第48話:温泉水は飲めるのか

 それからダレンさんは、その部屋で過ごした。出てもいいとマルムさんは錠を開けたのだけど、当人が内側から掛け金をした。気持ちが落ち着かないし、どんな顔で居ればいいのか分からないと。

 壊された水路も、その間に修繕が終わった。最長で十日と聞いていた工期は、七日だった。ほとんどが乾燥の時間で、ずっと晴天に恵まれたのはある。でも僕が余計な手間を増やしたのに、さすがと言うべきだろう。

 完成の確認されたその日、鈍い響きを混ぜて鐘が鳴る。がらんがらんと、二度を三回。


「ホワゾに住む人たちよ。今日は記念すべき日だ。我らが仲間、シンの計画した水路の完成だ」


 演壇代わりの橋上で、マルムさんは慣れた口調で宣言する。川向こうに集まった千人以上が、わっと歓声を上げた。

 水路が完成しただけでは、獣化を治す薬を作れない。主な材料のミヌスを育てられるようになったと、そこまでだ。それにまだ、保温に使うイトイアも間に合っていない。温泉を引いたって、冷めてしまう。

 それでもなぜか「いいことは早く知らせるに限る」などと、マルムさんが町の人たちを集めさせたのだ。


「これで薬を作ることができる。ただそれが行き届くには、いましばらくの時間がかかるだろう。もう少しの辛抱だ。みんな、私と私の盟友シンとを信じて待っていてほしい!」

「マルムさまぁぁ!」

「待ちますともさ!」


 示し合わせたような声援。前に見たときは、アイドルみたいに思えた。そら恐ろしくはあるけど、これがマルムさんの凄さなのかと感心もした。

 ――でも今は、気持ち悪い。


「さあ早速、湯を通してみるとしよう!」


 合図が僕に向けられ、僕は師匠に頼む。シワシワの無骨な手に、小さくて細い筒が握られた。

 仰け反るようにして息を吸い、銀色に輝く笛に息が送られる。

 ピイィィィ、と。力強い音色は、見た目にいかにもお爺ちゃんという姿から想像しにくい。でもたしかに鳴った。同じ音色がすぐに町の外で鳴り、また遠くでも鳴り。合図が受け継がれていく。

 固唾を呑んで見守るには、少々長い間があった。笛で知らせを受けても、湯がまたこちらへ走る時間は必要だ。でも集まった人たちは、ひそとも声を立てない。畑に送るのとはまた別の、取水口をじっと見守る。


「……そろそろだな」


 ぼそっと師匠が言って、パイプからゴオォッと音がし始めた。最初は電車の走るような感じで、それが段々と水の音に変わっていく。

 ざあああっ。まあまあの飛沫を散らして、温泉の湯が飛び出した。

 やはり湯気はない。でもバケツくらいなら一、二分で満タンになりそうな頼もしい湯量が、うっかり僕に感慨を与えてくれる。

 ――ダメだ今日の本当の目的は、それじゃないんだ。


「見ての通りだ。これからこの湯は、永遠に途切れることがない。必要ならば、誰が汲んでも構わない。偉大なる治癒術師シンによると、飲めば腹の調子が良くなり、快便が約束されるそうだ」

「そ、そうです。それに作物によっては、これを撒けば味が良くなります。その相談はまた別に来てくださいね!」


 水路に湯を通したのは、ぶっつけ本番でない。仕事はきっちりの師匠が、そんな不精をするはずもなく。

 そのテストのときに、温泉の性質も見た。周辺の素材は網羅したと思っていたのだけど、温めるのに使うと決めていただけに調べるのを忘れていた。

 いくつか分かったのは、言った通りに果実の味を良くすること。それとこれはマルムさんに言っていないが、魔術的中毒を癒す効果が少しあること。

 ミヌスから作った薬には、遠く及ばなかったけれど。


「マルム! マルム!」

「シン! シン!」


 二人の名前が交互に叫ばれる。並べて呼ぶのは勘弁してほしい。良くも悪くも、僕はそれほどのことを何もしていない。

 そのうち、遠慮のない人から順に湯を汲みにきた。ホリィとメナさんからカップを受け取り、なみなみ飲もうとする。


「飲みすぎるとお腹を壊すかもしれないので、様子をみながらちょっとずつにしましょう」

「言う通りにするよ、シン先生!」


 ずきっと胸が痛む。

 彼らに対して、何も後ろめたいことはない。咄嗟に浮かんだのが審哉の主治医だったから、たぶんそちらだ。

 気付かなかったふりで、集まってくる人を見渡す。たいして娯楽のないここでは、これも一つの催し物なのだろう。みんな楽しそうにしていた。

 ふとマルムさんを見ると、いつもの微笑みのまま見下ろしている。あれがあの人の普段なのだから、嬉しいならもっとはっきり笑ったっていいのに。


「どうですか、マルムさんも」


 空いたカップを濯いで、半分ほど湯を注いだ。主催者なら、率先して飲んでみればいい。のに、彼は受け取らない。


「いや私は、特に不調もなくてね。この場合、残念と言うべきなのかな?」

「そうですか、では僕が」


 乾杯をするようにちょっと掲げて、ごくり。ふた口を飲む。

 温泉というと硫黄臭いなんてよく聞くけど、それはなかった。よくよく嗅げば、なんだか金属っぽいかなという気がするくらい。

 飲み口を濯いで、ホリィにカップを返す。頷きあって師匠に目を向けると、やはり首肯が返る。

 決めていた手順に従って、僕は大きく腕を振った。二階から見ているはずの、ダレンさんに。

 ばん。と故意に音をさせ、窓が開けられる。ざわざわ賑わっている全員ではなかったけど、かなりの人数がそちらを向いた。


「ホワゾの町の人たち! 俺には言わねばならないことがある!」

「どうしたダレン! 何の見世物だ!」


 飲み仲間とかだろう。気安げに野次が飛ぶ。険悪なものでなく、余興と思っているに違いない。

 笑声が収まるのを待って、ダレンさんはまた叫ぶ。


「まずメンダーナ! 俺は君を愛している!」


 突然の愛の言葉。言われたほうは「なんだってのさ急に」と顔を真っ赤に染めた。

 ひゅうひゅう。囃す声の中、僕は聞いた。


「さて見ものだね」


 余裕綽々の空気で発せられた、マルムさんの声を。ダレンさんを見ていた目が間違いなく、僕を見据えてにやっと笑った。

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