暴力
年が明けて、正月の話題から次第に天気や日常の話題に切り替わる頃。
世間への申し訳なさと、仕事と住む場所と度々感じる空腹に感謝し、成長せず、ただ老いて行く自分に惨めさと恥ずかしさを感じ。今なお記憶の中で密かに磨かれ、輝きを増す。あの短くとも素晴らしい日々を、僕は今でも忘れられずにいた。
二人は、今年5年生になる。
あと少しで、中学生になって、卒業したら寮のある高校に進学してもらうつもりだ。
もっともこの事は、二人には言っていない。二人は、すっかり上手にやっている。
僕の評価ではなく、宮下さんが言うのだから間違いはないだろう。
そうなったら、
そうなったらもう、僕は、二人にとって「数年間面倒を見てもらった人」になる。
そう思うと少し清々しい。
最近、思う事が有る。あまりにも、滞りなく時が流れて行ってしまうのだ。
あまりにも簡単に、スムーズに。ふとした時、分からなくなる。本当に、あの時のあの気持ちは本当だったのかと。今となっては、もう、確かめる余地はない。これは僕にとって救いかも知れないし罰かも知れない。宮下さんの事は間違いなく好きだった。この気持ちは、日々を重ねる毎に募り大きくなって、最近ではあの人の事を考えるだけで胸が苦しくなる。
では、真莉愛の事はどうだったのか?僕は、毎日ご飯を食べて人を好きになって、平気な顔をして。
僕は、彼女を大して好きでは無かったのだろうか?
その考えが脳裏をよぎる度に、僕は所在構わず泣いてしまいそうになる。
「ただいま」
居間へと続く薄暗い廊下は、妙に湿気っぽく暖かかった。
そういえば、夕飯を考えていなかった。くだらないことばかり考えてすっかり忘れていた。
また、カレーにしてしまおうか。それとも。
「わぁ。おかえりー」「空子。・・・危ないよ?」
冬休みで暇を持て余した二人は、存分に正月を満喫し、近くの神社に初詣に行って、勉強もきちんとこなし、それでいて尚、時間的な余裕があったのだろう。
畳んでしまっておいた給食着を引っ張り出して、椅子で背を高くしてガス台の前で何やらやっていた。その不安定な姿は、一目で僕を不安にさせた。一番大きな鍋でお湯を沸かしていたのだ。鍋のお湯は、完全に沸騰し水蒸気がなべ底から湧き上がる音がここからでも聞こえる程だった。空子からすれば、ちょうどの見せ場だったに違いない。僕の方を得意げに振り返ると鍋の中身を流しに勢いよく零した。火も消さずに。
急いで駆け寄ったのと、空子が流しから跳ねるお湯にバランスを崩したのはほとんど同時だった。
「あぶないよ!!」
空子はたまらず、鍋を流しの中に叩き落とした。おびただしい濃さの湯気が空子を包んでその中からうめき声のような悲鳴が聞こえた。
慌てて空子を抱きかかえて風呂場の扉をけ破るように開けて中に入り、服の上から水をかけた。水圧の弱いシャワーがもどかしい。
空子は少しも動かない。
「空子?大丈夫?ねぇ?」
「大丈夫だよ・・・」
空子は、ふてくされてつまらなそうに言った。
「本当に?火傷してない?お湯かからなかったの?ねぇ顔見せて?」
もし、目立つ場所に腕から先だったり足の膝から先だったり、顔にやけどの跡などできてしまったら。出来てしまったとしても、規模にもよるが跡が残らないように治癒するはずだ。
「大丈夫だよ」
ずっと向こうを向いている顔が気になって覗き込む。
「良いから」
「大丈夫だって」
「良いから!!」
何かを隠しているように、目も合わせない空子の態度が猶更心配で思わず大きな声が出て驚く。幸い、手にも足にも顔にもやけどの跡はなく、無事だった。
「ねぇ、瑞樹?空子大丈夫?」
風葉がそっと浴室を覗き込むと途端に冬場の冷水が現実のものになり、手足が冷えて痛くなる。
「うん、大丈夫だったよ。風葉は平気?」
「ううん、ちょっと熱かった」
風葉は、服を捲りあげた腹に小さな火傷を負っていた。
「本当にこれだけ?後は大丈夫?」
「これだけだけど、痛いの」
「火傷のいい薬が有るから。後で塗ってあげるよ。絶対搔いちゃだめだよ。お風呂に浸かるのも」
二人は、そのまま風呂に入れて。僕は久ぶりにスーツケースの中を改めた。
ケースの内側の小さなポケットの中に、絆創膏や包帯に混ざって赤い容器を見つける。これは、何年も前の戦争中にも使われていた実績もある火傷薬だ。
そのポケットの、奥の方に、ずっと無くしていたと思っていた真莉愛と、僕の写真を見つけた。
実に、都合よく、この程度で済んだのは、彼女のおかげだったのかもしれないと、根拠もないセンチメンタルを感じた。あの頃は、辛かった。辛かったけど。
「瑞樹さん瑞樹さん。乾かして下さい」
やがて、風呂に浸からなかった風葉が一足先に風呂から上がってきた。
折角、台所の水を拭いたのに濡れた髪からは、水が垂れている。
「火傷は平気?」
ただでさえ、お湯に浸からず。室温もそこまで高くない、何より、一人だけ風邪をひいたら大変だ。
「少し痛いけど、平気」
風葉は、小さな鏡の前の牛乳パックを束ねて布を被せて作った椅子に座り上下に小さく揺れていた。そのたび、椅子の空気がどこからか漏れて僕を不安な気持ちにさせる。
「髪乾かしてあげるから、これ火傷のお薬」
「うん」
細い髪は、恐らくすぐ乾く。風葉は、薬を受け取ると腹の小さな火傷に塗った。
「・・・・・・・・・き?」
鏡に映る風葉の口がくにゃくにゃ動いた。ドライヤーがうるさくて聞こえない。
「なに?」
「ううん、今日のご飯なぁに?」
「シチュー」
流しにぶちまけられた乾麺は、生煮えで使えないし量も少なすぎる。
早速調理に取り掛かると、音も無く風葉がそっとついて来る。
「ねぇ、瑞樹?」
「なに?」
「・・・なんでもない」
手を止めたりはしない、遅れてしまうし、風葉は、親方ではないのだから。
材料を軽く炒めて、ひたひたに水を張り蓋をした。普段は、蓋は使わない。
蓋をした鍋が沸騰すると蒸気の作用で蓋が激しく動いて熱湯をまき散らす危険が有るからだ。
「ねぇ、瑞樹?」
「なに?」
「・・・・・・なんでもない」
しかし今日は、一瞬でも早くひとりになりたくて、おもわず気が早まる。
シチューにも、野菜は使われているが貴重な生野菜をサラダに使ってしまうか。
結局、左右に何度か揺れて悩んだ挙句、玉ねぎとわかめのサラダを用意することにする。
玉ねぎのスライスは、個体差もあるが大変からい。水で晒す事により、この辛さを少し軽減する事も出来るが玉ねぎの栄養素の多くが水に溶けて流れ出てしまう事にもなる。
良薬だと思い、辛さを我慢するか。美味しさを優先し、栄養素を排水溝に流してしまうのか。この選択は、中々に難しい。
「わたし。辛いのやだな」
サラダを盛り付け、ドレッシングは市販のポン酢とお歳暮でいただいた鰹節をかけた。
火が通り、水を足した鍋はすっかり沸騰しなおして、不規則に激しくカタカタ浮いて。
一瞬開いた隙間から、逃げ出すように熱湯がたびたび噴出した。後は、ルゥを溶かして牛乳で埋めるだけ。
「ねぇ、瑞樹?」
「なに?」
「瑞樹の事、好きだよ?」
「風葉ッ!!!」
いつの間にか風呂場前に立っていた空子は、濡れた髪の水をまき散らしながらこちらに向かってすっ飛んできた。
そして、すぐ後ろで、空子が風葉をぶった。
すると、もう一撃、今度は、風葉が空子をぶった。
「痛いよ。空子」
それから、空子はいつもみたいにめそめそ泣いた。
いつもと違うのは、空子に風葉が寄り添っていた事だった。
それから、食事の前に髪を乾かしてやる頃には、空子はすっかりいつもの調子に戻り。
頼りない椅子を両足の踵で楽しそうに交互に蹴った。
身体の調子が、どうにもおかしい。食べても食べてもどことなく、寂し気な空腹を感じる。
今日は、特別な日なので、思うように、沢山食べた。
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