遠くのあなたは
梅の花に泊まる、メジロを見つけた。
柔らかな日差しの中、爛漫に咲き誇る梅の花の蜜を、メジロは、美味しそうに吸っていた。
面で押し寄せる生温い風に乗って、もう一羽今度は一回り大きな影がやってくる。
ヒヨドリだ。
可憐な鳴き声とは裏腹に、突如飛来したヒヨドリは、さっきまでそこにいたメジロをいとも簡単に蹴散らしてすっかり花の蜜を独り占めしてしまった。
君は、いつかの椿の花でもそうしていたじゃないか。
あのヒヨドリと言う鳥の、図々しさと、食いしん坊ぶりはつくづく尊敬してしまう。
甲斐老人は、漸くこの辺りの人間の仲間入りができるのだから喜べ。と言ったが、とてもそんな気にはなれなかった。
僕は、自治体の集金係を半ば押し付けられる形で引き受けてしまった。
集めたお金は、毎年公民館で細やかに行われるお盆祭りと、神社や公民館の維持費に使われるそうだ。
田舎の情報網は、滅多に表に出ることは無い。知り合いの知り合いから聞いた情報は、この辺りに人間たちの間ですっかり並列化され、僕の素性をあえて聞きだそうとするものは少なかった。その少数の精神的に余裕のある探究者たちは、高みから実に楽しそうに僕に質問をしたが、きっとあの人たちの好奇心を潤わせるような満足のいく返答は、返せなかっただろう。
この地方には、春と呼べるような季節は数日しかない気がする。
その貴重な数日間の春を、不在も多く無駄足になる事が多い集金作業とは言え、普段訪れる事の無い集落を散策することに使えるのは悪くない。
新学期が始まり、二人は5年生になった。
進級して初めの行事は、大人たちの職場見学で、親が近くで働く子供たちは、親の元に見学に行くのが通例になっている。僕は、彼女たちの親では無かったが、二人は、すっかり学び舎での立派な形に成って、クリップのついた大きなボードを持ってレフィートにやってきた。
最も幸運だったのは、仕事が早いばかりにさぼってばかりの長谷川も、自分の会社のくせにすっかり靴の修理を忘れてしまった上路社長も、その日はいなかったことだろう。
『よろしくお願いしまーす!』
二人はとても元気がいい、学校でもこれだけ元気が有ればきっと皆から好かれているに違いない。
「うん」
この日の為に、このお店の一番のお得意様のヨナタンの靴を取っておいた。
ヨナタンは、世界中の履き古された靴を集めてそれを修理し、また世界中の人たちの元へ届ける活動を個人で行う変わり者だ。届けられる靴には、いつも彼の直筆のメッセージが添えられているが一言だって解った試しは無い。なぜこの靴を二人に見せるためにわざわざ用意したのかと言えば、自分の仕事が世界の沢山の人とかかわりを持って、誇らしい事だと自慢したかっただけかもしれない。
「この靴はね、遠くの国から来てるんだ。みて」
「穴空いてる!」「・・・やきうみたいな匂いがする」
空子は、自分の顔ほどある大きな靴の裏の穴を見つけ目を輝かせた。
風葉はと言うと、靴の様子や工場の様子を丹念にクリップボードにスケッチしていた。
「うん、こういう穴を直したり擦り切れた皮を直すのがここの仕事。最初に汚れを落とすんだけど」
「まって・・!」
「うん」
「まだ書いてるから・・・」
「あたしもかこ」
ゆっくりでいい、出来るだけゆっくりが好ましい。
二人は、隅々まで作業場の中をスケッチし、その中に長谷川が昼寝に使う奇怪な形状の枕も含まれていた。もし、説明を求められた時の答えを模索したが。二人は、それが枕だという事を既に知っていた。流行っているのかもしれない。
汚れ具合にもよるが、今回の靴の洗浄には、専用の薬液を使用した。
蛇口の水は、靴を通過するだけですっかり灰色に濁ったものに変わってしまう。
「汚いー!」
「うん、雑巾より汚いかも」
「本当はね、出来るだけ水は使いたくないんだ。革が痛んじゃうしカビが生えちゃうかもしれないし色が変わっちゃうかもしれないから。だから、特別乾いてたり汚れてる時だけこうして洗うんだ」
「ふぅん」
「水洗いした靴は、放っておくとカビが生えちゃうから良く拭いて専用の乾燥機で乾燥させるんだ」
作業場の隅の乾燥機の中に入っていた靴と先ほど洗った靴を取り換えた。形は微妙に違うがこれもヨナタンの物。
「これが、乾燥させた靴」
「すごーい!もう綺麗だね」
「うん、この靴は底の部分をこれから張りなおすんだ」
靴底を剥いで、残った接着剤の屑を綺麗に拭き取って一度目の接着剤をむらなく塗り付けて、トントン叩く。それから、倉庫からその靴にあった靴底を取ってくる。この、他よりも少し厚い靴底は、ヨナタン専用と言っていい。
「ちょっと瑞樹早いよ!」
「うん」
慌てなくても大丈夫。工程は、それぞれが中途半端になってしまうが今日は、出来る限りの物を用意した。
もう一つ用意しておいた靴の修理には、接着剤では無く専用のミシンを使う。
これもヨナタンの物、3足すべて送り先はばらばらだが全てヨナタンから届けられたもの。
このミシンは、僕の予想どおり二人を大層驚かせた。
空子なんかは、顔を覆って指の隙間から作業を見るようだった。
ひとしきり、作業が落ち着いて最終工程の磨きとクリームを塗る工程に入る頃には、僕はすっかり立派な人になってしまった気がして、その事に気が付いたとき酷く恥ずかしくなった。そうさせたのは、ほかでもなく、この子達がいつもとは、少し違った姿勢で技術に対して天望の眼差しを向けていたからだ。
そして、何より僕が誇らしく思うのは、この素晴らしい技術と、それに対する二人の素直な態度だった。
最後のワックスの色合わせは二人に行わせた、壁一面のワックスは、すべてが異なる物だ。その中から正解の物はそれぞれひとつづつしかない。
あれかな、これかな、と一生懸命探す二人は、仲睦まじい。
白い物から黒いものまで赤や茶色もあって、さらに仕上がりの艶の段階まで細かに分類され、時に混合して使用されるそれを、簡単に見つけられるわけなどない。さながら、砂漠から一粒の砂を見つけたり。七つの海のなかから一粒の真珠を探し当てるようなものだ。
「・・・ふふ」
「どおしたの?」
「見てこれ、瑞樹の火傷のお薬みたい」
風葉が手にしたそれは、大きさこそ違うが戦争中も使われていたあの火傷薬によく似ていた。
「ああ、あれ。ヒヒっ!」
「うん・・・」
二人は、卑しく僕を見た。今の二人には、クソガキという言葉がよく似合う。
「瑞樹のあのお薬ね・・・。偉そうなこと言って全然きかなかったよ・・・?」
二人は、作業にすっかり飽きてクスクス笑った。
きっと子供には、効かないのだろう。
「こんにちはー!!!」
威圧的な、聞きなれない甲高い声が作業場に響いて、二人は戦慄し、風葉は空子の後ろに空子は、僕の後ろにそっと隠れた。訪れたのは、今年自治体の会計係になった。
蕎麦屋の中村だった。
「こんにちは」
中村は、飲食店の店主よろしく、一見して愛想よくしていたがその目は、少しも笑っておらず乾いた怒りの色をしていた。
「君さぁ。集金まだ終わってないんですか?」
「まだ終わっていません」
集金の期限までは、まだ3週間以上あった。だから、留守だった家には、また後日訪れるつもりだった。中村は、工場の中に僕たち3人のほかに誰もいない事を横目で確認すると、少しも意見など聞く様子も見せずに土足のまま作業場にずかずか踏み込んできた。とっさに、半歩後ずさって背後の空間を圧縮する。
顔の眼の周りに出来た細かく深い皺と短く刈り上げられた白髪頭にそれから目の下の黒いしみ、それらがはっきりと確認できるほど近づくと我慢を爆発させるように一段階血圧を上昇させて中村は続けた。
「そんなこと言ってるの君だけだよ?ほかの人たちは、きちんと集めてたんだから。毎年同じように早くしてよぉ!ねぇ?時間あるんでしょ?君だけだよ本当に?そんなにいい加減なの」
「すみません」
「ちゃんとしてよね?ほんと。おねがいします」
終始早口でそう言い終えると中村は、すっきりした態度で作業場から出て行った。
「大丈夫?」
声の大きな大人は、いつだって子供を怯えさせるのだ。いつだって、どこだって。
「うん、平気」
帰りは、3人一緒に帰った。
軽トラの狭い助手席が二人の特等席。もちろんこれは、道路交通法違反だがそのことを指摘する者など、この辺りにはいない。終末がすぐそこまで迫っているように暗くどんよりとした車内に強がりな鼻歌だけが場違いに漂った。
途中、集金に寄った羽生老人宅は、過去の栄華を感じさせる一回り大きな風体だけを残しすっかり汚れ荒れていた。以前来た時から呼び鈴は、動作していなかったのかもしれない。
扉を叩いて集金だと言うと中から白ひげを蓄えた金持ちそうな老人が出て来る。
「なんだ?」
「集金です。神社と公民館の維持費です」
ブラウンがかった老眼鏡の奥の眼が僕を睨み付けてそれから、老人は、家の奥に消えていった。暫くすると老人がお金をもって戻ってきた。そして、もう我慢してやるかという様子で愚痴りだす。
「集金なら初めから言って貰えんかな?」
「すみません」
「いいな、あんた」
らくそうで。
その日の夕飯は、素麺にしてした。
そしてその晩は、眠りにつくまでの間、呪いのように僕は楽なんかじゃない。と何度も自らに言い聞かせた。思考の隅で中村と羽生老人に抱く確かな殺意に僕は軽蔑を隠せない。
贅沢な暮らしや、余裕のある振る舞いが気になって仕方がない。
羽生老人の言葉は、ずっと以前に失われ忘れ去られた。他人を見下すことで得られる暗い快感を呼び起こしていた。より高く、より優れた能力を持っていることを集団に証明し、認めさせ、ひれ伏させたくなる強い欲求。誰かが、そっと盗み出してくれた負の遺物。
戦わなければ、奪わなければ、殺さなければ、生きられない。でも、いったい誰を。
「ねぇ瑞樹見てー!」
空子は、宿題に飽きて鉛筆を鼻の下に挟んで遊んでいた。無理もない、小学5年生の教科は、とても情報量が多く、なおかつ難しい漢字、難しい計算それらが一気に出てくるから。
はじめの内に少しでも挫けてしまうと取り返しがつかないのだ。ちょうど僕のように。
「学校でもそうしてるの?」
「してるわけないじゃん」
鼻に挟まれた鉛筆は、すみっコぐらし。
空子がよく買って来る雑誌に載っていた特集を少しだけ読み、僕もこのすみっコぐらしに僅かだが興味があった。
「ねぇ瑞樹?」
僕が、最も気に入っているキャラクターは、「トカゲ」というキャラクターだ。
「なに?」
名前こそ「トカゲ」というが、こいつは実は恐竜の子供で、はぐれてしまった母親を探しているうちに隅っこにたどり着いてしまったという、取り分け悲劇的な境遇を持っている。
いつも涙のようなもので壁に母親の絵を描いて、悲しみに暮れる姿は、シンパシーを感じずにはいられない。
「今度の、参観日来てよね!」
日々悲しみに暮れる彼女も、いつか時が来れば一番大きく立派に成長し自分の力で望みをかなえられる時が来るはずだ。そう思うと、少しだけ気持ちが前向きになる。
「火曜日だっけ?」
「違う!木曜日っ!あっ・・・!」
空子の少し乱暴な所は、あまり目立たなくなったが完全になくなることは無い。
でも、勉強はそこそこにしても賢いこの子の事だから、きっと学校では、うまくやっているはずだ。
「木曜日。だってば・・・!」
テーブルから転がった、鉛筆を拾って元の場所に戻す。
「ぺんぎん?」という奴がいる。
こいつは、実は、ペンギンではない。
その正体は、川に流されるうちに頭の皿を紛失した呑気な河童だ。
いつも好物のきゅうりを片手に、仲間を探すためにペンギン図鑑を引くが緑色のペンギンなどどの図鑑にも載っていないのだ。
それでも、きゅうりがとても美味しいから。自分が何者でどこから来たのかなどこいつにとっては、どうでもいいのだ。それは、しなやかな強さだと思う。
僕は空子に蹴られた足を片手で摩った。
「仕事が、早く終わったらね」
僕は、嘘つき。
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