動物の街
二人には、多くないが毎月お小遣いをあげる様になっていた。
また空子が盗みでも働いたら石川先生にもご迷惑が掛かってしまうし洋服くらい、みすぼらしくない物を着せてやりたい、それに僕に頼みづらい物が欲しくなることもあるはずだから。
そうでなくとも、最近は用事もないのに町に繰り出すことも増えた。
二人はこのことを「お散歩」と呼んだ。
そうして、目の前の仕事だけを淡々とこなすような簡単な日々は、残酷なまでに潤滑に過ぎていった。
宮下さんとは、二人の事で沢山話すようになったがそんなもの少しも頭に入らない。
その内八方塞がりになると分かっていても、触れたい欲が出るたびに向きを変えて逃げる日々が今日まで続いて。それすらも既に慣れてしまっている。
最近やっと、好物を聞き出せただけ僕にしてはよくやったと言えるだろう。
必死になってこなした勉強も、6年生に上がると同時にいよいよ複雑になり、殆どついていけなくなってしまった。
考える事が段々と多くなって諦めて、出来るだけ考えない簡単な日々が過ぎていく。
勉強など出来るようになったたところで今更何になる。
空子と風葉が中学を卒業したら二人にはあの家から出て、どこかに二人で部屋を借りさせて生活させるつもりだ。
このことを二人はまだ知らない。
高校など行った事も無いし、僕はそもそも偏差値が何の事なのかすら分からない。
そして、恥ずかしくてその事を誰にも聞けないのだ。経済的な不安は残るが一度家から出てしまえばあとは、二人でアルバイトをするなり行政の力を借りるなり、いくらでも方法はあるはずだ。そこまで面倒など見ていられるものか。
「ねぇ!瑞樹ぃ!!ねぇえー!」
「疲れた」
「毎日お仕事だもんね!」
辺りを見渡すとめまいがして、思わず近くの噴水のちょうど腰位の高さの石段にみっともないと知りながら腰かけた。
波の音以外の水の音は、とても落ち着く。
空子がすぐにこちらに駆けてきて同じように座ろうとしたのですぐ立ち上がり辞めさせた。
そんなことをしたら服が汚れてしまう。
しかし、今度は急に動いたから、さっきよりもずっとひどいめまいがして結局同じように座ってしまった。
風葉は、少し離れたところで鳩を観察して、夏の植物のように日光を浴びる僕たちを見つけると駆けてきた。
座ったり立ったりする動作がきびきびしていて羨ましい。
この子達は、どんどん賢く機敏になっていく。
宮下さんも初めて会った時からずっと変わらず素敵なまま。
甲斐老人は、具合が悪い。おいはもう死ぬ。が口癖のままもう3年が立とうとしていて。
長谷川も相変わらず失礼で仕事をさぼってばかり。
思い出の中の人たちは、当然年を取らない。そんな中、僕だけがただ老いてく。
最近、朝が辛いのだ。そして、買い物のカゴが重いと感じるようになった。
「瑞樹?大丈夫?今日はお素麺でいいよ?」
「ううん、今日は八宝菜にするよ」
野菜を、食べないと。
「大丈夫?疲れたの?」
「あたしが車の運転できるようになったら、毎回連れてきてあげるね」
この子達が何か一つできるようになるたびに、存在が薄れていく。
そのうち、必要とされなくなってしまうかも知れない。
その時は、どうしよう。
本屋さんの刷りたてのインクの臭いを嗅いで、規則正しく並べられた表紙を眺めるとそれだけで文明になじんだ気持ちになる。
定期的に読んでいる萩ママのコラムの乗った雑誌を手に取って、悩んだ挙句元あった場所へ戻した。題材は、「子供の自立心を育てるには?」
帰る途中で、向こう側から見慣れた人影がこちらに歩いて来るのがみえた。
あのにやけ顔と僅かな猫背、洗えと言っているのに一向に洗わない履き古しのデニムパンツ。
「あっれ?田牧さんじゃないですか?奇遇ですねー」
この街が黄昏に染まる頃、ともにレフィートで働く長谷川に偶然会った。
隣には、今年の流行りのベージュスカートを身に着けた小さな女性が長谷川の細身の体に隠れるようにこちらの様子を窺っていた。
その女は。誰だ?
「ん?ああ、田牧さん!俺の彼女のかおちゃん。かおちゃん、この人バイト先で一緒に働いてる田牧さん」
渡り鳥の様に勘の良い長谷川の、味気ない説明は眠気を感じる程だった。
この男には、こんなに可愛らしく若い彼女がいたのだ。
「はじめ。まして・・・。薫です」
「そっちの子達は、田牧さんの娘さん達?それとも奥さん?紹介してくださいよっ!」
相変わらず、クソが付くほどつまらない男だ。
「こんにちは!おじさん、瑞樹と一緒に仕事してるいつもサボってる人でしょ?」
「ええ!?田牧さん酷いじゃないですか?!俺の事そんな風に言ってたんですか?酷いなぁ」
「でも。仕事が早いからそうしてるって」
「長谷川さん、この子達は・・・」
「あたし空子」「風葉です。瑞樹がいつもお世話になっています」
「いいえいいえ、お世話になってるのは俺の方なんですよ。田牧さんが頼りになるから俺もすっかり甘えちゃって、だってほら、タフでしょ?田牧さん」
僕を間に挟んだままま、まだ人が行き交う街路で立ち話に花が咲く。
長谷川の背後に隠れた少し困った様子の薫さんと目が合った。僕たちは、恐らく同じく色の薄い人種。
「田牧さんってば!」
「はい」
「何見てたんですか?本屋さんで!」
「何も見ていませんよ」
「瑞樹はねぇ、萩ママの本好きなんだよ」
「萩ママって、先生の?面白いの?」
「あのっ・・・・。あのっ。私も、たまに読むの萩ママの本・・・」
「かおちゃんも?面白いの?」
「ううん、そういうのじゃないの・・・・。その、勉強に、なるから。それと、ケンちゃん、良かったらなんだけど。一緒にお店とか。ね?ここだと他の人の迷惑になっちゃうから」
けんちゃん?
「ん?田牧さん俺、下の名前健一郎って言うんです」
音にならない質問に対して長谷川は、いつものにやけ面で答えた。
「折角のお誘いとても嬉しいけど・・・。私たち、これからお家でご飯の用意するので。その。ごめんなさいッ!お姉さん!」
「えっ?えっ?えっ!」
「そっかぁ。じゃあまた今度だね。田牧さんも、また。そん時は、よろしくお願いします。空子さんに風葉さん。まだしばらく田牧さんにご厄介になるけど何卒よろしくお願いします。そいじゃ、じゃねー」
二人は、そのまま人の流れに乗って、薫さんは、姿が見えなくなるまで頻繁にこちらを向いて頭を下げた。
この時僕は、子供の強さを理解し的確に利用する二人を末恐ろしいと思ってしまった。
失った分欲しがるのは、そんなに悪い事だろうか?
そんな事よりも、あの人を物のように考える自分に幻滅する。
そして、その欲は幻ではないから質が悪い。
昼。
家の外から、壊れてしまった換気扇をを何とか治せないものかと叩いたり押したりしていると、裏手に白い綺麗な花が咲いていた。見た事の無いその花は、百合の仲間かも知れない。
二人は、修学旅行に行っている。
料理に失敗し、慌てて回した換気扇が動かなくなってしまったのだ。外から棒でつついて、いろいろ試したが季節外れの蒸し暑さに急に無気力になってあきらめることにした。
そもそもめったに使わない。
タバコを吸おうかと思う。料理を作ろうと思う。洗濯をしようと思う。それぞれの間に、宮下さんとどこかに出かけたいと思う。
結局、一番やりたいことができないのだから、何もしない。
一日が、無駄に過ぎていく、やがて年老いて林の中の老いた猫のように孤独に消えていく、何の役にも立たない無力感は、夜になると次第にその不気味さを増した。
今日は、朝から晩までうるさかった。波の音、車の音、工場の機械の音、そして屋根の上を潮風が滑ってこうこうと鳴る音。
やがて二人がコロコロ帰ってきて、埃が舞って咳が出る。
少しだけ面倒だ。
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