第50話:人の意思を染める色
「みんな知っている通り、月閃鉱は聖印の作製に使う。他の装飾にも使うが、白く滑らかなそれを誰も見たことがあるはずだ」
礼拝堂を訪れた人に配布する聖印。どこかに工場があるわけでなく、すべて修道院の手作業で作られていた。
「メナの言ったように、彼女とダレンが調達してくれている。その量はこれまでどのくらいか、膨大に及ぶ。過去がどうであろうと、その尽力は否定されるべきでない!」
マルムさんが言ったのは、月閃鉱による家屋の装飾も然り。これまでの認識を口に出しただけ。
それでもすでに得た信頼が、素晴らしい院長という信憑性を上げてしまう。
「そうだ!」
「メナを疑う奴なんて、居やしない!」
などと、ダレンさんの声などなかったことにされた。
この町の人たちは、真偽を見る秤を壊されている。載せられたのは、重みなど全くない嘘吐きの羽なのに。皿に載せたのがマルムさんというその一点で、傾く仕組みに変えられている。
「メンダーナ!」
人々からの信頼で言えば、この人も相当だ。ダレンさんが建物を出て、メナさんに駆け寄る。
けれど多くの人たちに、行く手を阻まれた。
「ダレン。あんたがそんなことを言うとは思わなかった」
「マルムさまに疑いをかけるなんて、どういうつもり。証拠でもあるの?」
二人を会わせまいとしているわけでなかった。信頼する町の代表者を、貶したのが許せない。それだけだ。
今ならまだ、謝罪と訂正をすれば通してもらえるのかも。しかしダレンさんは、そうしなかった。
「あなたたちは! 愛する人が拐かされても、同じことを言えるのか! 俺のメンダーナがどうなっても、院長が正しいと言い続けるのか!」
「正しいに決まってるだろう」
「院長さまは、そんなことしない」
交わる兆しのない平行線。対話がそうでも、実態は違う。優れた戦士であるダレンさんを、たくさんの人が押し包んでいく。
斧を持っていなくて良かった。あの圧の強さでは、奪われて危険なことになったかもしれない。
でも殴り飛ばすこともできず、ダレンさんは抗する手段がなかった。
なぜ。どうして。正しい人間を貶すのか。それこそ証拠も確証もない感情で、人々は責め続ける。
――僕が。僕が言わなくちゃいけないんだ。ダレンさんは間違っていないって。
実はさっきから、何度も試みている。口を開きかけ、声を発するために息を吸い込むまではやっていた。
けれど、言えない。
マルムさんは悪だと。善悪なんて主観だと言うなら、まさしく僕の主観で悪者だと。間違いなくそう思っているのに。
――怖い。
指先と唇がほんの少し動くだけで、人間を昏倒させる。同じく間違っていないと言えば、俄に誰もが信じ込む。
何がどう、と。その怖さを紐解くのは難しい。ただ違いはと言えば明らかだ。
「おいダレン、何とか言ったらどうだ!」
「いや俺は――」
「まだマルムさまを批判する気!?」
何本かの腕が、逞しい肩や腕を突く。ダレンさんは黙って受け止めるだけで、マルムさんは困った顔を作って止める素振りがない。
同じ、ひとりの人間なのに。言葉の重みが違う。影響力というのか。
あいつは黒だと、ダレンさんが色を塗ろうとしても。マルムさんが白だと言えば、聞いたみんながその色に染まる。
持っている筆の太さが、まるで違うのだ。
きっと僕も、ダレンさんと同じことになる。それでいいのか、他にやりようがあるんじゃないのか。決めた手はずの変更を考え始める始末だ。
「シン」
寄り添うように、隣へ立つホリィ。僕の手を強く、ぎゅっと握る温かい手。
どうやら僕は震えていたようだ。触れている部分から順に、冷めた体温が戻るみたいに思えた。
「ホリィ?」
「私は知っています。君ならできるわ」
「えっ……」
いつも傍に居てくれるホリィ。見間違えるなどあり得ないその顔が動いて、聞き慣れた声を出した。
だけど別人としか思えない。どこかで会ったような違うような、知らないけれど知っている誰か。
今のはホリィが言ったのではないのか。疑い戸惑う僕の手が、そっと放される。
「院長、ちょっといい?」
「どうしたんだいホリィ」
「頼みがあるんだけどさ」
つかつかっと歩み寄って、マルムさんにカップが突き出された。ホリィの持つそれには、溢れんばかりに液体が入っている。
それが何かなど、僕には考えるまでもない。
「これを飲んでみてよ。別に毒とかじゃない、そこから出てる温泉の湯だよ」
「急にどうしたね? さっきもシンに勧められたが、あいにくと不調がなくてね」
「元気だっていいじゃない。ひと口ふた口飲んだってさ」
台本、はないけれど。決めていた筋書き通りの言葉。もうホリィは、どう見てもいつものホリィだ。
マルムさんとは違い、たくさんの表情を見せる。今はその中の、真顔だ。
感情に任せることなく「どうしてたったひと口が飲めないのさ」と、単純明快な問いをぶつける。
「まさかこれを飲んだら、獣化するわけじゃないし?」
「それはそうだがね――」
それは僕が言わねばならなかったセリフ。臆した僕に代わって、ホリィがそこまでの段取りをつけてくれた。
さっと、目で合図が。マルムさんの悪事を暴く役目は、とうとう僕に託された。
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