紫と黄金と

 この地方特有の蒸し暑さと強い日差しと、そしてそれらと相反する遥か遠方の海から運ばれる爽やかな風は、暑さにも海にも慣れていない僕の感覚を大きく乱れさせた。それに引き換え、この地に根ずく人々は、これぞ正に人生と言わんばかりに活発になり、冬などよりも1割ほど肌を日に当て、陽気になっていた。追憶に苦しめられる事から逃れるために、思考はだんだんと機械的に変化し、季節の変化とは裏腹に、冷えていく箇所を温めてくれるのは、いつだって宮下さんだった。

この、小さな希望でわずかに心が照らされるとその下に大きな絶望が有る事にいつも気づかされる。忘れられない事が多く存在しているというのに、唯一忘れる事を許された発見は、毎月しっかりこの人と共に外側から訪れる。


北風と太陽というお話がある。

「こんばんは」

 網戸になった窓から聞こえてくる声は、外壁との間で複雑に反射し万華鏡のような印象を僕に与えた。たとえ、苦しむことになっても機械から血を流さずにはいられない。

僕は、この人が好きだった。

「こんばんは、暑いですね」

「お腹がすいたわ。二人は、きちんと宿題してるかしら?」

髪が長くなったり短くなったり、唇に塗られた軟膏の艶やかさや芳香が変化したり。

スーツが薄手の物になり、銀色の眼鏡が同じく銀色の眼鏡に変わったり。代謝を繰り返す細胞のように、同じようで常に新しく生命力に満ちている。

「夏祭りまでに、終らせると頑張っています。今日は、ドリアです」

水で炊いたり出汁で炊いたり、ほかほかした上に乗せられたふりかけが小魚だったり海苔玉だったり。海苔で包まれても焼かれても、驚異的な事に、如何なる時も、ご飯は美味しい。

一般的なドリアには、金(ゴールド)よりも高価な事で有名なサフランで着色したご飯を用いるが、贅沢はいけない。

「そうですか、河原の6尺祭りの花火ですね。楽しそう」

誰かと、祭りに行くくらいなら。いっその事、祭りになど行ってほしくはないのだけれど。そう考えるのは歪んでいる。胸の内側がかきむしりたくなるほど痒い。

「友達と行くって、浴衣ももうずっと部屋に飾ってて、汚れたら大変なのに」

居間まで続く短い廊下で、背後から音も無く付いてくる気配を感じる。実際に振り返り見たわけでは無いが、その気配は廊下のひんやりとした質感を足の裏で楽しんでいるように思えた。

「こんばんは」

「・・こん、ばんは」「こんばんわぁ」

すぐに、サラダとドリアの用意をする、サラダに使われる野菜は、庭で取れたきゅうりとトマトを水菜と和えたものだ。二人は、水菜が嫌いだから。代わりにほうれん草のお浸しの上にトマトときゅうりを乗せたものを出す。

「二人とも、お祭り行くんですって?誰と行くの?」

宮下さんは、二人に対してとても砕けた態度で接することが段々と増えて来た。きっと、ずっと前からそうする事を望んでいたが、この子達がそれを許さなかったのだろう。

「関係ないじゃん・・・!」

空子の不機嫌な態度は、とても不細工だ。しかし、宮下さんは少しも母性的な優しさを崩さない。

「気を付けるのよ。何かあったらすぐ大人を呼びなさい」

「大丈夫だもん。友達いっぱいいるんだから」「ねえ?宮下さん、お引っ越ししたの?」

門限、と呼ばれる制度が有る。

これは、夕方などに外出した子供に対して、帰宅する時間を約束させる制度だ。

かつて、甲斐老人は、二人に対して何かあったらそん時はそん時だ。と、言っていた。

今の二人を見ても果たして同じことが言えるだろうか?

快活に、一日もさぼることなく学校に通い、子供らしく元気に生活する二人に対して、同じように無関心で

そして、この子達を疎ましく思っていた周囲の大人たちも一貫して同じ態度を取れるだろうか?

少なくとも僕は、子供だけで祭りに行くと言うのには反対だった。

「出来ました。焼きたてで、とっても熱いので気を付けてください」

ぐつぐつと皿の縁が沸騰する、ドリアは、我ながらいい出来だ。

「うーん、美味しそうなにおい。ほうれん草が入ってるのね」

このドリアは、どちらかというと御飯にほうれん草グラタンを乗せて焼いたものに近く宮下さんの物には、多めのチーズと海老が入れてある。

熱々の蒸気で曇った眼鏡の上側の空間から、ドリアの香りを楽しむ宮下さんを覗いた。

続いて、先ほど焼いて少し冷ましておいた二人の分と僕の分を運んで席に着く。

この頃二人は、良く食べる。食事の量が少ないのかもしれない、当時の自分と周りの子供たちと比較を試みるが、当然のように、自分の事も同じクラスの子供たちの事も覚えていなかった。

二人には、こんがり焼いたバタールを三分の一程切ったものを余計に出した。

固く水分量の少ないバタールは、早食い予防にも効果がある。

「んっ早く!んっ!!」「うん」

『いただきます』

この人たちは、僕と違っていただきますをきちんとする。

宮下さんが、一口目を銀色のスプーンですくって熱で蕩けるチーズを伸ばした時、ドリアから立ち上る水蒸気が風に乗り舞い上がり再び宮下さんの眼鏡を春の山道の霞のようにじっとりと曇らせた。その姿を、僕は正面から堂々と観察した。

暑い料理が大好きな宮下さんは、焼きたてのドリアをふむふむ味わった。

僕も続いて、自らの皿の中身を一匙掬い、口に運んだ時、この料理の成功を実感した。

それがわかってしまうと、今日もそれ以上食べる気が失せてしまう。なぜだろう。

ドリアの真ん中の、半ばソースとチーズに溺れているほうれん草を少し崩して、皿の縁のすっかり焦げてカリカリに固まったチーズと共に口に運んでみる。ほうれん草を入れたのは、正解だった。けれども、答案の無い答え合わせには、いつだって不安と恥ずかしさが有るから。口に出して同意を求める事が出来ない。


固く焼いたバタールを隣で空子がザクザクやるたびに後の掃除の工程を思い浮かべては、二人の皿がすっかり空になるのを待っていた。

「ねえ?私にもパンもらえるかしら?」

「はい」

「ごめんなさいね、あんまり美味しそうだから」

「いえ、気が付かなくてすみません」

二人に出したパンと、同じ厚さ同じ焼き加減、異なるところはお皿とポーションバターだけ。

「どうぞ」

パンが焼きあがる頃、宮下さんは、上着を一枚脱いでいた。これが太陽の力。

綺麗に半分残されたドリアの半月の断面は、固まりつつある。

それを卑しく覗き込んで空子が言う。

「ねぇ、ほうれん草嫌いなの?どうして残してるの?」

「え?好きよ?後で食べようかと思って」

ペース配分を考えず、パンを残した状態でドリアを平らげた空子はというと、少し乱暴だった。

「見て空子、バター付いてる。それに、海老もたくさん入ってるよ。・・・いいな」

「海老あげるよ。ほら、空子にも」

二人がそれぞれ、一匙のドリアに夢中になっている間に宮下さんはバターをパンにペリペリ塗って、その上に適度に冷めたドリアとほうれん草を乗せて食べた。

初めからそうしようと計画されていたかのように、そして、その計画が寸分たがわぬ形で結実しその喜びを噛みしめるように。

骨格が、整って、木琴みたいに丈夫で綺麗だから。噛み砕かれるパンの音色はとても美味しそうだ。不慣れに両手でパンをもって小さな口でサクサク食べて。唇に付着する・・・。

「あーん。ねぇあーん」「ううーん。テイスティー」

付着する、あの・・・。

あのパン粉。

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