよ」

「っ、笑わせる…!」

 自分の流れに持ち込もうと挑発めいた言葉を烏鷺は繰り返した。だがそれに乗るわけはない。

 一歩も引かない駆け引きにうんざりしたのか、烏鷺が舌打ちをした。刃を垂直に擦り合わせたまま一気に横に薙いだ。

「そこをどけ!」

 閃光が走る。その勢いに月凪ごと持っていかれそうになった。オルカは瞬時に逆に手を払い、その力を殺ぐ。火花が飛んだ。ふり乱れた髪を焦がす。

「っ!」

 脇の空いたオルカの左を烏鷺は正確に捉えて刃を振り下ろした。体勢を立て直す間もなくオルカは半身を捻ってすんででかわす。下ろされた切っ先が深く床に突き刺さった。

「チッ…!」

 鬱陶しそうに烏鷺はそれを引き抜いた。

「オルカゲイン」

 肩で息をして再び行く手に低く月凪を構えなおしたオルカを一瞥し、ゆらりと足を踏み出した。

 その足が、血を踏んだ。

 視界の端でオルカはそれを捉えた。

 それは烏鷺自身の血だ。オルカガ首筋を切りつけたときに飛んだものだ。

 ざり、とガラスの破片を踏み砕く音がする。引き抜いた刃が再び振り下ろされ、オルカはそれを肩膝をついた姿勢で受け止めた。

「く…!」

 重い。視界がぶれる。衝撃に沈みそうになるのを耐えた。床についた膝が悲鳴を上げる。月凪の揺らめきが斬圧で広がって燃え上がり、烏鷺の顔の輪郭を撫でて焼く。

「邪魔だ」

 見下ろす目を見上げ、その瞳孔の奥に燃えるものを視認する。

 そう、そうだ。

(もっと)

 もっと。 

 

「もう終わりだオルカゲイン」

 喉の奥から嗤いを含んで烏鷺は言った。

「そうか?」

 自嘲するオルカの声に烏鷺は眉を上げた。

「自分で分からないようでは始末に負えんな」

「おまえには…どう見えるんだ」

 さも珍しいものでも見たように烏鷺は目蓋のない目を眇めた。

「防戦一方では何も出来まい」

 余裕のある口ぶりが戻っていた。ぐっと腰を屈めてくる。痩躯のその体からは考えられないような自重をかけられ、オルカは歯を喰いしばった。口の端が切れて血が滲む。烏鷺の後ろに撫でた長い髪がばらばらとその額に落ち、近づいた両者の顔の間で揺れている。

「お前はここまでだオルカゲイン」

 首を伸ばし、髪越しに烏鷺は囁いた。

「あれは我らが手に入れるべきものだ。我ら蚩尤の蹄こそが、ふさわしい」

 舐めるような視線でオルカを嘲笑う。

「どこに隠そうともいずれ我らの手の中だ」

「そうだな」

 とオルカは言った。

「だが、それはお前も同じだ」

「──なに?」

 その瞬間オルカは壮絶に笑ってみせた。

「手の中にいるのは、おまえも同じだ」

 弾かれたように烏鷺が顔を上げた。

 臨の消えた場所を、思い出したように目を向ける。

「お前はもう

 そこはすでに壁となっていた。

 いや、はじめから、そこは烏鷺にとって壁であった。

 在るべきものが何もかもなくなっている。空間が奇妙に歪んで見えた。青白さだけはそのままに、奥行きだけが引き延ばされている。烏鷺は侵入口を振り返った。壁だ。なにもない。何もかもが消えている。薄い膜を張ったような外界との境目がわずかに透けて見えるだけだ。

 部屋の痕跡は見事に消えていた。

 ただの青白い箱。

「…っ!ふ、ざけた真似をおおおお!」

 これは偽物だ。

 どこかに行ったのではない。

 オワセノゾミはどこかへ行ったのではない。

 こここそが別の場所だ。

 別次元、歪んだ場所、取り囲まれた空間。なんでもいい、この術式には覚えがあった。しかし、これをオルカが使える筈がない。何故だ。なぜ。思考が空転する。この皇帝の犬は用意周到にこの時を狙っていたに違いない。

 いつから──いつからだ。

 どこからすり替わった。

 まさか──

 はじめから?

 底知れぬ違和感がこみ上げてくる。

 どこにそんな力が残っていたというのか。

 この能力はどこから来た。

 この力はこいつのものではない。

 これは──これは。

「おのれ…よくも、愚弄してくれる…!」

「気に入ったか?」

 唸り声を上げて烏鷺は意識を集中した。凄絶とも言える笑みを口元に湛えたそれを眼下に見て、瞬間、何かが弾け飛んでいくのが分かった。振り切れた怒りが激高していく。抑えられない。腹の底が燃え上がる。

 まるで火のように包まれる。

「オルカゲイン…!貴様──」

 そして悟った。

 おびき寄せられたのは、己の方だと。



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