第59話:終わりの時は突然に

 人ひとりがちょうど入れる洞窟。源泉の取り口はまた違うので、ここに水路はない。

 昼間でも真っ暗な。けれどもエルモに照らされた中が、懐かしく思える。人狼を追って入ったのは、何年も前みたいだ。

 ――また入浴中だったらどうしよう。

 前のときは、彼女の全裸を見てしまった。と言っても狼の姿だったけど。

 そうは言っても、話さなければ。できれば天使さまとももう一度。

 ちょろちょろと流れる湯は、変わらず湯気を上げていた。


「また覗きに来たの?」

「またって、そんな」

「またでしょ?」


 温泉に着くと、ホリィは手拭いで髪を撫でていた。人狼でなく、人間の姿だ。

 湯気のせいか、きちんと身体を拭かなかったのか、衣服が濡れて張り付いていた。


「今はホリィなんだね。天使さまは、もう帰ってしまったのかな」

「居るよ」

「そっか。じゃあお礼を――天使さま、ありがとうございます。解決した、かは分かりませんけど。僕はここに居られるみたいです」


 たぶん、入れ替わったりしなくても聞こえている。ほぼ確信して頭を下げた。


「約束したし、シンがやったことの結果だから気にするなってさ。それと、お礼ばかりしてたら侮られるって」

「それでも言いたいんです。ホリィもありがとう」


 やれやれと、ちょっと呆れた風にホリィは笑う。言われたそばからで、当たり前だけど。


「天使さんに伝わるって、よく分かったね」

「たぶんそうだろうってくらいだよ。獣化の治療薬を飲まないって、天使さまに何か影響があるからでしょ?」

「らしいよ」


 あれこれと世話を焼いてくれるホリィが、薬に関してだけ頑としていた。ずっと理由を考えていたのだけど、思いつかなかった。

 唯一は、実は僕のことを嫌っているとかだけど。どうもそうではなかったようだ。


「いつから?」

「天使さんが来たの?」

「うん、そう。ずっとそこに居るわけじゃないでしょ?」


 彼女は三年ほども前から、修道院に居ると言っていた。それに比べれば、僕が過ごした時間なんてまだほんの少しだ。

 二ヶ月にも満たないその期間の、いつ天使さまはやって来たのか。想像では、やはり人狼の姿を見たときだと思うのだけど。


「ハズレ、だってさ」

「ホリィも心を読めるの?」

「ううん。今のは天使さまが教えてくれただけだよ」

「そうなんだ。じゃあ、いつだろう」


 約束を守る為と言うなら、僕が来てからこちら。他にいつと思い付くタイミングはない。

 それこそ今日かとも思うけど、であれば薬を飲まなかった理由がなくなる。


「うぅん、分からない。ホリィ、教えてよ」

「三年前だよ」

「えっ、三年?」


 聞き返すと、首肯があった。聞き違いではないらしい。けれどもしかし、そうであれば計算が合わない。


「あははっ。何て顔してるのさ」

「いや、だって。えぇ? 三年前って、三年前だよ」

「そのまんまだよ、何言ってんの」


 理解が追い付かないだけで、真面目に言っているのに。今度は笑みもなく呆れられた。


「時間や場所。あたしやあんたは制約を受けることでも、関係ないんだってさ。シンとの約束を守るのに、あたしの身体が都合よかったみたい」

「へえ、そうなんだ――」


 神さまに仕えている人、ではなく天使が言うならそうなのだろう。でもそうすると、ホリィに多大な迷惑をかけている。


「ホリィには悪かったね。ごめん」

「えぇ?」

「だって僕の為に故郷から離れて、獣化の病までもらって。すごい迷惑をかけたなって」


 そう言うまで、いつもの僕がよく知っているホリィだった。なのになぜだか、とても悲しそうに視線を俯ける。


「えっ。あの、何か悪いこと言ったね。ごめん、何だろう」

「いいんだよ。知らないものは仕方ない」


 良くない。それは僕が、知らないで傷付けたということだ。僕は何を言ったろう。故郷を離れたのと、獣化の病と。

 故郷を想わせてしまったとか? それなら知らない、にはならない。

 ――するとまさか。

 どのタイミングだったか。ほんの一瞬、思いついたことはある。でもあり得ないと、すぐにその可能性を捨てた。

 それが真実だったのか。


「まさか。なんて言うのも失礼だけど、ホリィは獣化の病で狼になったんじゃなく。人間になってしまった……?」


 魔力を帯びた月閃鉱で、どうして獣になるのか。不思議に思っていたのだ。魔法の一種だから、と言われてしまえばそれまでだけど。

 影響を受けるのは全員でなく、その影響度も差が大きい。自然と戻る人が居れば、何年も戻れない人も居る。

 その答えは、月閃鉱の別名にあると考えた。


「願いの石、だから。ホリィ、君は人間になりたいと思ったの?」

「……そうだよ。あの日、あたしは川の水を飲んだ。そうしたら身体が灼けるみたいに熱くなって、気が付いたらこの姿さ。人間になりたいなんて、珍しいから興味本位だったのに」


 きっとその日は、たまたまマルムさんが月閃鉱を川へ入れた日だったに違いない。

 それからすぐ、天使さまがやってきたとホリィは言った。元の姿に戻るには、何年か先にやってくる少年に頼むしかないと。

 それで彼女は、この町へやってきた。記憶がないというのも、人狼と知られればどんな目に遭うか分からないからだ。


「人間より魔法と近い種族だから、姿が安定しなかったんだ。それを天使さんが落ち着かせてくれた。でも院長が石に魔力をこめるときだけは、元に戻っちゃったけどね」


 せっかく人狼に戻れたのに、魔術的中毒を癒やす温泉で抑え込む。どんな気持ちなのか、想像するに痛々しい。


「知らなくてごめん。見てるのが人間の姿だからって、それしかないと思ってたよ」

「種族が違うんだから、そんなもんだよ」


 未来を知りながら、右往左往する僕を助けてくれた。気丈に明るく、鼓舞してくれた。

 そんなホリィにできることは、一つしかない。


「お詫びにもならないけど、これ」

「これ、って」


 ずっと持っていた、獣化の治療薬。最初に四粒できたとみんなに言ったのは、ホリィの分を除いてだ。

 彼女には必ず飲んでもらいたくて、勘定に入れていなかった。それが今日まで渡せないとは予想の外だけど。


「ありがと。もらってくよ」

「もらってく?」


 その言葉には、僕の望まない意味が含まれる。だから聞くと同時に、ホリィの腕をつかもうとした。

 だけど彼女は、素早く身をかわす。

 もっと話したいことが、山ほどある。故郷の家族や仲間、生活のこと。何より、このまま町で暮らすことは出来ないか。

 だのに。彼女は洞窟の奥へ走り去った。


「さよなら」


 と、先入観も決めつけも入り込む余地がない。別れの言葉を残して。

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