第2話:これまでとこれから

 真っ白な部屋。

 いや。そう言うには、床や壁の境目がない。天井もだ。一面にのっぺりと、ただ白い空間だけが見える。一面というのも、平面か曲面かはっきりしないが。

 ――ここは?

 どこだろう、と。何が見えているのかと。「見よう」と思ったところで、目が覚めたと感じる。

 けれども視界に何の変化もない。閉じていた目を開いたとも、たしかに感覚があったのだけれど。

 白という色も、何かの表面色なのか。もしかすると、ただ光の海に漂っているだけかも。地面も空も、近くも遠くも。どこを見ても区別がなかった。区別がつかないのでなく、区別がない。

 それは自分の手を見ようと、目の前に持ってきて分かる。感覚的に。あるいは意識的には、そこにあると確信があった。自分を見下ろしていたときとは違う。

 なのに見えない。空間の中に自分の身体さえ、明確な境界線を持っていないのだ。

 ――これが死後の世界なのか。

 焦る気持ちはなかった。死んだ事実を今さらに思い出したのが理由でなく。僕が達観しているとかでもなく。

 普段の――生前の僕は、失くし物をすると背すじに寒気が走った。それがたとえ、消しゴム一個であっても。まず間違いなく、部屋の中にあると分かっていても。

 ひゅうっと、戦慄が襲うのだ。

 親に買ってもらった物を失くすことに、強い罪悪感を持っていたのかもしれない。

 まあ、その辺りの事情はともかく。言いたいのは、僕はすぐに焦るということだ。

 だのにここでは、それがなかった。

 ほんの一瞬、そういう気持ちが芽生えた気はしたのだけど。すぐに萎んだ。もしかしてこの場所がそうさせているのかも、と思う。


「その通りよ。理解が早いわ」


 突然に、声が聞こえた。口調や声質で、女性だと感じた。でも何だか、機械音声のようでもある。

 声は耳のすぐ傍で発せられたように思えた。でも遥か遠くから、叫んだようにも。

 ――いや、頭の中に直接か?


「君の感覚に合わせているから、ちょっと待ってね」


 また声がした。居所も姿も分からないけど、優しげな声に安心感がある。

 この女性に任せればいいんだ。と思ったのにも、やはり根拠がない。


「さ。これで見えるでしょう?」


 その言葉を聞き終えるまで、何も見えてはいなかった。しかし「そうなのか」と受け入れた途端、見えた。

 やはり女性と思える身体つき。だけど輪郭や凹凸だけで、どんな顔かも知ることは出来ない。なのになぜか、僕と同年代くらいに感じる。肌も周囲の白とやはり見分けがつかなくて、なのにどうしてそこに彼女が居ると思うのか。

 何とも不思議な景色だ。

 ふと見ると、僕の身体も同じような体裁で見える。手足を動かそうとすればその通り動くけれど、移動は出来ない。

 ただこれで、どちらが上か下か。互いの間にある距離。そんな馴染みのある感覚が生まれた。

 と、思ったのに。それは僕自身、あるいは彼女自身にだけ。決まっているのは、二人それぞれに上下があること。お互いが向き合って、目と目が合っていること。

 他はぐるぐると回り、延々と捻れた。

 それは時間さえも。ある瞬間から、次の瞬間。その一つひとつが、どれだけの時間かも知れない。測る感覚を奪われている、と言うのが正しいように思う。

 長いようで、短いようで、決まりごとが何ひとつ見つからない。


「そう、ここにはなにもないの。私たちの姿も、君が話しやすいように見せているだけ」

「僕は死んで――ここは天国とかですか?」


 これが全て、僕自身の作り上げた盛大な夢。というのでなければ、死んだのに間違いはない。

 するとここは、いわゆるあの世と言われる場所だ。天国ではないにしても、審判の門に続く道とか。

 ――とすると、この人は天使かな?


「ああ本当に理解が早くて助かるわ。この前に見送った子なんて、こちらの言うことをきちんと聞かないのだもの」

「それがお仕事なんですね、お疲れさまです」

「あら、ありがとう」


 特に機嫌を良くした風には感じなかった。僕も妙に感情の起伏がなくて、彼女も同じなのか。それとも合わせてくれているのか。


「そうね。君が思う通りで、特に訂正する必要はないわ。君みたいな良い子には、こちらもいいようにしてあげなくてはね」

「思う通り? あっ、考えていることが読めるんですね」


 こともなげに「ええ」と、彼女は肯定した。

 それが頼もしいと感じるのは、軟弱だろうか。相手は天使さまなのだから、おかしくはないと思いたい。


「頼って結構よ。ルールが明確にあって、その中でなら問題ないから」

「お手数をおかけします」


 頭を下げる。

 父や母が、何度もそうするのを見てきた。だから僕も、誰かのお世話になるならそうしなければと思った。

 問題ないとお墨付きをもらって、ほっと安らぐ気持ちももちろんある。やはりそれも、少し緩むというくらいだけど。


「それで、良いようにっていうのは何でしょう。行き先が天国とか地獄とか、そういう?」


 宗教的な話には、あまり縁がない。それでもどこで得たのだったか、善人は極楽に近い場所へ。より悪どい人間ほど、厳しい地獄へ送られるイメージはある。


「違うわ。こう言うと人間は気分を悪くするみたいだけど、君は実験対象に選ばれたの」

「実験、ですか。どこにも行かないとすると、あなたのお手伝いをするとか?」

「いいえ、行ってもらうわ。これまでとは別の世界で、君は生きるの」


 異世界への転生。

 そういう物語は、たくさん溢れている。知り合いが本当にそうなった、なんていう話もあるらしい。

 ただしそれは、都市伝説。道聴塗説。法螺話の類の筈だ。

 ――そこで生きられるってことか。健康な身体で?


「そうよ。どんな身体がいいか、希望も聞いてあげられる」

「でも、父さんや母さん。僕の知っている人は誰も居ないんですよね――」


 十代も半ばで、ろくに外出することもなく終わった人生。それをまた再挑戦できるのは嬉しい。

 しかし両親に聞きたいことや、迷惑をかけたことにお礼も返したい気持ちが強い。叶うなら、元の世界に生まれ直したい。


「ええ、もちろん居ないわ。それではいけない?」


 僕がどういう気持ちか知っている筈の彼女は、躊躇なく言いきった。

 冷たいとも思うけど、明確なルールがあると言っていた。そういうものなのだろう。


「いけなくはないです。転生させてください」

「そう、良かった。嫌だと言っても、行ってもらうのに変更はないから」


 うん。僕は死んだのだ。普通なら、そこで何もかも終わり。その先がどうなっているのか知らないけど、これは特例なのだろう。

 ――だから、これまではこれまで。ここからは、先を考えるしかないんだ。


「君、いいわね。それを自分で気付けるなら、どこへ行っても平気よ」

「え、あ。ありがとうございます」


 ほんの少し。天使の彼女に感じる空気感が、軽くなった。

 そうだ。転生したあとに、この記憶は残っているんだろうか。いい人だと思う彼女のことも、忘れたくはないのだけど。


「――準備が整ったわ」


 問うてはいないけど、考えが読めるなら教えてくれるのではと期待していた。

 けれども彼女は、変わらない口調で事態の進展を告げるだけだ。


「さ。送るわね」

「はい。ありがとうございました」

「またお礼?」

「さっきのは励ましのお礼です。今のは、色々とお世話になったので」


 返事はひと言、「そう」と。

 景色が遠くなっていく。果てのない白の世界に彼女が一人、小さくなっていく。

 段々と黒が侵食して、見えなくなる寸前。声が聞こえた。


「後悔はさせない」


 きっとそれは天使のかけてくれた優しさ。僕はもう一度、心に唱える。

 ――ありがとう。


「って……」


 てっきりこのまま、どこかの家に赤ん坊として目覚めるのだと思った。でもそうでなく。今度は黒一面の世界に浮かぶ、膨大な数の文字。

 それが何か、僕にはすぐに分かった。ちょっと懐かしくもある配慮に、またもお礼を言わなければならないようだ。

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