IHヒート

 かつて、知識だけの医者から、躁うつ病の症状を言い渡されてから長きにわたりその症状は、鳴りを潜めていたが今日、再びそれは発現した。


宮下さんと。今週の土曜日に食事に行くのだ。


 既に、二人には伝えてある、経済的な部分以外、自立しているあの子達が今更反対する理由もないだろう。

 当日の事を考えて、自分なりに綿密なイメージトレーニングを行い、準備した。

それを、偽りだという声もある、しかし、準備するという事はそれだけ相手の事を考えるという事だ、少なくとも僕の場合はそれが過剰になる事は無い。むしろ、四六時中考えていても足りないくらいなのだから。

 宮下さんは、とても忙しい。アルバイトと言いつつ、土曜日も仕事に狩り出されることも多い、約束の日もおそらくそうだ。彼女は、その事について、同僚の家庭持ちや、怠け者に対する1パーセントほどの愚痴をこぼす時もあるが、仕事のできる人の元には、仕事が集まってしまうのだから仕方がない。それはつまり、宮下さんが有能で誰よりも信頼されている証明に他ならない。


 

 良い料理屋というのは、お客さんの意図をよく酌むものなのだそうだが。もし、あの孤独な酔っ払い達が言っていたことが真実だとすれば。この外観だけでは何料理屋かも解らない、洒落た素敵なお店は。確実に良いお料理屋さんと言えるだろう。

 宮下さんは、少しがっかりして、一週間の疲れがたまった肩を重そうに持ち上げたが僕からすれば、予定していたお店が休業していたって何でもないのだ。

 気丈に振舞ってはいたけれど、宮下さんの様子から疲労の色が見えているのは明白で、その事を考えれば、日を改めても構わないしむしろ、二人きりでほんのわずかな時間を共有しただけでも僕は既に満足していた。

しかし、その事を僅かな誤解もなく伝える事は難しい。僕に出来る事は、正直に一緒にいられるだけでもうれしい事なのだと。何の解決にもならない、頼りない事実を述べる事だけだった。あの張り詰めた働き者の肩を少しでも楽にしてあげたいのだが、セクハラと言うワードが脳裏をよぎって、その事を言い出す勇気も僕にはないのだ。


しかしながら、お互いに何か妙案は無いものかと肩を並べて、夕方の街をいたずらに闊歩するのは満更でも無く。僭越ながら、


恋人同士や。


新婚の。


花嫁と。


夫のような気分になる。




 花嫁と言う甘い響きに、心臓は今にも止まってしまいそうだ。

宮下さんは、僕が頼りないし遊びなれていない事を良く知ってくれているから。

世界中の英知を集めた小さな図書館で、先ほどからしきりにプランBを探検してくれているから。僕の心臓は止まるまで、大好きなこの人の横顔をちらちらと盗み見するのだ。

 週末の町は、僕らを残して終わってしまったみたいに、静寂に包まれていた。

時の流れを教えてくれるのは、弾けそうな心臓の鼓動のみだった。

もしかしたら、聞こえてしまっていたのかもしれない。そして僕自身、密かにそれを期待していた。

ふと、思いついたように、宮下さんがこちらを見るものだから慌てて真面目な事を考えているふりをした。

「あの・・。今日は、月がとても綺麗です」

「ハンバーグ、食べたいわ」

この顔は時折見せる、食いしん坊フェイス。

「作ります」

口に出して直ぐ的外れな事を言ってしまったと気が付いた。

この街には、それを生業にしている人々が大勢いるはずなのだ。

しかし、宮下さんは女神のように微笑んだ。

「話しが、早いのね」


 まるで夫婦のように、罪悪感にまみれながら世界で一番幸せな買い物をして、膨らんだ買い物袋に気を使ってしまうから、つい距離が近づいて、図らずも触れてしまう腕や肩の柔らかさに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「田牧さん?IH ヒーターは使った事あるの?」

「はい、小さい物だったら使った事があります」

「そう・・・」

宮下さんの手は暖かく、生地の手触りは上質だった。

「・・・・ヤマアラシのジレンマという言葉を知って・・・。いますか?」

「知らないわ」

その様子は、素っ気なく朗らかで優しく柔らかい。

「雪の降る山で2匹のヤマアラシがお互いを温め合おうとするんです。でも棘が刺さってしまって2匹は痛くない距離で温め合える間隔を探し合うんです」

「意地悪ね」

「そう思います」

「あなたの、心臓の音聞こえていましたよ?」

「ぁぁ・・・。え・・・。それは、・・・・ありがとうございます。あの時は」

「ふふ。一生懸命に。どき、どき、って」

「また、止まってしまうかも知れません」

「駄目ですよ。楽をしようとしては。馬車馬みたいに働かなければならないのですから」

「はい」

僕は訳もなく、体を寄せた。


 隔絶された二人だけの世界には、宮下さんの日常の痕跡が所々に散りばめられていた。

初めは、足が付いていないような状態だったがいざ料理の準備を始めると目的が定まり行動には勇敢さが必要なくなり。ただ、冷徹に美味しい物を作るのだ。と言う機械的な命令だけが僕の手を動かしていた。

「ロールキャベツにしなくてもいいのですか?」

集合住宅でありながら、部屋の間取りは多く、先ほどから姿の見えないところにいる彼女に話しかけた。返事は、期待していない。

「うーんどうかしら、今日はハンバーグの気分だったの」

「そう、ですか」


宮下さんの匂いがする。


そんな、動物的な考えを僕は必死で頭の隅に追いやった。

出島のようにせり出たキッチンから、高級な輝きを放つテーブルへ料理を移せば、いつもの見慣れた料理も星の光を宿して、ひときわ眩しく輝く。


「できました」

「いただきます」


この人は、いただきますをきちんとする。

暖かそうな部屋着に身を包んで、髪をふわりとほどいても、あの銀色の眼鏡とその下にあるほくろの魅力は少しも衰えることは無い。

「ううん、美味しいわぁ・・。チーズいつもよりたっぷりね」

「乗せすぎましたか?」

「良いんです。今日は、沢山食べたい気分でしたし」

そういうと、宮下さんは、ハンバーグを3分の1ほどをひと口で食べた。

「・・・・。うううん。美味しい!アツアツで、とっても美味しい!ナツメグ入れたわね?」

「はい、少しだけ」

僕は自分の頬が上気するのを感じた。


 キャップのギリギリのところまで補充された食器洗剤は、泡立ちが良くスポンジもほとんど新品で、食器洗い機からは箱から出したての甘い香りがした。

しかし、使い方など分からないから、二人分の食器くらい手洗いで済ました方が速いし間違いもないし、そもそも、あの機械を僕は信用していないのだ。

「洗い物は、終わりましたか?」

体のすぐ後ろで聞こえる声は、少しだけ震えていた。

「後、このお皿をすすぐだけです」

「早く。しなさい」

「終りました」


「私は、そんなにそそらない女ですか?」

肌の内側から響く声は、生暖かい。

「いいえ、とても素敵です。初めて会った時から、ずっと。ずっと素敵です」

「では、なぜ触れてくれないのですか?」

「我慢をしています」

「つまり・・・・。その程度という事ですね?」

悲壮に打ちひしがれる声に思わず耳の奥がぶるぶると震えた。

「そんな・・・酷いです」

「私は、あなたほど我慢強くありませんし、嘘だってつきません」

背中から、何の隔たりも無く、内側を覗く観測者は、世界で一番愛おしい。

「あなたのためだったら、僕は、幾らでも生きられるんです」

「その嘘でいったいどれだけの女を泣かしてきたのですか?」

「嘘では、ありません」

僕は、彼女に触れた。

 そして離れる頃には、一冊の交換日記を隅々まで書き終えたような、とても満たされた気持ちになっていた。

「・・・・・ん。舌は、2枚は無いようですね・・・」

濡れた瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだ。僕はそれを、辛抱強く眺めていた。

「そんなに、見られたら・・・。穴が開いてしまいます・・・」

それから何度かキスをした。僕の頬は、濡れていた。


ハゲタカという動物がいる。

ハゲタカは、自らとどめを刺すことは無い。これを、残酷と言う人も居るが僕はそうは思わない。彼らは、弱った肉体から魂が旅立ち、苦しみを感じなくなるまで待ってくれているのだ。少なくとも、僕にはそう思える。

どうしようもない時間が過ぎていた。

宮下さんがゆっくりと動いて僕の袖の隙間に細い指を滑り込ませる、そして、ずっと隠し場所がわかっていた宝物を探し当てるように、手首のものに触れた。

「この手首のお守りは、どうしたのですか?」

魂は、旅立つことを選ばず。苦しみを感じ続ける事を選んだのだ。

「これは、二人がくれたんです」

この、人類らしさがこの人の最大の魅力だ。

「私も以前同じようなものを贈ったことがあります。サンゴの御守りは、とても壊れやすいのに、さぞ大切になさっているのですね」

その事を、僕たちはすでに知っていた。

「最後に、もう一度抱きしめてください」

「はい」

「もう。何も言わないで」



結局、好きだと言えなかった。

これでよかったのだ、ああそれでも。


苦しいです、サンタマリア。




 車を運転する気が起きず、結局は時間をかけて徒歩で帰宅した。

途中何度か道に迷ってしまったが、何処に迷い込んでも常に見慣れた景色がどこかにあった。体中にあの人がまだ残っている。

 集落の明かりは、すでに消え人々は安心して眠りについている。しかし、辿り着いたわが家には、ゆらゆらとオレンジ色の光が部屋の中でホタルのように揺れていた。

二人はまだ起きている。そう思うと酷い吐き気がした。


辺りには昼間の気配はまるでない。それでも、時間を確認する気は起きなかった。

静かな夜には、波の音はもちろん戸を開く音さえも非常に耳障りだ。玄関に吹き込んだ細かい砂をすり潰す音さえも。


「おかえり」

部屋の真ん中に敷かれた貧相なせんべい布団の枕元に空子が座っていた。

壁には、2本のろうそくが作り出す影がゆらゆら揺れながら伸びていた。

 

 いつもの、台所の寝袋はどこかにしまわれ跡形もない。なのでそのまま、硬く冷たい床に横になる。暖かな火の香りは息をするたびに酷い吐き気を引き起こした。


 頭上で壁に伸びる黒い影が音も無く、ちかづいて来るのにすぐに気が付いた。

いざとなれば、暴力で黙らせて。それでもだめならば、いっそのこと殺してやる。

 暫く後ろを向いたまま襲撃者とにらみ合い、体力の限界がやってきて一瞬気を抜いた時だった。小さな手が側頭部を、それから頭を撫でた。

おのれと思う。しかし、一瞬早かったのは空子の方だった。

「ねえ、おかえり」空子は、たっぷりと夜風に当てられた髪を2度こねてから続けた。

「お布団、準備しといたよ」

悲しいのも、辛いのももう沢山だ。

呼吸をするだけで、ひどい吐き気がする。火の元だけが心配で光源を探すと布団から少し離れた所に置いてある、水の張られたお盆の真ん中に二つの灯りはともされていた。

そのすぐ奥に風葉もいた。

目が回るほど、うんざりして皺ひとつなく敷かれたせんべい布団に泥のように身を預けた。

「こっち向いて・・・」

「やだよ」

「こっち向いてお願い」

「なに?」

「ちゅーするの」

「なんで!」

「じっとして!」

「やだって!!」

「ちゅうす・・・」

「なんで!!」

「だから、チューするんだから!!!」


思わず、手が出てしまった。

今まで、ぶった事なんて。一度も無かったのに。僕の手は、後悔で汚れてしまった。

空子の、赤く塗られた唇から。血の線がゆっくりと伸びた。深手を与えてしまったのは、腕にはめた時計の部分の当たりどころが悪かったからかもしれない。

僕は、しばし無言の責め苦にあい、時計が静かに腕から外されるのを眺めていた。

「自分の気持ちに向き合ったんだ・・・」

空子から、梅の花の香りがする。

「どいて、お願いだから。・・・もう黙っててよ」

「ねぇ瑞樹。


・・・・悲しいね」

握られた心臓が痛むのを感じる。


「瑞樹、あたしね」


「あのね」


「瑞樹の事・・・。好きだな・・・」

空子は、勇気を振り絞って宣言した。

そしてもう誰も、彼女を止められるものは居なかった。

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