トモダチ
実際は少しも立派じゃないけれど、今日という日の僕への印象は、少なからず二人の学校生活に影響するかもしれないから、今日は、二人に告げずにこっそり休暇をもらって、窓から差し込む快晴の陽だまりの中でワイシャツにアロンをかけた。
ほんの数回しか履いていない靴は、レフィートに持ち込んで。山羊とそれから馬の毛でできたブラシで磨いて派手すぎないクリームを塗って仕上げた。
本当は、違うデザインのスーツを着るのが夢だったが新しいスーツを仕立てる余裕も無ければ新しいことに挑戦することも中々に恥ずかしいのだ。
他の保護者の事を考えて、徒歩で小学校まで移動した。
校庭に植えられた沢山の桜の花は既に散り。枝の先にはみずみずしく細かい若葉が見えるのみである。
常識も教養もないけれど、毎日そんな小さな無法者と立ち向かう先生たちは、矢張り立派で、道に迷いそうになる時は常に壁に導が付いていた。
賑やかで日当たりのいい教室。昔はとても苦手だったけれどこの教室は、あの素敵な便りを執筆する石川先生のテリトリー。
何処か懐かしい、床用ワックスの油臭いにおい、日あたりのいい教室に白いカーテン、騒がしさ、先に教室についていた誰かのお父様、お母様たちもきっと同じことを感じていたはずだ、教室の空気が暖かく、吸っていると照れてしまう。
見渡すと、二人は真ん中の辺りに並びの席になっていて既にこちらを向いていた。
ただでさえ、てれているのでもう、それ以上どうしようもなくなって。思わずそっと手を振った。この行動には何の意味もない。
石川先生は、戦国武将の武田信玄公を思わせる号令で授業を開始した。
時間をかけて理想的に歳を重ねた容姿には、ある種のカリスマ性すら感じる。
授業もなんともわかりやすい。文字が大きく、僕たちみたいにカラーを乱用したりしない。
シンプルな教え方は、洗練されていた。一つ教えては、問題を解いて行くスタイルは、たとえ、聞き逃しが有っても次の問題に再挑戦するチャンスが常にあった。
それでも、個性と自由を何よりも尊重する子供たちは、度々集団からはみ出そうとした。
そんな子供たちに先生は、存分に恥をかかせて特別甘やかしたりは決してしなかった。
つくづく、教育とは難しく。教育者とは損な立場だと実感する。
参観日特別の、石川先生の粋な計らいによって最後の15分間は自習の時間になった。
僅かばかりの時間が過ぎて先程までの子供たちの規律がほぐれてくると、着飾った大人たちもその群れに加わり始めた。
僕もまぎれるようにこっそりと影のように教室内を移動した。
僕は少し様子を伺って、孤独である事を確かめてから、窓際の、授業が始まってからずっと問題集の一問目を解いている子供の元へ移動した。
とても遠くを見ている少年の目だ。
「ねぇ?僕もこの問題出来なかったんだ」
「いつの話?」
風邪か、アレルギーか、少年の鼻は詰まっているようだ。
「ずっと昔。ここはね、こことここを足したのに3をかけて出た数字を使うんだよ」
「どうして?3ってどこから出てくるの?」
「知らないけど、3をかけるんだって」
「へぇ」
「うん」
少年は、2段階で鼻をすすった。
「じゃぁ、これも3かけていいの?」
「それはね、根元の四角が丁度90度になってるからね」
「3かけて4で割るの?」
「うん」
「簡単だね」
「うん、3角形の面積のやり方は知ってる?」
「知ってるよ。ここは、輪から引けばいいんだ」
「うん。出来そうだね」
教科書は、どうして3をかけるのか、どうして2で割るのか教えてくれはしない。
そんな簡単なことが、時に子供を迷子にしてしまう事に大人は気が付けない。
何故4や6を掛けてはいけないのか。なぜ、2や3で割ってはいけないのか教えもしせず、子供たちから可能性を奪っている。
「・・・どうして、3をかけるのかな?」
「しらない。でも。答え合ってた・・・!」
「よかったね」
「ねぇ、お姉さん誰?」
「風葉と空子の保護者だよ」
「へぇ。続きやるから、邪魔しないであっち行ってて」
「うん。ごめんね」
空子はすっかりクラスの人気者と言った様子で教室中を動き回っていた。
一方風葉はというと、真面目に問題集を解いていた。時計の長針と短針のように動く速さこそ違うが、定期的にそれらは交わって。離れてしまっても根底では、繋がっているのだ。
先程から、僕の方を見ている男の子がいる。去年の夏休みに風葉のリコーダーと自分のリコーダーを間違えたタケル君だ。
彼のお母さんは、教室の入り口のすぐそばで初めからずっと高貴な態度を貫いていた。
その姿は、僕を監視しているようにも思えた。タケル君は、ピアノが特技で自分よりも算数が得意な風葉の事が大好きな恥ずかしがり屋の男の子。
活発な空子の陰に隠れがちな、風葉の良さに気が付くタケル君の渋い洞察は、料理の隠し味を言い当てられたような、爽やかな喜びを僕に与えた。
タケル君は暫くしてもう一度僕を見ると、おもむろに二人に近づいて空子の方に勉強の解き方を求めた。つくづく、男の子だと思う。
「田牧さんのお宅の子、テレビもゲームもタブレットも一切見せないって本当ですの?」
気配もなく移動するこのマダムのような奥さんは、タケル君のお母さん。
「テレビ、無いんです」
「まあ。凄い・・・」
タケル君のお母さんは、きっと何かを勘違いして感心した。
「お仕事は、世界中の靴を修理しているとお伺いしたのですが?」
「はい、海外のお得意様が居てその方が世界中の靴を修理してまたほかの方にお譲りする活動をしていて。その方からのお仕事が殆どです」
「はぁ。わたくしの亭主も今海外の方に出張しているのですけど、国外の方は大層進んでいると言っていましたわ。タケルも、そろそろ英会話か中国語かヒンディーの教師をつけようかと思っていまして。・・・もしよろしければ、そちらのお子さんも塾に通わせてみてはいかかでしょう?」
ご両親が、こんなに立派な人だとタケル君は、きっと大変だ。
「そういう事は、二人に任せていますので」
「まぁ・・・。お若いのに、しっかりしていますのね」
「はい、そう、おもいます」
自習の時間はいつの間にか数名を除いて乱痴気騒ぎのようになり、背の高い頑丈そうな男性が女の子を肩車して持ち上げると。周りから歓声が巻き起こった。
その歓声を隠れ蓑にするようにタケル君のお母さんは少しだけ目じりに影を落とした。
「誰とは言いませんがPTAの事で、また小言を言われてしまいましたわ」
「僕もです、集金はできるのに役員をやれないのはおかしいですと。言われてしまいました」
大人たちの会合に非協力的な僕たちの立場は同様に狭く、それはきっとこれからも続くだろう。それでも、子供たちはそんなことは気にしない。そして、ご両親達はみんな立派な大人だから、個人に責任が降りかかる事を極力避け、あわよくば自滅するように・・。
「わたくし、最近あまり考えないように致しました。だってしょうがないですもの」
「はい」
誰よりもこの場の空間を掌握したいと目論む大人たちは、お互いに笑顔を絶やさない。
子供たちも、とても楽しそうだ。
「辛いですわね」
「はい」
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