第29話:実験という名の何か
艶のいい毛並み。キツネの口を、ホリィは押さえる。暴れているのはたぶん、薬がどうというより自由にしたいのだ。僕が飲んでも、その辺の草を誤って噛んでしまったような味だった。
「尻尾が――」
ふわふわの長い尻尾。胴体と同じくらいあったそれが、縮み始める。というか、そう思う間になくなった。
遊びたくてジタバタしていた手足が、くたっと力をなくす。眠たそうに、目も閉じていった。ホリィは緩やかなアーチにその身体を置く。
マルムさんの法術みたいに、不思議な光があるわけでない。草花の成長を早回しで見るように、体毛が薄れて身体が大きくなっていく。濃いブラウンの毛は、髪の毛として残った。
「コーンズ!」
広場の側で、町の人と一緒に見ていたダレンさんが叫んだ。どうやらそれは、治癒の終わったこの男性の名前らしい。
三十に届かない彼と、コーンズさんは同年代に見えた。他に手や声をあげる人は居ない。行ってやれとみんなが道を空ける。
「君だったのか、急に居なくなって――俺だ、分かるかい。君の親友だ!」
倒れたまま、まだコーンズさんは目覚めたように見えない。それでもダレンさんは、呼びかけ続けた。
嬉しさと戸惑いと、早く返事をしてほしい焦りがごちゃまぜなのだろう。肩を揺すろうとして、やめたり。頬を軽く叩いて、良くなかったかと手を引っ込めたり。落ち着かない気持ちが、存分に伝わってくる。
「うぅ……」
「コーンズ!」
やっと目を開けた耳元で、ダレンさんの歓喜が破裂した。コーンズさんは渋い顔をして、せっかく開いた目をまた閉じる。
「何だダレン、でかい声をするな。何だか頭が痛くてなあ、ゆうべお前と飲みすぎたせいかな」
「何を言ってるんだよ。君は、獣になってたんだ。それが今、ようやく治ったんだよ!」
「お前こそ、何を言って――」
当人の言うように、酔っ払っての目覚めとはこんななのだと思う。目をしょぼしょぼさせて、気だるい風に周りを見渡す。
ここがどこか、分かるのだろうか。遠巻きに、たくさんの人が囲んでいるのは見えた筈。最後に自分が、全裸であるのに気付いたようだ。
「何だこりゃあ!」
キツネになっていたときの記憶は、すっかりないらしい。わけが分からない様子で、うつ伏せに股間を隠した。でもそれではお尻が丸見えで、両手で遮る。
首だけはダレンさんに向け、何か言おうとしている。しかし言葉が出てこない。
分かりやすくパニックに陥ったコーンズさんに、ふわっと毛布が掛けられた。
「コーンズさん、ですか。良かったですね」
「あ、ありがとうシスター」
そのお礼は、レティさんの掛けた毛布へに違いない。彼女は小さく頷いて、並んだ侍祭たちの隣へ戻る。
「何だかよく分からないが、とりあえず着るものをくれないか」
「ああ、俺の服を着るといい。行こう」
立ち上がるのに、ダレンさんが肩を貸した。でもたぶん、必要なかっただろう。ぜい肉の少ない逞しい脚は、ふらつく様子がない。
「院長さま、よろしいですか」
「もちろんだよ。裸で戻るとは想像していなかった、許してほしい」
「ええ? いや、そんな。いいですって」
マルムさんがいつも着ているのは、略式だけれど法服だそうだ。
だから修道院の院長を覚えていなくとも、聖職者に謝られたのは分かる。コーンズさんはますます慌てて、ダレンさんを急かす。
二人は逃げるように、修道院へ入る扉に向かった。
「さて、ホワゾの人たちよ。見ただろうか」
扉が閉まるのを見届け、ちょっと待ってから。マルムさんは町の人たちに向き直る。その表情は熱心に、何度も頷いて肯定を示す。
「これが我らが仲間、シンの作った薬の効果だ。先に言ったように、これを呪いに苦しむすべての人へ与えたいのだ。どうか、どうか助力をお願いしたい!」
「おお!」
これから戦へでも向かうように、気勢が上がった。
詳しいことは、地区の代表に追って連絡する。そう告げられて解散するときにも、「マルムさまはすごい」などと興奮が冷めていない。
それからコーンズさんが落ち着くのを待って、ダレンさんが話を聞いた。いつも滞在している修道院の部屋で。
「そうだたしかに、あれはずっと前のことだと分かる。だがその間のことを、どうしても思い出せない」
コーンズさんは、この町の住人ではなかった。この辺りの町を転々として、魔物や害獣を倒す傭兵をしていたそうだ。
二人は当時、ときどきそうしていたように、酒場で飲んでいた。
じゃあまた、と別れたのも覚えている。しかしそれからのことが、分からないとコーンズさんは言う。
「無理に思い出さなくてもいいさ。少しずつでね。ただ、今だから分かることもあるかと思ったんだ」
ずっとキツネの姿で、その記憶はない。ならば言葉が話せるようになってすぐ、なるべく近いうちに聞いたほうが覚えている可能性は高い。
その考えは、間違っていないと僕も思う。
コーンズさんも、多くの人が獣化の病に怯える現状を聞いた。だから考え込みすぎて、吐き気を催しても捻り出そうとしてくれている。
親切なダレンさんの親友は、とても真摯な人だった。
「くそっ。やけに喉が乾いたなって、そればかり覚えてる。他のことが全然思い出せない!」
「いいさ。今日はずっと見てるから、少し休むんだ」
やるせない苦しさを堪えて、僕は部屋を出た。そこから足を向けたのは、マルムさんの部屋だ。
「お邪魔してもいいですか」
「やあ、シンだね。君に閉ざす戸を、私は持たないよ」
実験。
そう、コーンズさんにしたのは実験だ。まず誰かにそうしなければ、僕だって百パーセントの確信はなかった。仕方がない。
――けど、何か違う。あれは違うんだ。
「ちょうど君のことを、地区の長たちに伝える書面をだね――」
「キツネを。コーンズさんを実験台に選んだのは、もし死んだりしても誰も悲しまないからですね」
マルムさんは、机で書き物をしているところだった。その前に立ち、訥々と言う。
ずっと長く居て、それが何者か誰も知らない。選定の条件を、非情なものと僕は感じていた。
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