7
「悠々のお出ましだな」
オルカが言った。
ざり、とガラスの破片を踏みつける音がした。
臨にはその足先だけが見えた。
「まあな。出がけに鼠を一匹退治していたのさ」
喉の奥で嗤っている。
オルカが臨の体から離れた。臨を背に庇う体勢を取る。体を起こした臨は顔を上げ、オルカの肩越しにその姿を見た。
「──」
これが本体。
そこに立っているのは三日月――あの蛾梟ではなかった。よく似ている。けれども、別の何かだ。
同じ顔をした別人。それがなぜなのか、臨は分かった。
目が違う。
それは人の目だった。
大きく見開かれた満月のような目。それを見て違和感が募る。なにかが欠けている。そこにあるべきはずのものがない。
目蓋。
目蓋がない。
「なるほど…六吏とはほど遠いようだ」
物言い顔で満月の男はオルカを面白そうに見下ろしていた。
「それか」
目蓋のない目を臨に向ける。舐めるようなその視線に、悪寒が背筋を駆け下りた。
オルカが後ろに手を回し臨の手首を掴んだ。
「皇帝が長きに渡りひた隠してにしていたものと聞いていたが…まあやはり、ただの入れ物か」
入れ物、という言葉に臨の頭からゆっくりと血の気が引いていく。
オルカの言ったように、自分は彼らにとって六吏の目の外殻としてしか認識されていないのだ。臨の存在や意思などというものはそこには存在しない。ただの入れ物であり、人と思われていないのだと理解した。
しかし彼らは知らない。
この目を奪うことで終わるのだと思っている。
臨そのものが六吏の目だということを、知らないのだ。
「さあ渡せよ、オルカゲイン」
間合いを詰めることなく、声を低くして満月は言った。
名前をわざわざ全て言うのは威圧するためか。
自分の方が上だと知らしめたいのか。
「断る」
男はにやりと笑った。「今のお前に何が出来る…そんな姿で。あ?」
それは前に蛾梟との間でも交わされたやりとりだ。
あの時オルカは左腕を落とされた後だった。今はその腕も再生し、臨の腕をしっかりと掴んでいる。臨はそれを見下ろした。
(左を失ったお前など──)
容易い、と蛾梟は言った。では今は?
もしもオルカが退行した子供の姿ではなく、元に戻ったとき、その力は彼らよりも上なのだろうか。
オルカの手は温かかった。
掴まれた場所から流れ込んだ体温で、いつのまにか震えが止まっていることに気付く。
ああ、と満月は思い出したように言った。
「土産をどうも。蛾梟によれば、お前の肉は随分と旨かったらしいぞ?不死者のそれは格別だと聞くが、どうやら本当だったようだな。もっとも、蛾梟には勿体なかったがな」
「──何をした?」
満月のように見開かれた目が、ぐにゃりと歪んで可笑しそうに笑った。
「喰ってやった。我に渡すよりも先に我慢できずにおまえの肉を喰ったのだからな。我から生れ出た傀儡の分際で。許せるものか」
蛾梟を食べた、と言った。
あれを、と想像しそうになって臨は吐き気が込み上げてくる。
気分が悪い。
「下衆が」吐き捨てるようにオルカが言った。
「おまえも最早人ではない」
「それはお前も同じだろうが?」
ふふふ、と相変わらず笑ったまま、その言葉に余裕さえも見せて満月はオルカを見下ろしていた。
ふいに割れた窓の外から車の走り去る音が聞こえ、臨は眉をひそめた。
いつもの日常の音がする。
何か、おかしかった。
こつこつと聞こえた足音が破壊された玄関の前を通り過ぎていた。
破れたドアから見えるそれは隣人の女性で、一目で仕事帰りなのだと気がついた。その人はこちらをちらりとも見ずに歩き、やがて隣室のドアの開く音がして、ばたん、と閉まる音がした。まるでいつものように。
何事もないかのように。
あれだけの激しい音がしたのだから誰か駆けつけてきてもよさそうなものだ。それこそマンションの住人がやってこないのはおかしかった。
(見えてない?)
何も、誰も、気付いていない。
薄い膜があるように。
この場所だけが世界から切り取られている。
そういえばこの男はどうして、こちらから入って来たのだろう?
ベランダの窓は割れたのに。
「おしゃべりは終わりだ」
ガラスの欠片を踏む音がした。
瞬間、間合いを詰めた満月の右手が臨に伸びる。反射的に身を引いた臨の肩に触れる寸前、ぴたりとその手が宙で止まった。
「動くな」
ひやりとしたオルカの声が響く。
満月は目だけを動かした。
喉元に突きつけられた陽炎の切っ先が、深く、浅黒い皮膚のにめり込んでいる。
「臨に触るな」
臨と男の間で、オルカはゆっくりと前傾した。満月の首筋に当てられた陽炎の刃が食い込み、血が滲む。オルカは掴んでいた臨の手首を離した。臨はオルカの意図を読み取って、満月の届かぬ場所に移動する。窓から差し込む月明かりが、砕け散ったガラスの粒子に反射して淡く光っている。靴底にそれを踏む感触にざわりと鳥肌が立った。
「それで?」
と満月は言った。
「おまえが炎を纏った犬なら、勝算はあっただろうな」
「荷が重いと?」
「今のおまえはただの兎に過ぎない」
満月の赤い舌が唇を舐めた。
「我に…食われたいのか?」
口の端を吊り上げて満月は嗤った。血が筋を作って流れ落ちる。
「ごめんだな」
言いざまにオルカが陽炎をそのまま横薙ぎに払う。同時に満月が飛びすさんだ。一瞬オルカのほうが早い。肉に食い込んでいた切っ先がざっと真一文字に皮膚を切り、鮮血が飛んだ。床やオルカの白い足の甲に、直線を描いて赤い血が落ちた。
「成程」
狭い部屋の壁際で満月は腰を落として構えていた。
後ろに流していた満月の長い髪が、わずかに乱れ額に落ちていた。
気がつくと目の前にオルカの背があった。ベランダに背を向けて立つ臨のすぐ傍にいる。いつの間に、と思う間もなく、再び臨の手を掴み自分の後ろへと導いた。
満月との間に青白い光が斜めに差し込んでいる。満月は首元から滴り落ちる血を無造作に拭うとゆっくりと腰を上げた。
振り払われた手から落ちた血が、男が引き倒した棚から落ちた
本の上に赤い染みを作った。
波紋のように広がっていく。
それはいつか透子が買ってくれた本だ。
臨、と声がした。
「ゆっくり後ろに下がれ」
こちらを見ずに臨にだけ聞こえるようにオルカが言った。
「え…?」
咄嗟に臨は聞き返していた。
「そのまま外に出るんだ」
後ろを振り返る。ガラスの弾け飛んだ窓枠が捩れて斜めに傾いている。ガラスの破片は部屋中に散り、床に降り積もり、月明かりに照らされて、雪のようにうっすらと光を放っていた。
後数歩下がれば、ベランダに足を踏み出せる。そこを外だと言うのなら。
「どこに行く?」
指に付いた血を舐めていた満月がおかしそうに臨を眺めた。
「どこに行く気だ?オワセノゾミ」
「──」
名前を呼ばれ呼吸が苦しくなる。オルカが掴んだ手に力を入れてきた。痛むほどのその強さに、心が持っていかれるのを止められたのだと思った。
「臨」
鋭くオルカは言った。掴んでいた臨の手首を解く。
「私の声だけを聞け」
臨はぎこちなく後ずさりする。張り付いた足を引き剥がすのに手間取る。
「おい、目の前の獲物をみすみす逃がしてやるとでも、本気で思っているわけでもないよな?」
喉を鳴らした満月が壁際からゆらりと離れた。今にも眼窩から落ちてきそうな双眸は、笑っているはずなのに笑っていない。絡みつくような視線を臨によこし、両手を広げ、鷹揚なしぐさで前に出る。
「本気か?オワセノゾミ。そこから出られるわけがないだろう?」
「え?」
その言葉に臨は動きを止めた。
──出られるわけがない?
「オルカゲインを置いて、おまえは行くのか?」
「俺は…」
「こいつはおまえを命懸けで守ろうとしているのに」
「──」
「臨!」
オルカが叫んだ。
「行け!」
どん、とオルカが臨の胸を押した。その一瞬、オルカの囁きが耳元を掠めた。言われた内容を飲み込みきれず手を伸ばしたが間に合わなかった。振り向きざまに踏鞴を踏んだ足がもつれ、体が後ろに傾いた。柔らかな何かに一瞬抱き込まれ、そのまま背中からベランダのコンクリートへと叩きつけられる。
(え)
「っ!」
肩がベランダのアルミ柵に強く当たった。痛みに呻き、ずり落ちた肌に当たるその冷たさに、臨は我に返った。
今のは何だ?
何かをすり抜けた。
柔らかな何かを。
臨の体は完全に一メートル足らずのベランダの中に投げ出されていた。
咲き乱れる花の匂いが傍を掠めた。
「──オルカ!」
臨は窓に自分の両手を叩きつけた。
そして違和感を覚えた。
冷たい、ガラス?
そこには顔がある。
ヒビひとつ入っていない窓ガラスに映るそれは、紛れもなく自分の顔だった。
ベランダの窓はどこも割れていない。
その向こうには青白い部屋が見える。
ローテーブルの上に並べた食器がそのままになっている。
なにもない。
部屋中に散ったガラスの破片もない。
満月も。
オルカも。
どこにもいない。
「嘘…」
見開いた目に、自分の上着に付いた細かな粒子が乱反射する。割れた窓ガラスの破片だ。
夢ではない。
ではあれは、どこだったというのか。
そしてどこに行ってしまったのだろう。
ここはどこだ。
どこに──
「どこだよ…オルカ?」
声は闇に溶けた。
焦燥が背筋を駆け下りていく。
夜半の風は身震いをするほどに冷えている。
手首に残っていたオルカの体温は冷たい風に消えていった。
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