第5話:先入観で語るなかれ

「治癒術師ですって?」


 そのときたしかに、歪んだと言っていいほどレティさんの表情は変わった。まるで僕が、悪臭を放つ掃き溜めでもあるように。

 すっと通った鼻の下へ、長い指が当てられもする。生まれたばかりの僕から、そんな臭いはしない筈だけれど。


「ああ、いえ。何でもないわ。どこから来たの?」


 自分で気付いたらしく、彼女は手の甲で頬を押さえた。まだ少し強張っているものの、元の凛とした顔に戻る。


「どこからかは、すみません。分かりません」

「分からない? そんなこと――やっぱりあなた」


 眉が寄せられて、詰問の口調になる。なぜだか僕は、レティさんを怒らせているらしい。

 どうも治癒術師と言ったのが理由の一つと想像はつく。

 けれどなぜ。それも、そのことだけで態度を一変させるほど怒るのはなぜだろう。

 続けて何か言おうと、レティさんは息を大きく吸う。でも遮るように、ギイっと木の軋む音が大きく鳴った。


「まあまあ、レティシア。君の思うところを、会ったばかりの人に押し付けるのは良くない。誰にも事情とはあるものだよ」


 僕が入ったのと別の扉。レティシアさんも見上げる、背の高い男性がやってきた。

 生成りというのか、肩掛け付きのゆったりした服。短く揃えたブラウンの髪に、スマートだけど丸みを帯びた顔が優しそうだ。


「院長さま」

「すまないね。君の声が大きなものだから、聞こえてしまったよ」

「お恥ずかしいことです。申しわけありません」


 その人は大きな籠を両腕に抱えていた。それをテーブルに置くと、弾みで中から転げ落ちる。まだ土の付いた、作物らしい。「ああっ」と慌てて拾い、レティさんも手伝った。


「いやいや、お恥ずかしい。私はこの修道院の院長で、マルムという。君の名前は?」


 たぶん三十代の半ばくらい。でも話す印象は、もっと上という感じもする。聞きやすい速さで、穏やかに言葉が並べられていく。

 聞かれたので、もちろんもう一度名乗った。するとマルムさんは、納得したように頷いてから問いを重ねた。


「もしも聞いても構わなければだが。どこから来たのか分からないと、その理由を聞かせてもらえるかな? 私の助力できることが、あるかもしれないしね」

「ええと僕は――僕のこの身体が、どこでどうしていたのか分からないんです。気が付いたら、すぐそこの草原に居て」


 嘘ではない。でも勘違いをさせるように、意図して言った。

 そしてそれは思う通りにいったようだ。マルムさんもレティさんも、「それは」と息を呑んだ。


「大変な目に遭ったんだね。ありがとう」

「ありがとう?」

「よくこの修道院に辿り着いてくれた。これで私は、君の助けになれる。だから感謝しているんだよ」


 なんて。

 なんていい人なんだろう。

 別の世界から、天使に導かれて転生した。そんなことが信じられる筈はないと思った。信じたとしても、特にこんな神さまに仕えているような人たちに言うことではないと思った。

 その判断は間違っていないと思うけれど、詐欺のようなやり口が心苦しい。


「その事情だと、行くあてもないのだね?」

「え、ええ。そうなります」

「ならば、しばらくここに居てはどうだろう。水汲みなどはやってもらうが、寝る場所と食事の心配はしなくていい」


 そうか。その通りだと、いまさら気付く。

 住む家はない。おにぎりを売っているお店なんかも、当然にない。そんなでどうやって毎日を過ごすのか、まったく意識になかった。


「ええと、そうですね。そうしないと僕、死んじゃうかもしれませんね」

「ああそうだよ。それも気付けないほど動転しているんだね――悲しいことだ」


 土が付いたままの手で、マルムさんは目を覆った。その下から一つか二つ、泥に汚れた水滴が頬を流れる。

 ますますの罪悪感が襲うけど、この厚意は受けたほうがいい。償いとお礼に、水汲みでも何でも全力でやろうと誓った。


「レティシア」


 怒り、とは少し違う。声を張って、強い口調で名が呼ばれた。レティさんもそれに、細くした声を返す。


「君が治癒術師を許せない気持ちは、よく分かる。だがそれと彼とは無関係だ。まさか君は、濡れるのを嫌って全ての雨を叩き落とすつもりかな?」

「いえ、そのようなことは叶いません」


 感情で押さえつけるのでなく、とくとくと言い含めるようなお説教。レティさんも俯くことなく、強い目をマルムさんにまっすぐ向けている。


「そうだね。君の見えないところにも雨は降る。それは、恵みの雨と呼ばれたりもする。一人の人間は、どんなことも完璧に見通すなどできないのだよ」

「心得忘れていました。何も知らず評価を定めようとは、人として恥ずべき行為でした」


 どうやらレティさんは、治癒術師に関わる何かがあったようだ。それで僕にも、そういうレッテルを貼ろうとした。


「ごめんなさい、シン。嫌な思いをさせたわ」

「いえ、そんな。僕は何もされてませんし」


 潔い態度で謝ってくれて、彼女は顔を洗ってくると外に出た。僕としては何だか怒っているなと感じたくらいなので、本当に気にしなくていいのだけど。


「そうだ、院長。治癒術師ならさ、畑を見てもらえば?」


 口を挟まずに見ていたホリィが、唐突に言った。キツネはいつの間にか、その手にない。部屋にも居ないし、どこかからよそへ行かせたのか。


「それもそうだね。育ちの悪い作物があるんだ、見てもらえるかな?」

「育ちの悪い作物? えっと、僕は治癒術師ですよ?」


 あちら二人の間では、話が通じているらしい。マルムさんの入ってきた扉を、また開けようとしている。

 僕にはさっぱりだ。治癒魔法の使い手が、どうして畑と関係するのか。


「うん? この国では薬草などから治癒薬を作る職を治癒術師と呼ぶんだが、君の認識とは違うのかな」

「え……」


 先のお説教と同じように。マルムさんは、思いのずれがないよう丁寧に問う。

 それで僕は、自分の勘違いを知った。盛大に、「えええっ!」と声を上げて。

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