ゲット・オーバー
迎ラミン
ゲット・オーバー
境内では早くも沢山の蝉が歌っている。時刻は朝の八時半だが、お盆前という時期もあり、すでにじゅうぶん蒸し暑い。
「
「うん!」
「ほんと、ジェイさんは直君のマネージャーみたいだなあ」
対面の位置で一歳上の親友、
喜一郎だけでなく、友人たちは治衛のことを音読みの「じえい」を短縮してこう呼ぶ。子どもの頃からずっとだし、外国風でモダン(という言い方を最近はあまりしないらしいが)な感じがするので、自身でも気に入っているあだ名だ。逆に喜一郎の方は、純日本風に「
「喜一っつぁんだって、似たようなもんだろうが。俺に頼んで、携帯に
治衛に負けず劣らず孫馬鹿の喜一郎は、使い方を覚えたばかりのスマートフォンで、まるでアイドルオタクのように孫娘の写真を撮りまくっている。そのことを指摘してやると、彼の隣に立つ本人がぱっと明るい顔になった。
「あ、やっぱりあれ、神崎さんがやってくれたんですね」
喜一郎の孫、
ちなみに、
――俺より力のないガキなんぞに、大事な孫娘を渡せるか。
などと豪語する六十六歳の祖父がもれなく付いてくるからか、今のところボーイフレンドはいないらしい。
マネージャーどころか孫娘の番犬みたいになっているのはさておき、そんな喜一郎と誘い合って治衛は今日、たがいの家からもほど近いこの神社を訪れた。孫たちも嬉々としてついてきたのは、年明け早々に起きた大地震からの復旧作業が、ようやくひと段落ついたからである。崩れた石段や灯籠もなんとか元通りになり、今週から境内への参拝が許可されたのだった。
とはいえ、複数の県にまたがる被害が出て、海外からも多くの支援が届くほどの大災害だ。全体的な復旧・復興はまだまだ成し遂げられておらず、見た目だけでなく街そのものの雰囲気も、どこか元気がないように感じられて仕方がない。
治衛や喜一郎だって戦争を知らない世代だが、幼い日に大人たちから聞いた戦時中というのは、こんなだったのだろうかとたまに考えてしまう。地域から人や物が失われただけでなく、誰かに対しての感謝や思いやり、そして笑顔といったポジティブなエネルギーすらも薄まってしまったみたいな世界。
――だからこそ、あれをやってみようかと思ってさ。喜一っつぁんもどうだい?
――お、いいねえ! 俺も一度、あれはやってみたいと思ってたんだ。
電話でそんなやり取りをしたのが、三日前のことだった。
パシャリ、とシャッター音のようなものが聞こえたのは、しゃがみ込んだ遙香が「それにしても、本当に大きいね」と四人の目の前にある巨大な石を、まじまじと眺めたときだった。
「ん?」
治衛はとっさに周囲を見回した。
「なんだ?」
自分だけでなく、喜一郎にも聞こえたようだ。おたがいに老眼はかなり進んできたが、耳の方はまだ二人ともしっかりしている。
「あっ!」
先に音源を発見したのは、治衛だった。
「おい、ちょっと待て!」
自分たちがいる場所のすぐ脇、人ひとりぶん程度ある段差の下で、一眼レフカメラを持ったTシャツ姿の若者が背を向けて逃げようとしている。
こちらのほぼ真下という位置からのシャッター音。そして、もっとも段差寄りの場所にいたのが、ミニスカートを穿いた遙香という事実。
やっていたことは明らかだ。
「てめえ、この野郎!!」
まったく同じ確信を抱いたのであろう喜一郎が、境内中に響き渡る怒声を発した。
「喜一っつぁん!」
遅れを取るわけにはいかない。大切な孫娘をかばうように一歩を踏み出した親友に、治衛も続く。目の前に転落防止用の手すりが設置されているが、へその高さほどしかないので、自分たちにとってはないも同然だ。
それぞれの足が力強く地面を蹴る。
六十五歳と六十六歳が、宙を舞った。
気配を感じたのか、振り返った盗撮犯がぎょっと目を見開いた。
そりゃそうか。
空中にいるコンマ数秒の間にそれを見た治衛は、内心でつい笑いそうになってしまった。盗撮を見つかったうえ、一緒にいた老人たちが二メートル以上もの高さを豪快に飛び下りて迫ってくれば、誰でも驚くだろう。
「おい、お前! 孫のパンツ見やがったのか、ゴルァ!」
自分とほぼ同時に着地した喜一郎が、そのまま弾丸のような勢いで間合いを詰め、犯人の右腕を掴む。地面に着いた瞬間は見事なスクワット姿勢で、しかもほとんど足音が鳴っていなかった。
さすがだなあ。
彼とは違う、足を前後に開くスタイルで着地した治衛も、すかさず後を追って反対側の左腕を掴んだ。背後から「お、おじいちゃん、スパッツ穿いてるから!」という恥ずかしそうな声と、「あ! おじいちゃん、台詞言ってない!」という無邪気な声が同時に聞こえた気もするが、とりあえずそこは放っておく。
「じじいには、ジャンプなんてできねえって思ったか?」
「残念だったな。俺たちゃ、ただのじじいじゃねえんだよ」
治衛、喜一郎とドスのきいた声音で言った後、目線を交わした二人は、見事に重なったひとことを発した。
「ウエイトリフター、なめんな」
◆◆◆
トレーナーなどの専門家に「もっとも跳躍力が高いのはどのスポーツの選手か」という質問をすると、ほぼ確実に「ウエイトリフティングでしょうね」という答えが返ってくる。
一般にはあまり知られていないが、彼ら・彼女らはバーベルを持ち上げるとき、上半身はほとんど使っていない。鍛え抜かれた脚力でジャンプするように床を蹴り、その反動で階級によっては百キロをも越える重量を担ぎ上げているのである。
そして、高く跳べるということは当然ながら、跳んだあとの着地も上手い。
爆発的なパワーを誇る脚力と、重たいバーベルを受け止められる身体全体の強さ。抜群のバランス感覚と着地能力。それらを兼ね備えているのが、
――他のスポーツにおける成功の基礎となる唯一のスポーツ。そして、他のスポーツにおける卓越を保障する唯一のスポーツ――
とすら言われる、ウエイトリフティングの選手なのだ。
六十五歳の治衛と六十六歳の喜一郎は、中高齢者対象のマスターズ大会に参戦するそのウエイトリフティング選手であり、長年良きライバルとして過ごしてきた。得意種目は二人とも、頭上へと一気にバーベルを挙上する『スナッチ』種目。ただし喜一郎がスタンダードなスクワット姿勢でバーベルを受け止めるのに対し、治衛は足を前後に開く、今ではめずらしい『スプリットスタイル』の選手である。
ちなみに両手を上げて足を前後に開くその姿勢は、孫の直が大好きな特撮ヒーローの決めポーズとまったく同じらしく、自宅の庭でトレーニングをする際にはいつも彼に、「ゲット・オーバー!」という勇ましい決め台詞を強要される。もちろん孫に逆らえるわけもないので、苦笑しながら言いつけに従うまでがワンセットだ。
◆◆◆
二十分後。遙香の生足(幸い、スカートの中までは撮られていなかった)が写った画像データを完全に消去させたあと、呼び出した警察官に盗撮犯を引き渡した治衛と喜一郎は、ふたたび孫たちとともに先ほどの場所にいた。
「これ、何キロぐらいあるの?」
あらためて遙香が、米俵のような巨石を指さして祖父に尋ねる。
「さっきちょっと持ってみたけど、五十キロちょいってとこじゃねえかな。担ぎ上げるだけなら、俺とジェイさんなら問題ないはずだ」
「私一人ぶん!? おじいちゃんたち、ほんとに凄いんだね」
思わず正直に言ってしまい、遅れて気づいた遙香はあわてて口元に手を当てている。微笑ましいその姿に笑いながら、治衛は巨石のかたわらに立つ木製の看板を眺めた。
《
これこそが、治衛と喜一郎が朝から神社の境内を訪れた目的だった。
神社などに置かれた巨大な『力石』を競って持ち上げる、「盤持ち」や「力持ち」などと呼ばれる力比べは、江戸時代の頃から行われていたという。言うなれば、大昔のウエイトリフティングのようなものだ。
同時に、力石には様々な御利益があるとしている土地も多い。縁結びであったり。五穀豊穣であったり。願いごとの成就であったり。
この力石も立て看板の説明書きに、まさに願いごとの成就が謳われている。だからこそ治衛と喜一郎は、トレーニングも兼ねてやってみようと思ったのだ。
早く街が落ち着きますように。もう一度、自分たちだけでなく地域すべてが元気になって、気兼ねなくスポーツを楽しんだり、皆で笑い合ったりできますように。そんな願いを込めて。
「じゃ、俺からいくぜ」
まず治衛が力石に手をかけた。ウォーミングアップはすでに済ませてある。石の形状的に得意のスナッチ動作ではなく、肩口に担ぎ上げる『クリーン』動作になってしまうのが少し残念だが、まあ仕方ない。
「見てろよ、直」
「うん!」
スナッチとクリーンの違いがまだよくわからない直は、いつものポーズが見られると思って目をきらきらさせている。当然、治衛自身も期待に応える気は満々だ。
孫の腰にぶら下がる水筒にちらりと目をやってから、治衛は力強く地面を蹴った。
「せいっ!」
ふわりと身体全体が浮き上がった瞬間、素早く足を前後に開いて逆に沈み込む。右の肩口に、ずしりとした心地よい感触。
「さすが!」
「すごーい!」
「おじいちゃん、かっこいい!」
見守る三人に頷き返した治衛は、今度はしっかりと口にした。
孫のために。自分たちのために。そして僭越ながら、被災したすべての人や生き物のために。
「ゲット・オーバー!」
乗り越えようぜ、と。
Fin.
ゲット・オーバー 迎ラミン @lamine_mukae
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