転がる石
宮下さんが、好きだった。
一日千秋の思いで訪れる、月に一度の食事を共にするだけでは到底足りない程に、彼女に強く惹かれていた。
最近では、無意味な自問自答の末に、答えがぼやけて判らない程その気持ちは、強く大きくなっていた。
近頃、気付いたことがある。
知らないふりをしてずっと目を背けていたけれど、僕はあの人と暖かい家庭を築いて。椅子の手すりに乗せられた柔らかな手に手を重ね、意味もなく見つめ合い。日曜日の雨を眺めて、同じ時間を過ごしていたいのだ。
しかし、それも、やはり無理だったかもしれない。
息をしてしまうと、心臓が裂ける気がして息が出来ず。ひねくれもので性格の悪い神様に懺悔するような不本意な体制を取ったまま、僕の心臓は、止まってしまった。
そのまま、転がり落ちそうになる僕を助けてくれたのは、宮下さんだった。
「目が、覚めましたか?」
懐かしさを感じる薬品の臭い。それと、梨の香り。
病室の窓は少しだけ開かれ、そこから見える駐車場は巨大だった。
白いカーテンをなびかせる風は、春のように温かい。耳の薄皮から聞こえる鼓動は、不規則で狂ってしまったような気がする。
「まだ動いてはいけません。きっと働きすぎです。虚弱なくせに頑張りすぎですよ」
肩に触れられた手に促されるように、クリーニングしたての真っ白なシーツに身を預けた。
こんなにも柔らかいベッドで横になるのは、本当に久しぶりだ。
窓からは、依然として柔らかな風が音も無く吹き込んでいた。
この人に、なんと言いたかったんだっけ?よく思い出せない。
心臓も、脳も、本当は存在していないかのように、おかしくなっている。
そっと捕まえた離れていく手を僕は、決して離さない。
検査の結果、発作は偶発的に発生したものだと分かったが、心臓の弁幕に起きている疾患には、すぐにでも手術が必要だと言われた。
不衛生な環境に長時間さらされる人に多く見られる事から、この疾患にはウンコ病という蔑称が付いている。父は、詰まりやすい排水溝から。そして僕は、恐らく、古い靴の山から。
手術には、膨大な費用が掛かる。もちろん、金銭的な余裕はない。
短く丸めた髪の毛を金髪に染めた若い医者は、僕の都合などお構いなしに手術に向けた段取りを組んでいたが。その態度は素っ気なく、僕が治療を受ける気がまるで無い事を見抜いていた。
宮下さんには、嫌われたくなくて、最も、これ以上情けない奴だと思われたくなくて。仕事のストレスが原因の一過性の物だと言った。
以前、僕の事を散々罵ったと言うのに、宮下さんは僕の言葉をいとも簡単に信じて、心からの安堵の表情を浮かべた。明日から、またいつも通りの毎日が訪れる。退屈で、平和でゆっくりと死んでいく毎日が訪れる。
土地勘の無い所だから、途中まで宮下さんと一緒に帰宅した。この人と一緒にいると本当に楽しい、無力な自分が許される気がする。懐に刃を隠した人々の営みが静かに過ぎて、その人たちが作り出した世界がどうしようもなく眩しく見えた。終わりが、近づいている。
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