張り手

 次の日の昼頃に、二人に連れられて甲斐老人の家に出向いた。不思議なことに、この閉じられた集落で、僕たちの関係を知らないものは既に居ないようだった。

二人が、甲斐老人に手渡したものは、黒檀の鞘に納められた匕首のように見えた。

一抹の不気味さを残したまま、二人は体中の節々を庇うようにしながら甲斐老人の盟友の雑種犬の散歩に出かけて行った。

「おじいちゃん。行ってきまーす!」「ケルおいで・・」

「ンあっ!気をつけてな!!・・・・。まぁ上がれ」

「はい」

甲斐老人宅の外見は、古く質素なつくりだったが、一歩中に踏み入れば廊下は綺麗に磨かれ軋み一つ無く。障子も張り替えたばかりで眩しいほどの白さを誇っていた。そして、常に視界に入るように配置された数々の置物は、寂しい老人の一人暮らしにささやかな賑やかさを演出していた。そこら中に染みついた臭いは、老人と線香の香りだった。


「一番にあんなことゆーたしおいもじきに死ぬ!細かいことは言わんがの。式くらいはちゃあんと挙げいな?」

甲斐老人は、居間の座布団にのろりと座ると矢継ぎ早に言い放ち。それから、すぐそばに置かれた煙草盆からタバコを取り出して勢いよく吸い始めた。

どこかで嗅いだことのあるような臭いが部屋に充満し、老人は続けた。

「解ったか?」

「・・・・はい」

「いつまでつったとる、そこの酒持ってこい一杯やんだよこういう時は。お前さんのめんのか?のめんだろ?その方がいい、ほぉ!はよよこせ」

「お酒と、たばこは、一緒にしない方がいいと思いますよ?」

この辺りの地酒の銘側は初めて見るものだった。僕は、そばに置いてあったグラス入れの中から青い綺麗な切子ガラスのコップを一応二つ用意しテーブルに並べた。

「カミさんみたいなこと言うんじゃねえ」

「すみません」

酒を注がれたグラスは、外からの太陽光を複雑に反射して綺麗に輝いた。老人は、それをタバコの合間にひと口啜り舌つづみを鳴らした。

「いいて、おいも一枚かんどる。もちろん猛反対したがな。時代がちげぇだろって。」

老人のこめかみに浮かび上がる血管は、喫煙と飲酒だけが原因ではないように思えた。

「まぁ、過ぎたことはいい。それより、おいの爺さん。ツカサって名前じゃねぇか?」

「はい」

「驚かんのか?」

「はい」

「詰まんねぇえやつだ!」

僕は、これ以上の文句が臭い息とともに老人の口から出てこないようにグラスに酒を注いだ。

老人は、じいちゃんと知り合いだったかも知れないし、僕の知らないところで叔父が連絡をしたのかもしれない。色々な可能性があって不思議がある。

「ンあっ!まぁきけ。お前のじいちゃんとあったのは、この国が戦争で負けちまって、国中がめちゃくちゃになっちまってる時だった。おいは、大陸の方からの大勢の難民の一人だった。でもなぁ、病気だ飢えだ寒さだなんだて日に日にみんな死んでって。結局辿り着いたこの国でも大陸とたいして変わらなんだ。人は、荒れて荒れて土地も荒れ果てておいは、その日食う飯だけの為に誰が仕切ってるかもわからねぇでっけー土木作業員の一団に転がり込んだ」

「はい」

「若かったぁ。あんこらぁ今よりいいとはいえんが、その分皆がみんなをいたわっとった」

老人は、火傷で腫瘍のようになってしまった指の第一関節を焼くタバコを一吸いして、灰皿に捻じ込みすぐに新しいタバコに火をつけた。

「あんたの爺さん、おいらはツカちゃんとよんどったが・・・。ツカちゃんとあったのはその頃だった。あんにゃろう・・・。ハッ!!もう軍艦なんざ一隻もねえっつのにラッパ吹きになりたくて遠くからわざわざきただと?戦争やってるってのにふらふらしやがってな。非国民じゃねぇか」

「はい」

「思想だ、なんたら主義者だ。戦犯だの世間知らずも、ぃいとこだったが道具持たせて働かせりゃ人の倍は働くやろうでな。いつの間にかみんなからも慕われとった」

「はい」

「ラッパの腕前は、下手くそだったがの。ハッ!」

痰が絡んだ喉を潤すように藍の切子グラスに口をつけ、老人は続けた。

「当時の、おいらの現場を仕切ってた野郎がまた小悪党を画に書いたようなきたねぇ野郎でな、そいつが皆の前に出てくると嫌味だ愚痴だで文字通り日が暮れちまう!それでも、戦争に負けちまって。みぃんな元気なんかねぇしツカちゃん以外はそいつの言う事仕方なしきいとった」

「はい」

「ある時、どこの誰だか分らんお偉いさんが訪ねてきてな。そん時その野郎ときたら、少しでも媚び売りたいってんでみぃんなに鰻をご馳走したんじゃ。驚いた、鰻なんて初めて食ったし、銀シャリつのも滅多に食えん時代だったしのぉ」

「はい」

「その席でな、野郎がお偉いさんのおしゃくに回ってるうちにツカちゃんがな・・・。ハッ!!!今でも、考えられん。あのきょったろうめ・・・」

「はい」

僕は、老人のグラスに酒を注いだ。思い出していたのは、祖母がいつも寝つきの悪い僕だけにしてくれた昔話の朗読だった。祖母は、いつも途中で寝てしまうのだ。

「その野郎の分の鰻まで食っちまったんだ!」

「え。それは、本当ですか?」

「ああもちろん嘘じゃねぇ。そっから喧嘩になってな、お前そんなに鰻が好きなら鰻屋にでもなっちまえってな。それっきり、ツカちゃんはそこから消えちまった」

じいちゃんがその後どうなったのかは、大体知っている。結局は、事業に失敗して。交通事故でつまらない終わりを迎えた。しかし、その事は聞かれるまで黙っていようと思う。

「そうですか」

「おい、まぁだ終らん。そっからがツカちゃんの面白れぇとこだ。しばらくたってから、ツカちゃんがふらふらけぇってきて、一緒に働いとった連中の何人かに声かけて鰻の養殖場やるぞって言いだした!」

「はい」

「しかも、この国の中じゃねぇ!大陸の一年中あったけぇとこでやると来た」

「え」

「鰻っちゅうのはそもそも、あったけぇとこじゃねぇと成長が超鈍る!この辺りでもたんねぇくらいじゃぃ。ツカちゃんは、鉄やら銅やらを引っこ抜かれたガラクタや二束三文にしかならねぇ美術品に目ぇつけて川で攫ったシラスをな。そんなかに氷詰めして、ゆうて貨物船に紛れさせて大陸の地年中あったけぇ国に輸送することを考えた!」

「でも、それは?」

「勿論。密漁じゃぃ。じゃがおいらは乗った、声かけられたみんなが乗った。こんなところでぐずぐずしてるくらいなら、この男と一緒の方がマシじゃと本気でおもとった」

「どうなったんですか?」

「上手く行った!!あんときゃ・・・。アアー楽しかったわぃ!」

「すごい・・・」

「ンあっ!じゃがなぁ・・・。けえーきょくは、だめだった」

「どうなってしまったのですか?」

「シラス運んだ次の日に、向こうで用意しといたポンプやら重機やら水槽やらをみぃーんなやられちまった・・」

「また戦争が始まってしまったのですか?」

「ぅんぅん・・!違うわい。現地の案内人に騙されちまったんだ」

「そんな・・・」

「世界中が、荒んどった。おいらは、諦めが付いて。結局そのまま元のさやに納まったがツカちゃんがどうなったかは・・・。おいのが良く知ってるんじゃねぇかの?」

老人は、目にいっぱいの過去の思い出を浮かべて酒で乾いた喉を潤した。

「祖父は、温泉を掘ってその熱で鰻の養殖をしようとしました」

「ンあっ!?この国でか?」

「はい、失敗しましたが。温泉を掘り当てたのですが、良い地下水が出なかったらしくて、鰻が生きられなかったそうです」

「しぃんじられん。大した男じゃぁ・・・。それにしたってよぉ一回試さんかいツカっちゃんよぉ・・・・。なぁ・・?」

「はい」

外では、メジロが呑気に鳴いている。

「そうか・・・。それで猶更合点がいったわい。ツカっちゃんは、まだ元気なんか?」

「いえ、亡くなりました。交通事故で」

「そうか・・。みんな死んじまったが。特にあいてかったなあ・・・。あんこらの、事じゃが、おいは断固断った。当然だがの」

「はい」

「だけんなぁ。あんこらから、鰻の話が出てきたとき、つい聞いちまった。賢い奴らだぃ全くょ。・・・あんた、鰻食い行ってあんこらに全部食わせたんだって?」

「はい」


 あれは、卒業式の影響でまだ頭の調子がおかしくなっていたころ、どこからか調達してきた古い2台の自転車のおかげで、お金に少しだけ余裕が出来たのだ。

だから、鰻を食べに行って。初めて食べるし見ると言う二人が、あまりおいしそうに食べるし、優越感もあって。

鳥に給仕するみたいに全部食べさせてしまったのだ。普段、引き出す事の無い記憶は、早くも色あせて懐かしい。

「そいでなぁ・・・。ツカちゃんが、なんか大事なもん見っけたような気がしてなぁ・・・。けえっきょく押し切られちまった」

老人のグラスは、既に空になっていたが酒を注ぐことはしなかった。

メジロの鳴き声に混じって、二人の楽しそうな声が聞こえてくる。声は、波の音が幾重にも重なる度に段々と近づいて来る。

「いきます」

「ンあっ。そうしろ」

「お酒もタバコもほどほどにしてください」

「カミさんみてぇなこと言うんじゃねぇ!」

「はい。では、また」

「またな」



降り積もる、雪の下に燃え盛る太陽のタンポポみたいに力強く宮下さんがそこにいた。

小汚い足で彼女にとびかかろうとするを弾き飛ばして、彼女に詰め寄った。

「あの・・!宮下さん・・・!あなたの事が好きです」

「ふむ・・・」

宮下さんが、僕に触れた。確かに触れたのだ。


「おぉーう、ユキやどした?」

「甲斐おじいちゃん、こんにちは、私にもあれ頂戴」

「相手おるんか?」

「これから捕まえるのよ!」

「ンあっ!それでいい!」

宮下さん・・・・。

宮下さんは、もう一度確かに触れた。

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