6
「死んだ子供の中には義兄の残滓があった。そのことは番人が確認している」
ゆっくりとオルカは言った。
「おまえが
「俺が?」
ぞくりと鳥肌が立った。
得体の知れない恐怖がひたりと足下から這い上がってくる。
オルカが臨の目を見据えて言った。
「六吏の目はおまえの中にある。巫女の能力のすべてを、おまえが受け継いで生まれてきた」
「……そんな──そんなの」
俺が望んだわけじゃない。
三日月の言葉が過る。
(なぜ守る)
(我らの目的は同じはずだ…)
「俺をどうするんだ、きみは俺を…」
「殺すとでも?」
臨の言葉を遮って、オルカは言った。
「あいつはオルカも自分と同じだって言ってた」
「同じではない。目的が同じと言っただけだ」
「それって何が違うんだよ、俺を生かしても殺しても何も変わらないってことだろ?だったら──」
誰も手っ取り早い方を選ぶ。
臨の言葉の先をオルカは否定した。
「シイの運命はおまえの命そのものだ」
「──」
「おまえが死ねば私が生きている世界も、そこで暮らす多くの人々も死ぬ。跡形もなく消滅し、おまえが生きるこのセンも何らかの影響を受けるだろう。我々は文字通り神を分け合って生きる者だからだ」
臨は動けなくなった。手を強く握りしめる。言われたことの意味を飲み込もうとオルカをただ見返した。
緑色の目が臨を貫く。
「おまえには、なんとしても生きていてもらわねばならない。そのために私がいるのだから」
震えそうになる声で臨は言った。
「きみはなんなんだよ…」
「私はおまえを護る者だ」
静かな声でオルカは言った。
「長く、わがシイの皇帝はおまえを護ってきた。六吏の目が臨としてセンに生まれた時からずっと、おまえの存在を隠そうと、皇帝は双環の境界を封印してきた。けれど、それももう出来なくなる」
いったん言葉を切り、オルカは一瞬息を吐いてから臨を見た。
「皇帝は今死の淵にある」
「え…?」
「一命は取り止めたが、それも長くはもたない」
それはつまり、皇帝とは──
「神の半身は間もなく死ぬ。我々の同胞が手引きをし、暗殺にあった」
ふたつに分かれたうちのひとつが死にかけている。
どこかで聞いた話だと臨は思った。
自分のことによく似ている。死んでしまった片割れ…
「我々シイは長く続く混乱の中にいる。今もそうだ。六吏の死は、皇帝の死も同然だった。世代を引き継げないのだから、当然だ。皇帝の世に終わりが見えたことでシイは混迷を極めた」
オルカは言った。
「当初は皇帝を世に繋ぎ止めようとする者が大半だったが、その中で皇帝を廃する声を上げ始めた者達が反皇帝派となり、皇帝派と争いを続けている。戦況は混乱を極めているが、そこにシイを出る前に義兄が根付かせた種子が芽を出し、この機に乗じてシイを、ひいては双環を──センまでをも手中に収めようとする者達が動き始めた。奴らはその目的のため、義兄がセンに持ち込んだ六吏の目を捜し続けていた」
それこそが義兄の狙いだったのだ。
彼は、自分の意志を継ぐ者達が蠢きだすのを待っていた。
時が満ち、種が芽吹くのを。花を咲かせ、実を結ぶのを──
そして、百五十年の時を待たずして、シイの皇帝は忠実なる義兄の種子によって殺されかけた。
笑っている。
今このときも。手が届くほどの、すぐそばで。
オルカは臨の目をまっすぐに見つめた。
「皇帝を手に掛けた者はついに悲願だったおまえの居場所を突き止めた。そして手の者を送り込んできた。それがお前を殺そうとしたあの者だ。三日月の目を持つ──名は
臨はオルカの目が僅かに揺れるのを感じた。
「皇帝が死に直面している今、シイの存続はおまえの中の力だけが握っている。失われた神を繋ぎ止めるため、世界を神に代わって手に入れるために、その能力を我が手にとそれを望む者たちがおまえを狙っている」
臨の背筋を悪寒が走った。
「きっと信じられないだろう。このセンに我々と同じ能力を持つ者は番人だけだ。今まで何事もなく生きてきたおまえが、私の話を信じられないのもよく分かっている。それでも」
オルカの手が伸ばされ、臨の指に触れる。
「それでも私を信じて欲しい」
存在を確かめるように温かなものがかすめてゆき、臨は呼吸することを忘れた。
「私がおまえを護ってみせる。必ず」
触れるだけで離れていった指先を視線が追いかけた。
「俺には何の力もない」
ああ、とオルカは言った。
「分かっている。今はまだ──」
溜息のようにそっと落とされた言葉は、次の瞬間轟音に消えた。
ベランダに面したガラス窓がびりびりと細かく震えた。部屋中の物ががたがたと音を立て始める。本の山が崩れ、棚の上のものがいくつも落ちてくる。大きな音を立てて時計が落ちた。
玄関のドアが異常な音を立てて軋む。
次の瞬間、がんっ、と下から突き上げる衝撃と同時に、部屋の明かりが落ちた。
「来たな」
オルカが立ち上がり、ベランダへと向く。薄く開いたカーテンの隙間から青い月明かりが差し、オルカの輪郭を照らした。
「臨、私の着衣を」
背を向けたまま言うオルカに臨は頷き、浴室へと走った。乾燥機に放り込んだままだったオルカの衣服を掴み出し、居間へと駆け戻る。
オルカは服を脱ぎ落していた。
背を向けているとはいえ青い闇の中に浮かびあがる人形のような肢体に臨は声を失くした。
剥きだしの肩先の白さに、なぜか足が震えた。
素早く受け取った服を身にまとい、ベッドの上に放ってあった臨の上着を投げて寄越した。
「着ろ」
頷いて臨は袖を通し、なぜか思いつくままに玄関に靴を取りに走った。それは予感だったのだろうか。
オルカがカーテンを引き開けた。
その手が揺れるガラスに触れた。
指先が、つうっと上から下に撫でて下ろされていく様子を、臨は部屋の入り口から見つめていた。オルカの息が窓を曇らせて、一瞬文字のようなものが浮かびあがり、消えた。小さな声でオルカが何か言ったような気がした。
「臨」
オルカが振り返る。
窓には輪郭のぼやけた月が浮かんでいる。その月はオルカの肩の上にあった。
夜の闇だ。
オルカが手をかざすと、がたがたと震え続ける窓はゆっくりと静まっていった。
「蛾梟の本体が、私の餌に食いついたようだ」
「逃げよう」
オルカは首を横に振った。
「いや、ここで迎え撃つ」
顔の表情は逆光で見えない。
臨、とオルカが言った。
「もしも私と逸れひとりになった時は、いつでも私の名を呼べ」
「なんで、今逃げればいいだろ」
臨はオルカの腕を握った。
「一緒に──」
「臨、忘れるな。私はどんなことがあってもおまえを生かしてみせる」
自分の二の腕を掴む臨の腕をそっと引き寄せて、その耳元にオルカは囁きを落とした。
「私の…──」
誰にも聞こえないような小さな声が耳朶を掠めた。
「…え?」
覗き込んだオルカの瞳に自分の顔が映っている。
オルカにも、同じように自分が見えているのだろうか。
「今、なんて」
金属の砕ける悲鳴のような音がした。振り向くと玄関のドアが外側から圧力をかけられたように大きく撓んで歪んでいた。ぎしぎしと蝶番が軋み、上方がひしゃげ、隙間から外が覗き見える。
アパートの外廊下のくすんだ光が漏れる。
そこから覗き込む目がにたりと笑った。
「オルカ!」
臨が叫ぶと同時にベランダの窓ガラスが粉々に砕け散った。全身に破片を浴びる。桟が捩れ内側に倒れこんでくる。細かな粒子の舞う部屋が舌を噛み切りそうなほどに揺れる。
臨は立っていられなくなり、膝をつき床にしがみついた。伏せる背に何かが覆いかぶさってきて、はっと臨は目を開けた。
「オルカ…!」
「動くな」
鋭く制されて身動きすることを封じられる。細い腕が自分の顔の真横に突かれた。重さを感じ、体重をかけられていた。オルカはその全身で臨を護っていた。
玄関ドアが外向きに弾け飛んだ。
気配がした。
うなじが逆立つ。
そこにいる。
「ようやくだ」
奇妙に掠れた声が、感嘆とも嘲笑ともつかない声を上げた。
「また会えたな、オルカゲイン」
ぞっと、全身が総毛だった。
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