冷たい土

父はつまらないすし屋を経営していた。


外では鳥が鳴いていた。

そんな日に父は、あっさりと死んだ。


予定よりも30分長く停止させられた父の心臓は2度と動かなかった。


そんな父を最後に見たのは、ベットに横たわり体中管だらけになっている姿だ。


あの姿が脳裏に焼き付いて、いつまでたっても消えてくれない。


葬儀は祝い事のように盛大に行われた。


小さな町の議員だった祖父や、仕事柄知り合いが多かったのが主な理由かもしれない。


悲しみのかけらも見せない親戚たち、年の近いいとこたちは会場でかくれんぼや鬼ごっこをして楽しんだ。


その姿はとても、すがすがしい。

わざとらしく悲しみを演出して、訳の分からない講釈を唱える坊主よりもずっと正直者だ。


神も仏も、居るものか。



葬儀の間、母はまるで別人のように疲れ切っていた。言葉をかけても謝るばかりで、まともに会話が成立しない。


仕方がない、他人でいる期間が長すぎた。

3日間に渡り行われた葬儀が終わる頃には、初め全くの他人といった様子だった親族たちがすっかり打ち解け、世間話や、身の上話に興じているのを見ているとにわかに偉大だと思ってしまう。


僕が6年間費やしても出来なかったことを、彼らは三日で、さらには、他人の親の葬式でやってのけてしまうのだ。とても、真似できない。


大勢の参列者の中で本心から悲しんでいたのは、親戚などではなく、居場所を無くした客のほうだった。


客たちは、生前も死後も父の都合などお構いなしに自らの要求を投げつけているように見えた。彼らの中に誰一人として、営業時間外に無理やり来店した事の無い者はいないと言うのに。

そんな、連中の話を父はどんなに店が忙しくても。聞き逃さなかった。

生前の父を思い出すと、涙が出そうになる。


僕にはできることが、あったはずなのに。


ただただ父が衰弱するのを見ているだけだった。


無力とはまさにこのことだ。



生き残った大人たちは、母の知らぬ場所で手を回し、繫いで、祖父の失敗した事業の跡地でもあるあの頑丈すぎる店は、僕に押し付けられ。

僕は山奥の有名な旅館で捨てられるように働くことになった。


それから、職場になじめぬまま、1年以上の月日が経っていた。



1年休まず働いた、自分でも信じられない。

そんな僕に、贈られた言葉は「いい加減にしろ」だった。


突然に、押し付けられた休日。


ざわつく思いで、必要のない部屋の掃除をしていると。

先輩から暴力を振るわれるたびに何処からかその事を聞きつけ。あざとく世話を焼く一人の仲居の事をぼんやりと思い出す。


 誰かを外出や食事に誘った事など一度もなかったが、働きたくないのに働かなくてはならず。働かなければならないのに働けない焦りが、僕を奇行へと走らせたのかもしれない。



 期待はしていない、たまたま湧いて出た休日があの仲居の休日と都合よく重なるわけがない。


ふと、この時間に行っている作業の事を思い出す。また親方が長い説教をしているのだろうか、それとも僕の居ない影響で円滑に作業が進み1時間早い昼食をとっているのだろうか、色の抜けたような昼下がり、そんなことを他人事のように考える。


3人いる仲居頭の内一人が扉から現れた。


仲居頭は、特に着物姿が似合っている。とても羨ましい。

調理場の無礼者達は、仲居頭達を陰で3ババなどと呼んでけなしているが、全く。彼らは、失礼な人達だ。

仲居頭の一人は耳が早く。休日の事を知っていた。

僕を見て、幸せそうな顔をして、それから爛漫な光の中に消えていく。


世話焼きの新人の仲居は、ほとんど最後に現れた。

仲居は扉をおして外に出てくると振り返り一礼して扉を閉めた。

着物のせいでそう見えるのか大きな尻だ。


「里美さん」


仲居は僕の声に気づくと小走りでこちらに駆け寄ってくる。伝統的な化粧はこの仲居に狸のような印象を与えていた。

この仲居の里美という名前はたぶん本名ではない。

他の仲居達同様に偽名だ。


急に休みになったと伝えると仲居は大げさに驚いて。自分も明後日の午後まで休みだという。

僕よりも半日休みが長い。休みが一緒になった事と全く予定がない事を仲居に伝えると、仲居は燥ぐ様に町に降りようと提案した。


街のいいところを知っているなど、お金は心配しなくていいなど、年下に対して存分に姉貴風を吹かせた後、仲居は幸せそうに女子寮のほうへ消えていった。



その夜、酒のある店の匂いに当てられて、やすやすとホテルに来てしまう。

体はササミのようになって、いう事を聞かない。

仲居が言う。


「お風呂一緒にはいろっか?」


その申し出はことわった。

里美はつまらなそうにサイドボードの上の荷物を漁り、着替えを出すと隣に備え付けられた浴室に向かった。

あの、小包も持っていた。あの中には、昼間買ったばかりの下着が入っている。


酒の匂いにあてられたのか、里美の風呂が長かったのか、少しの間だが手触りのいい椅子で寝てしまう。


今日もひどく疲れている。


化粧を落とした、里美に起こされる。身に着けた服の影響で一目で誰なのか分らない。


里美のまだ濡れた髪がとても気になった。


起き上がる、きしむ体を無理に動かして風呂に向かう。

風呂は部屋の簡素な造りとは裏腹に大きく、綺麗なタイル張りになっていた。さっさと体を洗い、湯船につかるとお湯は少しだけぬるい。


普段は宿泊客がまばらになる時間帯に旅館の浴場での入浴を許可されている、それに比べたら小さな風呂ではあったが、人の目を一切気にせず入る風呂は格別だ。

仕事終わりの深夜とは言え宿泊客が入ってこないとも限らないから、一人で入れる機会は少ない。


それに、この風呂はとても静かだ。


他人に体を見られるのはとても嫌だ、自分で見るのだってあまり好きでは無い。

だけど風呂に入らないわけにもいかない。今は、相手も自分の素性を知らない事を自分に言い聞かせて無理やり納得してはいたが、それでも嫌なものは嫌なのだ。


客の乱入が無い事を良い事に油断しきって、またも微睡み始めた頃。

ガサガサと脱衣所から、物音がした。

とても嫌な予感がする。

すりガラスに女性のシルエットが映る、何か対抗策を立てなければと思ったが、どうする事もできなかった。

まもなくして、風呂場に里美が入ってきた。僕は固まりうろたえた。


心臓だけがどきどきと言っている。

鍵をかけておくべきだった。

やはり里美は酔っていた。


 里美の顔を入念に観察して考えを少しでも読み取ろうとしたが。酔っているせいか目は少しうつろで、何より自分がまともな状態ではないので何を考えているのかかなど分かるわけがない。


空いたスペースに里美が何か言いながら入ってくる。足が一本入って湯船からお湯が溢れる、ゆっくりと柴犬のように湯船に浸かる仕草を思わず見てしまう。

これ以上、何も起らないでくれと心の底から誰かに願っていた。

身体は茹でた肉みたいに固く縮こまり、ただ壁を見つめた。

「お風呂、思ってたより広かったね」

里美が何くわぬといった様子のありふれた事を言ったので内心とても安心した。

「はい、でも二人で入るのはやっぱり少し違う気がします」

僕の声は緊張で少し震えていた。里美は、本当に湯船に浸かりたいだけだったようだ。

ぬるい湯船のお湯で顔を洗ったり腕にお湯をかけたりするくらいで、これと言って妙な動きはしなかった。僕は絶対に先に上がらないと心に固く誓いを立てて耐えていた。

 里美は立ち上がり先に浴室からでていった。ほっと胸をなでおろす。心臓の鼓動が、お湯を伝わり里美にも伝わっていたのではないかと疑いたくなるほど、心拍が強まっていた。


先にあがった里美はすでにベットで横になっている。

余計に疲れてしまった。眠る里美を起こしてしまっては申し訳ないと思い、濡れた髪はバスタオルで入念に拭いて乾かし椅子に腰かけた。


完全に消えない照明を少しだけ疎ましく思いながら横になっていると、背後で里美がもそもそ動いて大きな鏡越しにこちらを見た。

「ねぇ、一緒に寝ないの?」

「ここで寝るので大丈夫です」

理由もなく高まる胸がどうしても気持ちが悪い。

目を合わせないように必死で冷静さを取り繕う。

揺すりをかけるように里美がベットから降りてこちらに寄ってくる。

そして、僕の腕を取り抱きしめるように自分の胸に当てた。

とても柔らかく、少しぬるい肌だ。

息が止まり、石の様に身体が固くなる。

それから、里美も動かなくなってしまった。

静寂に耐えられない、静止していられない。


あてがわれた腕を少し動すと里美から「ぅん」と艶っぽい音が出た。


僕はこの人を心底狡い人だと思ってしまう。 


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