第4話:たった二つの身の上

「レティシアというの。レティと呼んで」


 川から引き上げてくれたのは、僕よりも背の高い女性だった。目も顔立ちもきりっとして、いかにもシスターという服がよく似合う。

 頭に頭巾。と呼べばいいのか、ともかく裾の長い布を被り、肌が見えるのは顔と手だけだ。

 元は濃い黒だったのが、洗濯を重ねて白けた風合いになっている。ぎもあちこちに、裕福でない暮らしがひと目で分かる。


「ええと、僕は――」

「あんたの返事を待ってたら、風邪をひきそう。ねえレティさん、火を貸してあげてもいいでしょ?」

「そうね、話はその後でもできるわ」


 常に急かすように話すホリィと、落ち着いて話すレティさん。二人の見解は、まず服を乾かせと一致しているらしい。


「こっち」

「ダメよ、ホリィ。彼はまだ、入門していないのでしょう?」

「それくらい誰も何も言わないよ」


 片腕にキツネを抱えたホリィは、僕の手を引こうとした。しかしレティさんは、彼女の手を軽く叩く。


「ダメ。いいからあなたは、先に戻ってなさい」


 ぴしゃり言われて、ホリィは「はぁい」と気の抜けた返事で戻っていった。先ほど出てきた扉にだ。


「さて。あなたまだ、通門証はもらってないのでしょう?」

「え、通門証? ええと、そうですね。そういう物は持ってないです」


 形のいい細い眉がほんの少し、中央に寄った。僕が言い淀んだからだろうか。

 でも結局、町に入るなら門をくぐるように言われただけだった。「私も着いていくから」と付け加えたのが親切なのか、怪しまれているのかは不明だ。


「よう、兄ちゃん。涼しそうでいいな!」


 門柱にもたれて、長い槍も腕を組んだ間に通しているだけの門衛さん。胸にだけ革っぽい防具があって、当人のひょろっとした印象も合わせて威圧感はない。


「あはは、川に落ちちゃいまして」

「そうだな、泳ぐにゃ百日ほども早え」


 僕の愛想笑いに、「だっはっは」とわざとらしいまでの爆笑が返る。そうしながらも彼は、脇の台にある箱から何か取ってひょいと投げてよこした。

 受け取ってみると、木でできた小さな札だ。緑に塗られて、ホワゾと刻まれている。


「これが――ホワゾって?」


 この木札が通門証という物か、と聞こうとしてやめた。たしかめたかったのだけど、間違ってはいないだろう。

 それよりもまたレティさんに怪訝な顔をされるほうが、良くない気がした。


「そりゃあ、この町の名前さ。兄ちゃん、知らずに来たのか?」

「え、ええ。実はそうなんです」

「へえ――まあそういうことも、あらぁな。ゆっくりしていきゃあいいさ!」


 どう反応すればいいか迷うけど、陽気でいい人らしい。お礼を言って門を抜けようとすると、「ああそうだ」と呼び止められた。


「ここはいい街だが、夜は出歩くんじゃねえぞ」

「え、夜ですか」

「そうだ」


 三十歳くらいか。レティさんよりも少し年上に見えた。ちょっと髭を剃り残した頬に、笑みは絶えない。でも声の調子が違って、真面目な忠告なのが分かる。


「それってどう……」

「何してるの、行くわよ」


 言ったレティさんは、もう十歩ほども先を歩いていた。門衛さんも「置いてかれちまうぞ」と、手を払う。気にはなったが、また聞きに戻るくらいはすぐだ。諦めて、彼女を追った。

 街を囲む石垣沿いに、レティさんは進む。

 あの扉の建物に向かっているなら、ずっと前方に見えている。街中を突っ切るように、川が流れ込んでいる。その入り口に当たるすぐ脇へ。

 街の建物のほとんどが、たぶん木造だ。対してそれだけ、石やレンガが多く使われているように見えた。直線的で、飾り気はない。唯一、三角の屋根のてっぺんに何かある。

 ――丸で囲って、数字の三? いやシグマかな。


「お邪魔します」


 建物の前にある細い橋を渡って、彼女の開けてくれた扉をくぐった。外の石畳が内側まで通じている感じで、その部屋の奥には大きな鍋のかかった火が見える。


「やあ、また会ったねえ」


 着ている服と同じ色の布を被ったホリィ。火の目前で、キツネの身体を拭いてあげていた。手が離せないらしく、にかっと笑ってこちらを見たのは一瞬だった。


「ここは教会か何かですか」


 ホリィの隣に座る。暖められた床が心地良くて、肩がぶるっと震えた。意識していなかったけど、僕の身体も冷えている。

 黙っているのも気まずくて、屋根にあったマークのことを聞こうと思った。キリスト教の建物なら、十字架が掲げられている。それと同じような物かなと。


「――ええ、修道院よ」


 レティさんは棚から布を取って、僕に渡そうとしてくれた。ちょうど差し出した格好のまま、動きが止まる。答えはとても簡潔だったのに、さっきよりももっと、僕の中を覗き見るように目が凝らされる。


「おかしなことを言いましたか?」


 奇異に思われているのか、不審なのか。彼女の思いが知れなくて、戸惑う。溜まった唾をごくり飲み込むのも、初めての経験だ。

 けれどさっと体勢を戻して、「いいえ」とレティさんは横に首を振った。

 どう返したものか、困ってホリィに視線を向ける。するとそっちも、首を傾げて僕を見ている。


「おかしいとは言わないけど、少し気になるわね。教えてほしいのだけど、あなたの名前は? どこから来たの? ここへ何をしに?」


 湯気の上がるカップを差し出して、矢継ぎ早にレティさんは問う。耳に気持ちのいい柔らかい声なのだけど、内容は尋問だと感じた。

 ただ僕としては、やましいことなど何もない。この世界に来たばかりで、あるわけがない。だから答えられることは隠さず話そう。そう決めて、まずは名乗る。


「ええと、名前はシンといいます。治癒術師です」


 それはもちろん審哉という生前の名から取った、新しい名前だ。あとはこの世界でも通じる筈の身分。口にしてみて気付いたけれど。こちらから発信できる情報は、たったこれだけだった。

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