第17話:洞窟の奥を照らす光

 あの人狼は、ホリィなのか。姿を変える瞬間を、見てはいなかった。

 美しくも怖ろしい姿を目の当たりにすると、狭い洞窟に入るのがためらわれる。でも部屋に居たのは、僕と彼女だけだった。それにあの匂い。声。そこから考えると、他に考えようがない。

 ――このままじゃ、見失う。

 人狼が洞窟に消えたあと、すぐには追わなかった。隠れる場所もないようなら、振り返られただけで見つかるから。

 見つかってまずいなら、やはり何もできない。それでも追うという白々しい事実には、無視を決め込む。


「暗いな」


 ようやく数歩を踏み入って、至極当たり前の感想が口を衝いた。

 後ろには、たおやかな流光りゅうこう。進む先は、幽幽たる闇の穴。その差異で、余計にそう感じる。

 ――待ってたら、目が慣れるかな。

 無理筋であっても、それくらいしか暗闇を進む方法が思い付かない。明かりは持っていないし、あっても使えないのだ。

 この間にもホリィは先へ進んでいるはず。目を閉じたままでいるのを、焦りが拒む。


「あれ、明かりが」


 真っ暗だった洞窟に、僅かながらも光が灯っていた。まばらに、至極粗い網くらいの密度で。


【エルモ。湿気を好む、コケの一種。表面に発生した静電気を取り込む組織を持つ】


 そっと触れてみると、そういう性質を持つコケと分かった。十分とは言えないけど、どうにか転ばずに歩くことはできそうだ。

 ――分かれ道でもあったら、もう無理だな。

 どれくらい離れたのか。そもそもこの洞窟は、どこまで続いているのか。

 見えない背中を追う脚が、どんなに堪えようとしても先走ってしまう。一つならず小石を蹴ってしまった。

 からからと地味に高い音が、静まった闇の奥へ駆け抜けていく。


「やけに蒸し暑いな」


 進むにつれ、額の汗が増えていく。洞窟は涼しいもの、と何かで見た気がするのだけど。

 まあ耐えられないほどでない。気にせず進むと、原因も分かった。

 ちょろちょろと、小川とも呼べない小さな流れが足元を這う。

 そこから湯気が立っている。触れると温かい。さらに行くと、湯量も増えていった。空間も格段に大きく広がっている。


「わあ……」


 意図せず、息が漏れた。急に闇が途切れたのだ。

 景色を一言で表すなら、黒には違いない。しかしそこへ、無数の点が打たれている。

 少し黄色がかった白。夜空の星を、ぎゅっと寄せ集めたように。審哉がネットで見た、銀河中心の輝きを彷彿とさせた。

 ――エルモが大量発生してるんだ。

 見蕩れて立ち尽くす。

 どれくらいそうしていたか。きっと数分くらいと思う。

 ざばっ。と、湯を煽ぐ音が響いた。

 誰か居る。それは当然、ホリィだろう。探しても姿は見えない。岩の凹凸に隠れつつ、周囲を探る。


「居た」


 先に見つけたのは、岩に引っ掛けられた彼女の衣服だ。そこから三、四歩も離れた湯の中に人狼の頭が見える。

 ――入浴中か。

 ここは温泉らしい。すると彼女の行為は、そういうことだ。となると見ている僕は、どうなるのか。

 とてつもなくまずい状況だ。さっきまでとは違う焦りを感じる。

 ――いや。いや、相手は狼だし。

 歩いている犬を見て、全裸だと騒ぐ人は居まい。それと同じだ。

 論理的に考えても、なぜか心臓は鼓動を強くしていく。

 落ち着こう。静かに深呼吸を――する前に、彼女が動いた。

 肩まで浸かっていた湯から、立ち上がる。すると背中が丸見えだ。

 そしてあろうことか、こちらへ向きを変えた。胸や股間の辺りが、僕の視界に全て収まる。

 思わず目を背け、手で覆った。

 繰り返すなら、やはりその姿は犬が直立したようなものだ。どこをどう見たところで、恥ずかしがるようなものでない。

 ともあれ僕は、急に身をよじった。すると自然、足下も動く。

 ざざっ。

 地面を掻く音が、存外に大きく鳴った。


「ううっ!」


 威嚇の唸り声。

 気付かれた。家の近くを散歩する犬同士の喧嘩とは、わけが違う。重く、お腹の底を突くそれに、命の危機を感じる。

 というかもちろん、そんなことを考える間などない。一目散とはこうだ、と体現して逃げ出した。

 暗い道を、よく怪我もせず抜けられたと思う。洞窟の出口に、月明かりが頼もしい。そこを出れば大丈夫、なんて。根拠のない安堵を覚えて駆けた。


「はあっ……はあっ」


 外に出てすぐ、膝に手を突いて息を切らせた。吸おうとしても出ていくばかりで、ひきつけたようになる。

 もうしばらく、一歩も動けない。そう思う僕の腕が、ぐいと引っ張られた。


「うわっ!」

「静かに――」


 がさがさ音がしたのは一瞬だ。地面に押さえ込まれ、口も手で塞がれる。

 唇に指を当て、声を出すなと。言って洞窟を窺うのは、マルムさんだった。

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