地獄
「なんかすごくひんやりする!見て!風葉!綿飴みたいに大きい雲!」
「うん、山しかない」
もうかれこれ、10年以上の月日がたっていた。あの時に見た、信じられないほど青かった空は、少しも変わっていない。
下手な嘘は、看破されてしまうかも知れないから、僕に何かあったときの為に、頼れる人を紹介するためだと説明した。そして、この渡航の為に、初めて給料を前借した。
はしゃぐ二人には、せめて格好だけでもと、新しい厚手の服を着てこさせた。向こうでは暑苦しい格好は、こちらでは、少し寒いくらいだ。
これから、僕は叔父に会いに行く。
切れ者で厳格な叔父に対峙するにあたって、無い頭を振り絞りいくつかの作戦を立てたが、どれもが小学生の方がよほどましな作戦を立てるだろうと言った、程度の低い物だった。
「お土産何にしよ?!名産品は?」
「すごい、ひろいお米畑・・・。米どころ食べ放題」
「とろろかな?」
頭は一つしかないから、我ながら馬鹿な事を言ってしまう。けらけら笑ってくれる人がいるだけ、救いがある。
駅から実家までは、徒歩だと40分ほどかかるが家を出てから欠片も疲れた様子を見せない二人の態度を見ていると、その程度の距離は、何でもない気がしてくる。
広いだけでほとんど車の通らない県道を進み、上から下まで縦断するように流れている大きな川にかかる、先進的な橋を通り、昼間は、猫くらいしか見かけない色街を抜けて。旧家の土蔵の隙間の押しつぶされそうな道を通った。
狭い道は、太陽が隠されて急に二人が不安そうになった。
「こわい?」
「ううん、平気。ねぇ瑞樹のおじさんって、怖い人なの?」
「うん」
思い出すと道を間違えてしまいそうになる。振り返る事も姿を視界の隅にとらえる事もせず答えた。
「・・・大丈夫」「一緒だから」
「うん」
当時の店の跡地には、大きなドラッグストアが立っていた。店の痕跡は、何一つない。
その裏の用水路と道路を挟んだすぐ向こうに、実用性を最優先したドラッグストアとは、ミスマッチな古風な住宅が建っている。叔父の家についてしまった。
綺麗に手入れされた庭の植木や裏の畑には、この町と同じように人の気配がまるでない。
家の前の駐車場には、祖父の軽トラックと高そうな分厚い車の2台が泊まっているだけで、何かの間違いがあった事を早くも予見させるようだった。
「ここなの?大きなお家・・・・。高そうな外車ぁ」
「瑞樹って!お金持ちだったの?」
「ここに居る中では、まだ、一番かも」
「今だけだもんね!」「うん。うん」
玄関の屋根の裏には、升と団扇を模った装飾が施されている。祖父が好んだ中途半端な言葉遊びの一つだ。
鍵はかかっていない、レールの小石をすり潰して開く木製の引き戸は、まだ白木の美しさを十分に保っていた。
「こんにちは」
叔父の家の玄関ホールは、吹き抜けになっている、この位置から、左の祖父母の部屋、右のキッチンと茶の間、そして、階段とその上の2階廊下が一望できるのだ。
ホールの中央には、灯油式のだるまストーブが弱弱しく熱を放っている。
残響が木霊して、誰も出てこないことに違和感を感じた。祖父や叔父がそうだとしても、祖母に限って何時、誰であろうとも、来訪者を無視することはあり得ない。
二人は、後ろに隠れて目前に広がる空間の亡霊を警戒しているようだった。
3度4度呼びかけ、すぐ右の茶の間から叔父がのろりと現れた。叔父は、足が少し歪み一回り小さくなって。老いていた。
「叔父さん、お久しぶりです」
叔父は、誰の顔も見たくは無いと言う様子で茶の間から出てきたが。声の主が僕だと気が付くと眼鏡を直して顔を覗き込むようにしっかりと僕を見た。
「お前、瑞樹か?どうしたんだ急に?お母さんの事・・・・大変だったな」
叔父は、変わった。
「まぁ、上がったい。それにしてもたまげた。こっちには、もう。帰ってこないんじゃないかっておもってたから」
「あの、この子達は・・・」
「まあ立ち話もなんだから、兎に角あがりなさい」
『お邪魔します』
茶の間のすぐ隣は、畳一枚分下の位置にある台所になっている。そこには、かつて7人で暮らしていた名残が未だに残っていた。
「驚いた、本当に。電話位たまにはよこせば良かったのに。りんごでも食うか?」
叔母の姿も、祖父の姿も祖母の姿もそして、あの優秀な子供たちの姿もこの家からは少しも感じられなかった。抜け殻のように止まった家の中で、おじだけが唯一、忙しなく動いていた。叔父は、小さなお盆に湯飲みと急須を入れ、8等分にして種を取っただけのりんごを持って戻ってきた。
こんな時だと言うのに、台所との僅かな段差と、お盆の中のりんごの器がうまくはまらず斜めになって居る事がとても気になった。
「何突っ立てるんだ、早く座れ、テレビでもつけよう。お茶も、ほら、飲め!」
天井の高い畳の部屋に、ただ置かれただけの大きな薄型テレビは、リモコンで操作されると同時に、異様なほど陽気な音声を家中に響かせた。
「うるさいな」
叔父はすぐにテレビを消して、湯飲みのお茶を少し飲んで少しだけ落ち着いて、覚悟を決めたように僕たちを見た。
「あえて、聞かない。それで、何の用だ」
「僕の保険の受取人をこの子達に変えてほしいんです」
「それだけか?今時そんな事どこででもできるのに、そんな事のために来たのか?」
「はい」
「そうか・・・。他には?」
「ありません」
「聞かないのか?」
「何となく、わかりますから」
「そうか・・・」
叔父は、腕をぴんと張って大きなため息をついた。
「俺は、お前が今どこに住んでいるのかも仕事も何もわからないんだがな・・・。そういうところが駄目だったのかもしれないな」
多くの人は、おじに対して自らを隠した。少なくとも僕も父もそうだった。
僕は、黙ったまま叔父の次の言葉を辛抱強く待った。
「そうだ。腹は減ってないか?良かったら、ステーキでも食いに行かないか?えっとそっちの・・・」
「いえ、大丈夫です。どこかで食事をとって、空いてる所に泊まってそのまま帰り・・・」「私、風葉です」
ドキリとする。僕の言葉を遮ったのは、風葉だった。
「こっちは、空子。私たち、両親が失踪して。それから、瑞樹さんにお世話になっているものです。あの、おじさん。お礼を言わせてください。いつも、本当にありがとうございます」「おじさん。ありがとうございます」
「それは・・・・。大変だったな。ご両親がなぁ・・・。色々、あるものな・・・」
「いえ、食べ物もお洋服も、一緒に勉強までしてくれて。御恩は一生忘れません」
「ううんそうか。勉強までなぁ。瑞樹がなぁ」
大人の前では、いつも空子に隠れてもじもじしていたのに、僕の恐れる叔父に対しての態度は、とても正直で堂々としていた。こっちがお姉さんのようだ。
風葉の大げさなな態度を目の当たりにして、叔父は、嬉しそうに。笑ったのだ。
嘲笑でも愛想笑いでもない自然で柔らかな笑顔は、似ていた。
「叔父さん、じいちゃんと。ばあちゃんは・・・?」
「ああ、亡くなったよ・・・。親父は、お前がいなくなってから一月も経たないうちに車に後ろから跳ねられてなぁ・・・。酒を飲みに行った帰りだったんだ。それから、おふくろも後を追うみたいにな。寂しい葬式だったよ二人とも。そればっかり小慣れちまってなぁ」
重要な話の最中だと言うのに、胸がとても温かい。
「そう・・・。ですか」
祖父も、祖母も死んでしまったのは、もちろん悲しかった。しかし、その事と同じ時に僕が得たものは多く、それらは掛け替えの無い物だった。
「ああ。おふくろは、最後までお前の事心配してたぞ。お前は昔っから気が弱くて損ばかりしてるから。ちゃんと見といてやんなきゃあ駄目だってな。・・・・ああ。でもこうして、形はどうあれ、きちんと暮らしてるんだからな」
背後の空気が少しだけ生温く渦巻くのを感じた。二人は、僕がどれだけ無責任で馬鹿な事をしたのかを知らないし、叔父がどれだけの社会的地位に立っているのかも知らないし、ましてや、今現在、中学生活をお手本以上に全うしている自負があるものだから、その態度は常に強かった。
叔父は、胡坐をかいた足に両手をぴんと伸ばしてまた大きなため息をついて、殆どからになった湯飲みの底を見つめた。
だたっぴろい静かな家には、波の音が聞こえない。
職人の手によって造られた木造住宅は、家鳴り一つ鳴らす気配もなく。隅から隅までの広い空間に、いたずらに空気を澱ませるだけだった。
「おじさん、こんな広いお家に一人で住んでるの?」
唐突に時計の針が動き出す。
「あ、ああ・・・。今は一人だ。前は、みんな一緒に住んでたんだがな」
叔父は、許されたことを安堵するように僅かに嬉しそうだったがその様子はやはり悲壮に裏打ちされたものだった。
「そう、寂しいね」
「はぁ・・・。そうだな」
おかしくなりそうな頭を必死で繋ぎ止めるように、叔父は、庭に植えられたよく手入れされた松の横枝を眺めた。あの松は、かつて父の店の庭に植わっていたものだ。それは、叔父にとって父と、そして、弟の形見そのものだ。
「なぁ、瑞樹」
「はい」
「今日泊まってけよ。受取人の変更なんて、やろうと思えば電話でだってできるんだ」
「でも、二人には、学校がありますから」
流石に、遠く離れた学校にまで、叔父の力は届かないはずだ。
「そうかぁ、そうだよな」
初めから、こちらに一晩泊まっていく予定だったのだから、二人の学校など断る理由になどならない。しかし、それ以上の要求を叔父はしなかった。
「脱穀、しないとなぁ」
「どっちの畑ですか?」
「今年は、小さいほうだけだ。去年は、両方やったんだが。今年は、
「今の時期は、大変ですね」
「なぁ、瑞樹。田んぼ手伝ってってくれよ」
「え・・・」
「山にも行きたいし、大変なんだ。うちに泊まらなくてもそれくらいは出来るだろ?」
この手の要求は、とても断りずらいのだ。
稲作というのは基本的にそれ程手のかかる部類の農業ではない。ただ、要所要所に訪れる稲刈り、はぜ掛け、脱穀といった作業は、人手が無ければ一苦労なのだ。
特に天候に左右されるそれらの作業は、運悪く労働の暇と悪天候が重なってしまうと、最終的に一年中暇な老人と子供の仕事になるのだが、それではやはり大変なのだ。
既にくたびれた様子を見るに、今年は全ての作業を叔父が一人で行ってきたのだろう。きっと、前の年とその前の年もずっと一人だったのだろう。
「瑞樹、手伝ってこ?」
暫く黙っていた僕に気を使って風葉が提案してくれた。しかし、本当にいいのだろうか。
田んぼには、蛙もいると言うのに。
「わかりました」
「おお、そうか。よかった。保険の事は、ちゃんとやっとくからな」
叔父は、いつかのあの男をほうふつとさせるスマイルを見せた。
広い家の収納の、何処を開けても服がぎっしりと詰まっていたため、作業用の服には困らなかった。既に襤褸で身を包んでいると言うのに、あわよくばと洋服たちにつばを付けるように品定めする、ちゃっかり者の二人を眺めていると本当にたくましいと思ってしまう。
こちらについてから、曇天と晴れを忙しなく交互に繰り返していた空模様は、すっかり青一色に染まっていた。日差しは暖かく、適度に吹く風は、冷たいが弱く。
それだけで仕事が無くても畑に出かけたくなるような絶好の日和になった。
以前、どこかの会合で自分は、晴れ男だと根拠もなく豪語していた叔父の姿を思い出す。
軽トラの運転は、僕が担当した。
叔父の軽トラの助手席は、誰かが座る事を全く想定しておらず。
縄や軍手や農薬や水分補給用の飲みものと、そのゴミで溢れてた。
それだけならまだしも、それらに混じって鎌や、鋸や、鋏などの替え刃も抜き身のまま詰め込まれていたため、それらの上に無理やり座る事も出来ないのだ。
揺れる農道を走る軽トラの荷台で3人は、何やら楽しげに話している。
あの3人の話は、内容がわからなくても何故だか信頼できる。
沢山の田んぼがあって、そのどれもが同じように見えて全く違うのだ。
田んぼに着くと早速叔父は、わきにある倉庫の中の脱穀機の始動紐を引きエンジンをかけチョークを閉じた。叔父は本当に変わった。藁と土と籾の匂いにガソリンの燃焼する匂いが加わってドラムのように鳴り響く。
そこらでまばらに鳴り響くエンジン音の一つに加わって、湿った分厚い土を力強く踏みしめた。すると、どこからか友人たちが慌てて逃げていき、少し申し訳ない気持ちになる。
鳴り響く騒音で声は聞き取れないが、風葉が空子に飛びついて怯えていた。空子は、早くも肌がチクチクしているようで、狼狽する風葉をほったらかしにして、しきりに肘の裏側をさすっていた。
二人には、掛けられた稲束を脱穀機のテーブルに降ろす作業に就かせた。この作業は、最も簡単でむしろ居なくても問題ないくらいなのだが、その事は黙っていた。
テーブルに乗せられた稲を僕が脱穀機に通し、排出された藁を束にする作業は、叔父が担当した。これは、最も大変な作業だが叔父は、あの作業だけ抜きん出て上手かった。
半分ほど終わる頃には、二人はすっかり慣れてしまって、テーブルには、脱穀待ちの稲束が山になっていた。これは、よくある事なのだが、二人はすっかり自分達が才能か何かを発掘したように得意になって、眩しく働くものだから。僕自身、機械の一部になって黙々と稲を扱いた。残り少しに来たところで二人は、テーブルに稲束を全て載せ終えて、腰に手を当てたりして如何にも暇そうにしていたので最後の脱穀を二人に任せ。僕は、扱いたばかりの藁を機械から直接取って縛る係に転身した。このやり方は忙しいが、とても早く綺麗に終わるのだ。
半分ばかり行ったところで、空子のチクチクの限界が訪れて、今にも服を破り捨てて怒り狂いそうになるのを必死で堪えていたので。さり気なく、藁束結びも教えることにした。
残りの少しの稲は、風葉が黙々と扱いていた。
「・・・ん・・の・・・んの・・・ん・・」
「風葉?!どうしたの?!」
けたたましいエンジンの音の中では、大声を出しても会話などすべて不完全になってしまう。それでも風葉は、こちらに気づいたが、結局向き直り、ぶつぶつ言っていた。
「・・・・・ん・・・・・ん・・・の・・・」
「風葉?!なに?!」
ドドドドドドドドドドド!!!!!!!!!!!!!!
駄目だ聞こえない。
風葉は、最後の稲を扱き終わると、いまだ籾や稲屑が煙のように噴出している脱穀機の前方に回り込んで、それらをほとんど顔で受けた。何を馬鹿な事をしている。僕は慌てて、機械を止めるべく体を起こした。縛る途中の藁束は、抑えを失いポップコーンの様に弾けてばらばらになった。
ドドドドドドドドドドドドドドド!!!!!!!!!!
「これは、なかなか煩いねぇ!!!!顔や歯にパチパチ当たるんだぁあ!!!」
風葉は、如何にも嬉しそうに言った。ああ大きな声、うるさいのは君だ。
「風葉、ちゃんとゴミ払ってね」
「うん・・・!」
3人とも黙々と良く働く、もっと休みながら、ゆっくりと作業をしたいのだけれど、オーナーは、僕ではない。帰る頃になって、薄々当初の予定通りにいかない事に気づき始めて、結局は、その晩の食事の事を考えていた。
3人は、家に着く頃にはすっかり意気投合して、少しの抵抗もなく風呂に入っていった。
正直、気味が悪いと思ったが。この感情は、やはり自分がそうできないことに対する嫉妬が根底にあるのだ。今すぐに人前で裸になる事は出来ないと言うのに、なぜ風呂だからと言ってできるのか。僕には未だに理解できない。
夕食を用意する頃になると二人は、とっかえひっかえに、僕の手伝いと叔父の話し相手を器用に努めていたが、これはこれで叔父と相談できないため歯がゆい気持ちになる。
倉庫の中に大量に余っていた古米と野菜から、煮物とみそ汁を作って。
二人があざとく発見した、高級キンメダイの干物を焼いた。食卓に着く頃には、家の澱みは、既にどこかに失せていたような気がした。
今夜寝る部屋を尋ねられた二人は、迷わず2階の部屋を指定した。
2階の部屋というだけでこの子達にとっては、計り知れないほどのプレミアだ。
僕も、2階の部屋で寝ることにした。
祖父も祖母もいなくなってしまった部屋で、ただ一人ぼっちで眠るのは、何となく嫌だった。
2階の部屋は、タンスと机以外すべての家具が持ち出され。殺風景になり主の顔すらぼやけて判らないような部屋だった。それでも、良く冷えた窓から見える星空は、大変美しかった。
布団倉庫から持ち出した、来客用の布団は埃臭いが上質で柔らかく暖かい。それでいてとても軽かった。
やり遂げた。そんな幸せを、心の隅で静かに感じていた。
昼間は、太陽のおかげでまだ我慢することができたが。この地方の夜の寒さは、やはり応える。
それでも、冷え切った手や足が熱く感じる程に暖かくなるころには、もう少し、起きていたくなってしまった。昼間、駅に着いたときにはセミが鳴いていたと言うのに、夜は秋の虫が鳴いている。
まばらに、蛙の声も混じって、この混沌が不思議な物だった事に気が付いて。
小さな世界に興味が湧いた。
そんな事を考えていると音も無く、扉が開いて誰かがそおっとやってくる。
部屋の中は、星明りだけでは、ほとんど真っ暗だから目を開けていても気配しかわからない。僕は、目を開けたまま完璧な寝たふりをしていた。
すぐ枕元まで来た誰かは、何やら相談していたように思えた。内容は、少しも分からない。
音を消すのが上手すぎるから、それが逆に無音の空間を部屋の中に作り出すので、何処にいるのか大体わかってしまうのだ。
無音の空間は、だんだんと顔に近づいて耳に囁くようだった。
ちう。
ひんやりとして、あたたかい。ふざけて。いるのか。
微かな間を開けて離れていく空間には、戸惑いの色が浮かんでいた。僕は、完璧な寝たふりを貫き、時が過ぎるのを待っていた。すると、もう一度空間が顔のそばまで近寄ってきて頬に吸い付いた。
なんだと言うのだ。
戸惑いが消えて、自信に満ちた確信に変わり、押し殺した笑い声が聞こえてくる。
居間で寝ている叔父には聞こえないだろうが夜中の笑い声は、聞いているだけで度し難く、背徳的だ。
「瑞樹。起きてる」「ックク。ほんと」
「どうしたの?」
「なんか怖くて。眠れなくって」
この地方の夜は、騒がしく。そして、静かなのだ。
「ねぇ、この鳴いてるのはなあに?」
「蛙と、鈴虫とコオロギかな」
「こんなに寒いのに、蛙生きてるの?」
「うん」
「隣で寝てもいい?」
「うん」
僕たちは、川の字になり横になった。布団の中は、先ほどよりもずっと温かく窮屈だったがこの感じは、とても懐かしい。
「波の音、聞こえないね。」
「うん」
「それに。すごく寒い」
「明日、雪が降るかも」
布団から出ている顔は、キリキリ冷えて吐く息はきっと白くなっている。
「雪きらーい」「私も」
「僕は」
心臓が、なっている。
「僕は大好き。白くて。綺麗だもの」
「やなかんじ」「雪なんて、面倒なだけじゃない」
大人のようなことを言う。ああ、本当に窮屈だ。
「ねぇ、瑞樹!何かお話して!」
「何かって?」
「なんでもいいの・・」
何でもいいが、一番困る事を知っているはずなのに。その言葉をあえて選ぶという事は、本当に何でもいいのだろうか。
「何もないよ」
「じゃぁ、料理のお仕事どんなだったか教えて!」
「声が少し大きいよ」
「ふふ、ごめんなさい。ねぇお願い!」
「凄く長いよ?」
「面白い所だけ聞きたいなぁ・・・」
贅沢な考えだ。シュウマイの海老の部分だけ食べるようなものだ。
お寿司のネタの部分だけ食べるようなものだ。
「端的に述べよ!」
「うん」
暗闇は、余計な景色がまるでないから、思い出を巡るのには打って付けだ。
僕は、当時の不安や焦燥すら、いとおしい気持ちで昨日の事のように新鮮な記憶を下手くそなりに出力することを試みることにした。
「僕は、中学校を卒業してから山奥の旅館で働いていたんだけど。その旅館は、全国の予約が取れない旅館ランキングで毎回1位になるくらい本当に忙しい所だったんだ。だからみんな、みんなっていうのは、調理場の人たちでほかの人たちは、仲居さんとかは、あまり知らないんだけど。仲居さんって知ってる?」
「人の名前?」
「ううん、お客さんのお世話をする人を仲居さんって言うんだ。苗字でも仲居さんっているから」
「ややこしぃ。ね!それで?忙しいからどうなったの?」
「うん・・・」
僕は少し身もだえて、尻の位置を直した。
「それでね、その日もとっても忙しかったんだ」
「忙しいってどれくらい?」
「一日18時間毎日働いても仕事が間に合わないくらい。」
「じゅうはちじかん?!」
「声が少し大きいよ」
「ごめんなさぁい」
「三橋さんって言って僕の事、すごく気にかけてくれる人がいて。歳は15歳くらい年上だったんだけど、親方は、この人にとても期待していたから特にきつくあたってたんだ。それで、いつも忙しいんだけど、特に忙しかった日に親方のPHSに仲居さんから電話があったんだ。PHSって知ってる?」
「知らない」「ぴーえっちえす・・・」
「今は、スマートフォンが沢山あるけど、それが出てくる前の携帯電話みたいなものなんだけど。その旅館では、役職就くような偉い人はみんな持っててそれで連絡を取り合ってたんだ」
「ごはん食べてても電話に出ないといけないの?」
「ごはん食べてても休憩しててもトイレに入っててもお刺身引いててもお寿司握ってても出ないといけないんだよ」
「大変・・・」
「うん、本当にね。それでね、その日はいつもの2番手がお休みだったから。三橋さんが仕切ってたんだけど。各階の料理の数があってなくて。数を間違えてるんじゃないかって言うんだ。もし間違えてたら1から全部作り直さないといけなくなっちゃって時間なんて絶対足りないんだ」
この事がどれだけ大変なのか二人に伝わればいいのだが。
「2番手の代わりに三橋さんって人が、リーダーになってたんだね。うん。」
「親方さんは、何していたの?」
「親方は、基本的に何もしないんだ。親方の仕事は、献立を書いたり会議に出席することだから、仕事はもちろん一番できるんだけど、ピンチの時にしか手を貸してくれないんだ」
「親方って本当にそんな感じなんだね」
「うん。それで、その料理の数が全然合わないって言われて、親方がすぐに三橋さんに確認しろって言ったんだ。三橋さん、抱えてる仕事だって慣れてなくて大変なのに、本当に忙しそうで、でも手が空いている人なんていないんだ。みんなすごく忙しいから。そしたら、そしたらね・・・」
ふと、床に染みついた油臭い匂いと巨大な業務用換気扇の追い回すような騒音が蘇った。
「うん、どうしたの?」
「親方の電話がもう一回鳴って、その時、僕は親方のすぐそばで仕事していたから、また問題だ。嫌だなぁって思ってたんだ。案の定、親方がすぐに電話してる三橋さんの方を睨み付けたんだ」
「三橋さん、かわいそう・・・」「親方さん、すごく怖い人なんだね」
「そしたら三橋さんに向かって、親方がね」
『うん』
「お前俺に電話かけてるじゃねぇかよ!って」
「えっ?」「どういう事?」
「三橋さん、あまりにも慌ててすぐそこにいる親方に間違えて電話しちゃったんだ」
『えー・・・』「三橋さん、よっぽど慌ててたんだねぇ・・・」「おかし・・・」
「三橋さん、散々だったね。」「それでおしまい?」
「うん。おしまいだよ」
つまらない、話をしてしまった。似せる気も無い物真似まで。
「ほかにはほかには?!」「瑞樹が私たちくらいの時は、どんな子供だったの?」
「中学生くらいの時?あまり面白い話しは無いよ?」
「面白いお話が、いいなぁ」「うん」
「昔ね、犬を飼っていたことがあるんだけど」
『うん』
もうそろそろ、眠らないと二人の脳の生育に悪いかもしれない。しかし、睡眠を妨げている張本人は僕自身なだけにそれを咎めるのは、難しい。
「狩りを手伝う大きな力の強い犬で、散歩の最中にどこかに逃げて行っちゃったんだ。まだ若くて、もう何か月も狩りに行ってなかったからストレスがたまってたのかもしれない。僕は、急いでいつも廻るコースを何回も探して、河原の方も探したけど見つからなくて。いよいよ見つからないまま、辺りは暗くなっちゃったんだ」
『うん』
「仕方なくなって、家に帰っておじいちゃんに助けてもらおうと思ったんだけど、そしたらね。家で物凄い勢いでシロが水を飲んでたんだ」
「シロって犬の名前?喉が渇いたのかな?」「ひっどーい」
「声が、少し大きいよ」
二人は、クスクス笑った。
「ほかにはほかには?!」
「もうないよ。」
「えー。もっとお話ししてえ。」
「もう寝ないと、明日辛いよ?」
「おねがぁい。」
「面白い話はもうないよ?」
『うん』
それでも何か、ふらりの興味をそそるような物を思案した。
僕はもう眠く、意識は半分肉体から旅立っていた。自力で記憶を引き出す事すら難しく、外の松の木をぴゅうぴゅう揺らす風の音が、ふと祖父の事を思い出させた。あれは、観測史上最大級の台風が到来した時の事だ。
この辺りは、標高の高い山岳地帯に囲まれているおかげで台風自体滅多に来ないのだが勢力の強い台風は、時折山を越え大きな被害をもたらすのだ。その時もそうだった。
その時の事はよく覚えている。家の中にいると言うのに、押し付けるような風の音が家々の隙間を抜けて笛のように鳴る音が、遠くからも聞こえる程だった。さすがの酔っ払いたちもその日ばかりは店には来なかった程だ。祖父が、切羽詰まった様子で店を訪れ、父に、橋を見に行く。と報告した。父は、目の色を変えて猛反発したが、祖父が人の言う事を聞いた試しなどなかったし、その時もそうだった。僕は、心配で仕方がなくて。だって、当時の僕からしたら祖父は、唯一の理解者でいてくれようとしてくれた人だったから。
僕も祖父の軽トラックの助手席に飛び乗ったんだ。祖父は何も言わずに、車を発進させて橋に向かったんだ。不思議なんだ、本当に不思議なんだけど猛烈な風って目で見えるんだ。
畑の上や車や家の屋根の上をとんでもない大きさの空気の塊が滑っていくのが見えて怖いんだけど、不思議で新鮮で、でもそんな事言うのは、いくら祖父の前でも不謹慎だと思ったから、黙っていたんだ。
何度か、車ごとひっくり返されそうなくらい強い横風を受けながら県を縦断する大きな川に掛けられた橋に辿り着くと、橋の袂で車を止めたんだ。それも道の真ん中に。
それで、僕に。軽トラの荷台に乗るように言ったんだ。
僕は、言われるままに荷台に乗った。少しも怖くなかったんだ。祖父は、僕を危ない目に合わせたことは一度もなかったから。
僕が、軽トラにしがみついたのを確認すると祖父は、ひときわ強くアクセルをふかして。猛スピードで車を発進させたんだ。
さっきまで、見ていた風を全身で受けて、横からも前からも後ろからも下からも猛烈な雨に打たれるみたいで、口の中に泥や虫が飛び込んで来たけど、少しも気にならなくて。
橋の真ん中を暴走する軽トラの下は、増水した川に濁流が押し寄せて。さっきから、鳴っていた恐ろしい音がこの音だって気が付いたんだ。でも、少しも怖くないんだ。
祖父の顔は、必死で、橋を渡り切るのは、多分1分もかかってなかったと思う。
橋を渡りきると、軽トラは、いつものカメみたいな鈍間な運転に戻って、川の流れに沿って、下流にある橋に向かったんだ。この橋は、昼間通ってきた橋の事だ。
依然、道路のど真ん中を走っていたけど、橋の真ん中あたりで祖父が急に軽トラを止めて外に出て、さっき猛スピードで渡った、上流の橋の方を眺めていたんだ。
僕も、荷台からすぐ降りておじいちゃんの隣で一緒に橋を眺めていたんだ。
そしたらね。
そしたら・・・。
さっき渡った橋が右側から崩れて、川に飲み込まれたんだ。物凄い音だった。
風も、雨も、川もものすごい音を立てていたのに、急に静かになっておじいちゃんがぽつりと言ったんだ。
「あの橋は、じいちゃんが昔、仲間と一緒になって作ったんだ」って。
二人は、ずっと黙っていた。
きっともう寝てしまったのだろう。
「おやすみ」
退屈な僕の話を聞いてくれてありがとう。
すっきり目が覚めて、何も考えない幸せをかみしめた。まだよく寝ている二人を起こさないように、イメージだけは猫じゃらしになって二人の間をすり抜けたが。
いつかのように、上手くは行かず。しっかりと二人の事を揺り起こしてしまった。
にも拘らず、二人はとてもよく眠っていて。起きる気配すらない。
二人に、まだ話したいことがある。
草の先の朝露の中に広がるもう一つの小さな世界だったり。ひんやりとした世界とともに体が段々と温まる一体感を。しかし、それはまた次の機会にしておこう。
迂闊だった。この辺りの山には、クマが出没する。しかし、それよりももっと恐ろしい動物はイノシシだ。大型犬ほどの大きさのツキノワグマももちろん危険だが。臆病で用心深い彼らが人を傷つける事は、それほど多くない。それに引き換えイノシシは、気性が荒い分、非常に危険だと、言える。
キノコや山菜で一杯のリュックサックを投げつけたくなる、しかし、この状況を招いたのは、他ならない僕だった。
ここは、昔から祖父とよく来ていた山だ。
他の子供たちが何を相続したか知らないが、僕にあてがわれたのは恐らく大した価値もないであろうこの山だった。赤松林の山は、気象がうまく重なれば、秋には松茸が取れるのだ。その事を聞いた二人は、目を輝かせたので、次はいつになるかも解らないからと、二人を山に連れてきてしまった。それが間違いだった。
後悔など、していても仕方がない。それよりも、一歩でも広く探さなければならない。
そこまで広くはない山だがそれは、所有者同士の定められた範囲の話で実際は、広大な山をたくさんの人たちで分け合っているに過ぎない。ひとたび迷い込んでしまえば山全体のどこにいるかなど判らないかもしれない。こんな時でも、隣の山に侵入することをためらってしまう自分に腹が立つ。
車に戻るか、それとも川の上流を探すべきか、そもそも、最後に二人を見たのは、どのあたりだったか。そんな事よりも大声で探すべきだ。とにかく上に向かって探すべきか。
様々な考えが浮かんでは、覆い隠され、全てを試した頃には、木々の隙間が暗くなり始めていた。何度も来たことのある山だったが、こんな事は初めてだった。僕でさえ大人とはぐれる事など無かったのだ。夜になれば、気温はどんどん下がっていく。そして、イノシシ共も動き出す、奴らは噛みつき。その力は、人の骨など簡単に噛み砕いてしまう。
一緒にいるのか、せめてどちらか片方だけでも。そんなことは、絶対に許されない。宮下さん。
数日後、山中でうずくまるように命を落とした、二人の中学生が発見された。と書かれた記事を、新聞で見た。などという事は、許されない。
転がり落ちるように、山を下って、冷たい沢をわざと大きな音を立てて渡り。
隣の家の山に泥棒よりも図々しく侵入し、そこから見える唯一、人の気配を放つ白いガードレールの方をめがけて歩いた。途中、イノシシが倒木を砕き、中の虫を食い漁った形跡を発見した。
せめて、どちらか片方だけでも。そんなことは、絶対に許されない。
辺りが、暗くなり始め。諦めかけ。糸のように細い希望を胸に、車まで戻ってみたが。そこには、誰もいなかった。もう、帰らなければ僕まで迷ってしまう。しかし、この状態で、事故を起こさず車で帰れる自信など僕には無い。ならばいっその事・・・。
途方に暮れて、車のクラクションを鳴らし。エンジンをかけようとした時だった。
叔父から、携帯電話を持たされていたことに今、気が付いた。
会社の者に用意させたと言う携帯電話は、何かあったときに1番を押せと言っていた。
なりふり構わず、1番を押しておもちゃのように小さなそれを耳に当てたが、話し中のようで繋がらない。理不尽な怒りがこみあげて何度も何度も何度も1番を押しては、受話器を耳に当て、時に渾身の力でボタンを押したが、それでもつながることは無かった。
怒り狂いそうになるのを必死で抑えて、ボタンを改めるとダイヤルキーとは別に1から3までのボタンを発見する。何て紛らわしいつくりなんだ。アルファベットにするとか漢字にするとかいくらでも。あったはずなのに!
祈るような気持ちで掛けたダイヤルは、叔父に届いた。
半狂乱になりながら、二人と山ではぐれてからもう数時間経つと報告した。
叔父は、冷静だったが僕の神経を逆なでしないようにわざと慌てたようなふりをして、すぐに人を集めて探しに行くと言ってくれた。こういう時に、権力者はとても頼りになるのだ。しかし、もし何の役に立たないのであれば、そんなものはクソだ。もしそうなったら、僕は権力もこの世界も絶対に許さない。どうか僕にそうさせないで下さい。
時計の時間を確認し、もう一度だけと祈るような気持ちで山に足を踏み入れた。
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